先住、日玄上人の23回忌正当

2010年01月15日 | Weblog
1月15日は先住、日玄上人の23回忌御正当の日です。
日玄上人は私の師匠でもあり、父親でもあり、やはり、人生の中で大きな影響を受けました。
年齢差が42歳もあり、父という感覚、親子という情感を感じたことは子どものころ、あまりありませんでした。
私が19歳で得度してから、同じ佛立教務同士となったことには違いありませんが、何しろ師弟という間柄でしたから、かなりの距離がありました。
ほんとうに距離感が縮まり、親子の感覚が芽生えたのは、日玄上人が亡くなる1年半前に私が住職を継いでからです。
父は、私に対して少しライバル的な感覚で、若い者になど負けまいとがんばり、毎日のように私は怒られるようになりました。時には、私が言葉を返し、感情的になることもありました。
いま考えてみますと、もし、そういうやりとりをした1年半がなければ、本当の親と子、師匠と弟子になっていなかったと、ある意味で感謝しています。
22年前の1月15日、成人の日でしたが、お寺の行事が終わり、私が翌日の佛立教育専門学校での授業のため、泊まりがけで京都に向けて出発しようとした時のこと。
「これから京都に参ります」と挨拶をしたところ、父は「京都に行くのか?」と少し、意外というか、なぜ行くのか?というような口調で、背後にいる私の方をほんの少し振り返り言いました。
私は、何かひっかかりながらも、カバンを持ちコートを着て玄関で靴を履き、ドアから外に出ようとしました。でも、急に気が変わり、今日は止めておこう。明日の朝でも一番電車に乗れば間に合う。そう思って、身支度を整えていたのですが、また、普段着になりました。
その2時間後くらいでした。父、日玄上人は体調が急変し、病院で心臓マッサージ等、行いましたが、そのまま遷化、亡くなったのです。
また、18日の葬儀告別式の日、不思議なことがありました。
一山の導師の出棺ですから、長い葬列をくんで題目旗を先頭に、奉修導師小山日幹上人はじめ参列教務や、お位牌や写真、棺は8人くらいでかつぎ、本堂から階段を下がって玄関、そして外へと順次、進んでいきました。葬列が長いため、お寺の玄関から5、60メートル先に霊柩車が止まっています。葬列が外へ出たとたん、急にビュービュー音を立てて強風が吹き始め、衣が舞い上がり、旗は音を立てていました。雲一つない青空だったのが、一天かきくもり、暗くなり、その上、上方では空気が渦巻いています。ごろごろと雷鳴まで聞こえました。まさに、諸天善神がお迎えに来たと実感せざるを得ない状態です。
「二聖二天十羅刹女は受持の者を擁護し、諸天善神は蓋をさし、幡をあげて我らを守護して確かに寂光の宝刹に送り給ふべき」(如説修行抄)
と日蓮聖人が仰せの通りの情景でした。
このことだけは、深く心に刻まれています。


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