日本の政治は3流とは昔からよく言われていることです。今、イスラム国につかまっている日本人をめぐり報道が多くありますが、日本政府としてはなんら対策が打たれていないように見えます。逆になぜこのような問題が起きているのかが疑問に思う事が多くありますが、そのことに対して日本政府の認識や対応のまずさを指摘している記事が The Huffington Post にあります。以下転載します。
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最優先すべきは命だ
投稿日: 2015年01月26日 09時57分 JST 更新: 2015年01月26日 13時43分 JST
森達也 映画監督、作家
イスラム国による二人への殺害予告がなされてから二日が過ぎた22日未明(日本時間)、岡村善文国連次席大使は国連総会で、イスラム国を批判しながら「日本はテロや暴力に屈しない」と演説した。とても当たり前のこと。「テロに屈する」という選択肢など存在しない。ならばなぜ二人の安否がわからないあの時点で、敢えてイスラム国を挑発するようなフレーズを、次席大使は世界に向けて言わなくてはならなかったのか。そこに官邸の意向はどのように働いていたのか。
世界ではアメリカ同時多発テロ以降、そして日本では地下鉄サリン事件以降、テロは社会に挑戦する絶対悪となった。その帰結として言葉のインフレが加速した(特にこの国では)。つまり濫用だ。その結果として解釈が拡大される。要するに何でもかんでもテロ。2013年にボストンで爆破事件が起きたとき、日本の主要メディアはテロとしてこれを伝えたけれど、アメリカのメディアはテロを使わなかった。今もこの事件の呼称は、アメリカではBoston Marathon bombingsと素気ないが、日本ではボストンマラソン爆弾テロ事件だ。
アメリカのメディアがテロという言葉を使わない理由は明確だ。実行犯の兄弟二人は、何の政治的声明も発信していない。ならばこれはテロではない。単なる爆破事件なのだ。
テロの定義は、何らかの政治的目的を達成するために、暴力による脅威で標的を不安や恐怖に陥れること。暴力行為だけではテロの要件を満たさない。政治的な目的が必要なのだ。だからこそノーム・チョムスキーは、アメリカをテロの常習国家と呼ぶ。
ところが動機すら解明されていないオウムによる地下鉄サリン事件がテロと躊躇いなく呼ばれるように、日本のメディアは、「テロ」をとても安易に使う。その結果として数々の弊害が生じる。その一つが「テロに屈するな」の濫用だ。
ここまでを読みながら気づいた人もいるかもしれない。身代金要求は政治目的とは違う。いわば営利誘拐そのものだ。つまりこれを「支払う」ことは「テロに屈する」と同義ではない。でもこれを混同している人が多い。何よりも官邸がそうだ。そうなると交渉することそのものも、テロに屈したということに拡大解釈されてしまう。
もちろん支払うことが国際社会に与える政治的影響は看過できない。何よりも一度支払えば、反復されるリスクがある。だからこそ現時点での最善策を考えること、交渉し続けることが重要だ。屈しないために考えるべき方法はたくさんある。実際に今は、違う選択肢がイスラム国から提示されている。ただしこの選択肢はきわめて政治的だ。この要求に従うことが、むしろ「テロに屈する」ことなのだとの意識くらいは保持すべきだ。
そのうえで最優先は命を救うこと。そのための策を練ること。実行すること。当たり前だ。
報道によれば、11月の段階で後藤健二さんの家族に、イスラム国から身代金の要求があり、12月には政府にこれを伝えたという。つまり官邸は二人への身代金要求を知っていた。
その後は極秘裏に人質解放のための交渉を続けていたと思いたいが、ならばよりによってなぜフランスのテロ直後に、二人が拘束されていることを知りながら、安倍首相はイスラム国と敵対する国ばかりを訪問して、連携の強化や対テロのための高額の支援を表明しなければならなかったのか。さらにアラブにとってはパレスチナ問題で長年の宿敵であるイスラエルを訪れて、日章旗とイスラエルの国旗の前で『テロとの戦い』を宣言しなければならなかったのか。殺害予告の期限が近づいている22日に国連の場で次席大使に、あんなパフォーマンスをさせなければならなかったのか。
テロと戦う。このフレーズを掲げながら集団化を進めたアメリカはイラク戦に突入し、結果としてイスラム国が誕生した。すべてが連鎖している。それも最悪の方向に。なぜイスラムの一部はこれほど西側世界を憎悪するのか。その構造を理解すれば、二人の国民が拘束されているこの時期に、イスラエルなどに行けるはずがない。挑発と解釈されて当然だ。
もしも12月の段階で政府が本気で交渉していたのなら、身代金の金額は桁違いに低かったのだから、今ごろは二人が帰国できていた可能性はとても高い。なぜそれをしなかったのか。「テロに屈する」とか「テロと戦う」などのフレーズが交渉のブレーキになったのだとしたら、あまりに意識が低い。優先順位を決定的に間違えている。
およそ10年前、イラクで一人の日本人若者が殺害されたとき、この国は何もできなかった。悔しかった。何もできない自分が腹ただしかった。もうあんな思いはしたくない。
結果的に官邸は二人を救出できる芽を摘んだ。さらに火に油を注いだ。それも何度も。しかも二人が拘束されて身代金の請求があったその時期に、安倍首相は(大義なき)選挙に踏み切った。使われた税金は600億円。致命的なミスを何度もくりかえしている。命を軽視し続けてきた。
その帰結としてハードルはどんどん上がっている。ついには一人が殺害された。犠牲になった。「言語道断」とか「許し難い」などと常套句を口にしている場合ではない。許し難いとは許すのが難しいということ。ならば一人を殺されても許せる余地があるのか。あなたの怒りはそのレベルなのかと、メディアは突っ込むべきだ。
国益が大好きな日本のメディア関係者やジャーナリストや識者たちに言いたい。国益とは国の利益。でも確認するけれど国益の最優先は、国民の生命のはずだよね。
ならばその国益が明らかに犯されようとしている今、なぜこれを放置し続けた政権を批判しないのだろう。なぜ見過ごしているのだろう。なぜ本気にさせないのだろう。
これ以上は過ちを重ねないでほしい。もう一度書く。最優先すべきは命だ
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最優先すべきは命だ
投稿日: 2015年01月26日 09時57分 JST 更新: 2015年01月26日 13時43分 JST
森達也 映画監督、作家
イスラム国による二人への殺害予告がなされてから二日が過ぎた22日未明(日本時間)、岡村善文国連次席大使は国連総会で、イスラム国を批判しながら「日本はテロや暴力に屈しない」と演説した。とても当たり前のこと。「テロに屈する」という選択肢など存在しない。ならばなぜ二人の安否がわからないあの時点で、敢えてイスラム国を挑発するようなフレーズを、次席大使は世界に向けて言わなくてはならなかったのか。そこに官邸の意向はどのように働いていたのか。
世界ではアメリカ同時多発テロ以降、そして日本では地下鉄サリン事件以降、テロは社会に挑戦する絶対悪となった。その帰結として言葉のインフレが加速した(特にこの国では)。つまり濫用だ。その結果として解釈が拡大される。要するに何でもかんでもテロ。2013年にボストンで爆破事件が起きたとき、日本の主要メディアはテロとしてこれを伝えたけれど、アメリカのメディアはテロを使わなかった。今もこの事件の呼称は、アメリカではBoston Marathon bombingsと素気ないが、日本ではボストンマラソン爆弾テロ事件だ。
アメリカのメディアがテロという言葉を使わない理由は明確だ。実行犯の兄弟二人は、何の政治的声明も発信していない。ならばこれはテロではない。単なる爆破事件なのだ。
テロの定義は、何らかの政治的目的を達成するために、暴力による脅威で標的を不安や恐怖に陥れること。暴力行為だけではテロの要件を満たさない。政治的な目的が必要なのだ。だからこそノーム・チョムスキーは、アメリカをテロの常習国家と呼ぶ。
ところが動機すら解明されていないオウムによる地下鉄サリン事件がテロと躊躇いなく呼ばれるように、日本のメディアは、「テロ」をとても安易に使う。その結果として数々の弊害が生じる。その一つが「テロに屈するな」の濫用だ。
ここまでを読みながら気づいた人もいるかもしれない。身代金要求は政治目的とは違う。いわば営利誘拐そのものだ。つまりこれを「支払う」ことは「テロに屈する」と同義ではない。でもこれを混同している人が多い。何よりも官邸がそうだ。そうなると交渉することそのものも、テロに屈したということに拡大解釈されてしまう。
もちろん支払うことが国際社会に与える政治的影響は看過できない。何よりも一度支払えば、反復されるリスクがある。だからこそ現時点での最善策を考えること、交渉し続けることが重要だ。屈しないために考えるべき方法はたくさんある。実際に今は、違う選択肢がイスラム国から提示されている。ただしこの選択肢はきわめて政治的だ。この要求に従うことが、むしろ「テロに屈する」ことなのだとの意識くらいは保持すべきだ。
そのうえで最優先は命を救うこと。そのための策を練ること。実行すること。当たり前だ。
報道によれば、11月の段階で後藤健二さんの家族に、イスラム国から身代金の要求があり、12月には政府にこれを伝えたという。つまり官邸は二人への身代金要求を知っていた。
その後は極秘裏に人質解放のための交渉を続けていたと思いたいが、ならばよりによってなぜフランスのテロ直後に、二人が拘束されていることを知りながら、安倍首相はイスラム国と敵対する国ばかりを訪問して、連携の強化や対テロのための高額の支援を表明しなければならなかったのか。さらにアラブにとってはパレスチナ問題で長年の宿敵であるイスラエルを訪れて、日章旗とイスラエルの国旗の前で『テロとの戦い』を宣言しなければならなかったのか。殺害予告の期限が近づいている22日に国連の場で次席大使に、あんなパフォーマンスをさせなければならなかったのか。
テロと戦う。このフレーズを掲げながら集団化を進めたアメリカはイラク戦に突入し、結果としてイスラム国が誕生した。すべてが連鎖している。それも最悪の方向に。なぜイスラムの一部はこれほど西側世界を憎悪するのか。その構造を理解すれば、二人の国民が拘束されているこの時期に、イスラエルなどに行けるはずがない。挑発と解釈されて当然だ。
もしも12月の段階で政府が本気で交渉していたのなら、身代金の金額は桁違いに低かったのだから、今ごろは二人が帰国できていた可能性はとても高い。なぜそれをしなかったのか。「テロに屈する」とか「テロと戦う」などのフレーズが交渉のブレーキになったのだとしたら、あまりに意識が低い。優先順位を決定的に間違えている。
およそ10年前、イラクで一人の日本人若者が殺害されたとき、この国は何もできなかった。悔しかった。何もできない自分が腹ただしかった。もうあんな思いはしたくない。
結果的に官邸は二人を救出できる芽を摘んだ。さらに火に油を注いだ。それも何度も。しかも二人が拘束されて身代金の請求があったその時期に、安倍首相は(大義なき)選挙に踏み切った。使われた税金は600億円。致命的なミスを何度もくりかえしている。命を軽視し続けてきた。
その帰結としてハードルはどんどん上がっている。ついには一人が殺害された。犠牲になった。「言語道断」とか「許し難い」などと常套句を口にしている場合ではない。許し難いとは許すのが難しいということ。ならば一人を殺されても許せる余地があるのか。あなたの怒りはそのレベルなのかと、メディアは突っ込むべきだ。
国益が大好きな日本のメディア関係者やジャーナリストや識者たちに言いたい。国益とは国の利益。でも確認するけれど国益の最優先は、国民の生命のはずだよね。
ならばその国益が明らかに犯されようとしている今、なぜこれを放置し続けた政権を批判しないのだろう。なぜ見過ごしているのだろう。なぜ本気にさせないのだろう。
これ以上は過ちを重ねないでほしい。もう一度書く。最優先すべきは命だ