お盆 5

2007年07月19日 | Weblog
まあ、日本も根底にシャーマニズム的な土壌があるのは事実ですが、それを何か未開の地の習俗とか低次の宗教的要素と捉えるのはヨーロッパ的な、あるいはプロテスタント的な発想です。きわめてインド的な要素を持っている禅宗という宗旨でも初詣の人を集め無事息災を祈り、また、特別な祈祷もやっています。もちろん葬儀は行いますし、回向、法事も行っています。「不立文字」(ふりゅうもんじ)といって、お釈迦様の経典などに頼らない、自分の力で悟りを開くなどというのが禅宗の旗印ですが、やっぱり般若心経とか、お経も読まないと格好が付かないというのか、読んでいるようです。
やはり、日本人の心の中には「霊魂」あるいは漠然と「たましい」の存在をどこかで認めているところがあります。ですから、日本人は宗教に対してインド人のように純粋に、哲学的アプローチをしようとはしません。どちらかといえば、もっとどろどろとした人間くさいアプローチをこころみるということができそうです。実際、魂ということを抜きにして語られる宗教ほど、そらぞらしいものはないように感じてしまいます。仏教学者が、よく「初期の仏教は霊魂の存在を認めていなかった」とか、「釈尊は、霊魂はあるかないか、世界は有限か無限か、などという形而上学的な難問には答えられず沈黙を守られた。(捨置記)それが釈尊の答であった」といようなことを得得と述べることがあります。
これは確かに、小乗仏教の経典にそのようなことが述べられています。
しかし、それは私が思いますのに、まさに方便の教えで、まだ真実を明かす前の教説で、お釈迦様の教えのすべてが霊魂を否定的に見ているのではありません。
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