ここまでの経緯を現代社会によくある企業不祥事に重ねて見た。
笑えよ!!
架空実録小説 相談役一件 ※ 写真は本件には一切関係がありません。
成り上がりだが老舗の徳川株式会社は、一代で急成長した太閤株式会社を乗っ取り、あろうことか日本最古の伝統的な有限会社朝廷を買収し子会社とした。巨大な財閥の重要な伝統と文化を担う朝廷は、生産性はほとんどない。つまり赤字経営が常態化しているのだ。朝廷の財政は徳川が担っているが、芸能や儀式に精通した朝廷からは、財閥の継続と権威向上の為、次々に要求が来る。
一方、徳川も創業時の勢いはなく売り上げ低迷と、創業家の無駄遣いが過ぎて倒産の危機を迎えていた。朝廷を資金援助する余裕はないが、しかし朝廷を利用することで、成り上がり企業の正当性を主張して来た為、両者はある意味持ちつ持たれつの関係でもあった。 昨年、朝廷の本社社屋が火災で焼けた時も、旧社屋よりも巨大なビル建設をしぶしぶ認めたのもそのような微妙な力関係の中で決断したものであった。
徳川の常務取締役の定信は、相手の朝廷専務取締役の輔平と、幾度も会談を繰り返し以下のような密約を交わした。①本社社屋再建は認めるが、社長室や役員室の設えは極力質素にすること。②今後、それ以外の財政的援助はしない事。③そのような動きが見えたらお互いのホットラインにて事前に知らせる事。以上の三点を約束した。お互い若い社長を補佐して来たものの、徐々に社長の成長・自立に従って、お互い会社における居場所が無くなりつつあった。
遂に、輔平専務の方が、解任された。その上で、光格社長の実父を社長経験がないにも関わらず、相談役にさせろと言って来た。役員会の席次が専務や常務よりも下位の席に父親を座らせるのが耐えられないと言う。父親は、創業家とは言え傍流の家で、主に文化的活動に専念し経営実績はない。また、本人にもその意欲もない。
徳川でもすぐ話題になった。難しいのは、徳川でも同様の問題があり、社長の家斉は前社長の養子である。実父の治済は本家を出て、のれん分けした一橋家を相続していた。その治済は自身代表権のある会長として会長室に入ることを狙っていた。相談役は実権を行使する事はないが、会長は息子の社長を操る意図も見え隠れする。
従って、朝廷の相談役就任は何としても阻止したい定信は、年上であるが相手の元専務輔平に密約を盾に執拗に脅しをかけた。当然、輔平にはねんごろに賄賂と引退後の生活の保障を約束していた。輔平の方も自分より若い朝廷役員が、我がもの顔で若い光格社長を操るのは許しがたい事であった。自分の方が血筋は社長に近いのに学閥の低いサラリーマン役員の跋扈はプライドが許さない。社長も幼い時は、自分や叔母の後桜町相談役に頼って来たのに今や自分の思う通り経営を行っていた。
そのような事情は、徳川の定信も同様で、若社長が就任した時は「社長心得17条」を上程したほどだったのに、こちらも自分の判断で経営をやり始めた。才能の豊かな定信がそばにいると、社長の判断でも世間は定信のアイデアだと勘違いする。それは定信にも辛いし、成人した社長にはもっと耐えがたい事となっていた。
遂に、朝廷社長実父の高齢を理由に、相談役就任の期限を通告してきた。しかも徳川が許可しないと、重要な株主総会を行わないと無理を言って来たのだ。もはや一刻の猶予もなくなった徳川の定信は、朝廷の役員の更迭と、実父にたいしては、相談役就任を自ら辞退するよう強要してきた。光格社長もここまで強く出られたら断念せざるを得なくなった。そうなれば子飼いの役員の更迭は許されるものと思っていた。
しかし、専務更迭に納得していない輔平の讒言は凄まじく、光格取り巻きの役員の実態を細かく密告していた。相談役一件の主犯格の役員の名前まで詳細に報告されていた。役員更迭の場合、通常は、子会社であっても伝統ある朝廷の場合、事前に知らされるのが慣例だった。しかし、それを無視して定信は一気に更迭を、しかも本人たちを徳川本社に呼びつけて断行した。
光格社長の歯ぎしりが、聞こえてきそうな事態であった。ただ、この事は朝廷に同情の風潮を生み、世間には、父の相談役就任が実現したような実録小説が出回る始末だ。世の中は朝廷の復権が、日本財閥の復活には欠かせないとの考え方が台頭しつつあったのである。十数年後、実際徳川は、京都の二条城営業所内部の大部屋で朝廷に経営権(大政)を返上(奉還)した。これを明治維新という。