美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

魂が入ってるって?

2014-07-03 15:38:40 | レビュー/感想
自分にとって、作品の良し悪しを見分ける上で中心に置いている基準は思いのほか単純かも知れない。技術が多少伴わなくても「魂」が入ってるかどうか、ということだから。ルオーは晩年、彼が良しとしない作品を大量に暖炉の火にくべたが、灰になったのは「魂」が入っていない作品ではなかったろうか、とふと思う。しかし、「魂」とは目に見えないものである。信仰と同じように、本物と偽物を見分ける判断基準(信仰で言えば信条)をあげて、すべてクリアしました、といっても、それで「魂」が入った作品になるとは限らない。柳宗悦が民藝の美を規定した本を何冊か読んだが、彼も同じジレンマに落ちいってるようだ。これが自分が選んだ(つまり魂が入った)作品についての素直なエモーションを開陳するだけならよいが、その理由を項目だてて挙げ立てることになった。これには彼が当時抱いた近代化に対する深刻な危機感と「民藝運動」の唱道者としてのバイアスがあるのだろうが、新たな「律法」となり、枷となり、後身は中世の職人のように無心であることを強いられることとなる。魂の入ってない技巧偏重の風潮に対して「下手」の美を唱えるのは良い。

しかし、実際にはリンゴを食べる以前のアダムにはもどれないように、もはや誰も古代や中世の職人にはすんなりと戻れない。われわれは意識的に進み、いつしか意識を超えなければならないという困難な課題を背負わされている。強烈な自意識と本能だけで這い上がって来た魯山人が、そんな柳に、恵まれた出自の大正教養人特有の理想主義の偽善的な匂いをかぎとって、激しく噛み付いた理由もむしろよく分かる、気がする。自由とはやっかいなものだ。近代人である創作者は個であることを引き受けて、存在をかけて、芸術の魂を追い求めて行かなければならない必然を持っている。願わくはその狭い道が、狷介、固陋な閉じこもりの道ではなく魂の自由と喜びの根拠としての神と共同性を新たに見いだす営為とならんことを。

一方、こんな面倒な「魂」なんぞないという立場からすれば、そんなの単に個人の好みじゃないか、ということにもなろう。現実、その結果、マーケッティングの父とも呼ばれるF.コトラーばりに、これまでの美術の歴史を総覧して、新しいオリジナルのカテゴリーづくりに意識的にいそしむ、美大出のなかなか利発な「アーティスト」も出て来る始末だ。それで現実にそんなすき間狙いが美術市場で大当たりをとる例もあるわけだから、勝てば官軍。今の時代、作品の魂の有無なぞ世迷いごとに過ぎないのだろう。明治以降は西洋のイミテーションのそのまたイミテーションにしかならないが、それ以前の世界文化の蒸留装置のような日本はすき間狙いの材料には事欠かない。そうした目ざといゲーマーのようなアーティストが江戸をほっておかないのもよく分かる。しかし、まだ市場経済では価値変動という調整機能があるが、江戸以来の村社会が下敷きになっている特殊社会主義的な日本では、そんな浅はかな下心が肩書きや団体となって価値を恒久的に固定化してしまうことになるなら、もっと干涸びたひどいことになりはしないか。

ブログ主の運営するギャラリーshopはこちらです



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「いいかげん」は難しい | トップ | 手塚治虫×石ノ森章太郎 マン... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

レビュー/感想」カテゴリの最新記事