アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

680 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  光格天皇 ⑦ 譲位院政と追号・諡号(最後の戦い)

2020-04-12 08:22:26 | 日記

⑦ 譲位院政と追号・諡号

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現在の仙洞御所(上皇の住まい)

 

光格天皇は、文化14年(1817年)に譲位し上皇となった。すでに47歳となっていたが、さらに23年間、院政を行う。光格天皇の復古活動の締めくくりは、院政の復活だった。しかし、平安の昔に白河上皇が始めた「院政」であるが、正しくは院庁(いんのちょう)を設けて朝廷政治の主たる決定権を発揮するものであり、光格院政は全く違うものであった。現代に例えると、以前の院政は「代表取締役会長」のようなもので、社長は引退したものの会長室ですべての施策は決定するのである。一方、光格上皇の院政は、「代表権のない相談役」と言うべきだろう。重要事項については天皇から相談を受けるが、成人した子である仁孝天皇があくまでも朝廷政治の主導権をもっていたのである。ただ、在位が長く圧倒的存在感の光格上皇には自然に多くが事前に相談されただろう。そういう意味では実質的には決定過程に関わっていたというべきでもあった。
では何故、院政にこだわったか。一つは現代で言う定年としての天皇の引退を重視したこと、またさらに文化的復古活動に専念したかった、などが考えられる。

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修学院離宮 浴龍池


また、修学院離宮にしばしば行幸し、後水尾上皇の遺徳を偲びながら余生を楽しんでいる。残念ながらその後、自らの意志で天皇位を譲位し上皇になる例は、今上天皇(令和)の父君である平成の上皇まで実現しなかった。そして、遂に天保11年中風の発作が原因で崩御する。後水尾上皇には及ばなかったが、70歳の長寿を全うした。

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円融天皇 (ここから円融院)


光格天皇の最後の戦いは、天皇号である。ここで説明が必要となる。諡号と追号、天皇号と院号を理解せねばならない。まず、桓武とか光孝というのは、諡号であり生前の功績を称えた言わば美称である。一方、追号は、醍醐・冷泉など天皇に因む地名などをつけたもので美称ではない。例外的に、崇徳や安徳のように怨念を生む懸念があった場合には特別な尊号を贈った例もある。しかしいずれも院号であり天皇ではない。村上天皇を最後に子の円融院からは、単に院号を贈っている。その後光格天皇まで、諡号も天皇号もなかったのである。我々は便宜的に、後醍醐天皇とか後水尾天皇とか言っているが、当時では後醍醐院、後水尾院と言うべきだ。その意味では極位にありながら、国民の戒名と変わらず院号だったのである。因みに、将軍家斉は「文恭院」であり将軍も天皇も同じだ。
実際は、子の仁孝天皇が贈ったものだが、光格上皇がその復活を強く望んでいたことは間違いがない。当たり前に使っている天皇号だが、平安時代後半以降、鎌倉・室町・江戸時代と使用されていなかったことを考えると非常に違和感がある。なお、光格もそうだが、仁孝など文字自体に意味はない。年号と同じである。また、現在は年号と天皇号の名が同じなので、諡号というべきかと思う。

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徳川家斉


この項の最後に象徴的エピソードを書く。光格天皇譲位後、文政10年(1827年)に将軍家斉が太政大臣に昇進している。その時の仁孝天皇の「御内慮書」が残っている。それには、「徳川家斉の文武両面にわたる功労はぼう大である。」とし、将軍在位40年に及ぶあいだ、「天下泰平を維持し、将軍の徳はくまなく行き渡っている。」と称え、その功績を理由に、武官の長としてさらに「文官の長である太政大臣に任じたい。」とした趣旨を書いている。歴史上はじめて幕府将軍職と太政大臣をともに生前に給わるという栄誉である。そして、これを見れば、誰が読んでも朝廷が幕府に申し入れ、それを受け入れた結果としか思えない。しかし、事実は、将軍家斉が天皇・上皇に「おねだり」したもので、しかもあくまでも朝廷が決めたことにして欲しいというのであった。さらに、一度は、「御辞退これあるべし、再応のうえ御請け」と、ご丁寧に一度は「断る振り」をすることまで打ち合わせしている。家斉が、「随分と遠慮がちな、謙虚の美徳を備えた人物」と見えるようにしたのである。重要なのは、この結果、朝廷が幕府に恩を売ったことになり、その後幕府から経済的援助や新たな朝議の再興を引きだすことに成功し実を得ていることである。これは光格上皇から仁孝天皇の時代には、すでに幕府と対等かむしろ有利な駆け引きを行っていることを示している。「御所千度参り」の時に、恐る恐る幕府の機嫌を気にしながら交渉した時とは、大きく朝幕関係は変化している。

 

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平成上皇・上皇后陛下
このように光格天皇の戦いは、武力を行使せず、したがって死者が出るわけでもなく静かに深く続いて来た。遂に朝幕関係を逆転し幕末の朝廷主導の政治体制への画期となった。そして、現代に続く朝廷の儀式や習慣の復興と新常識を構築した。言うまでもなく血統としても今の皇室の直系の祖となっていて、上皇という地位も現平成上皇陛下が見習ったことは間違いがない。我々は、後桜町天皇と光格天皇という偉大な二人の天皇の、人徳と戦略のお陰で皇室の存続と発展がなされた事を知らねばならない。