朝の本山

2007年06月20日 | Weblog
早朝、本山宥清寺に参詣させて頂きました。
私は生まれも育ちもお寺の中でしたから、外からお参りすると新鮮な感じです。
先月末に京都に戻られた御講有・小山日誠上人のお元気なお姿を拝見しました。
人間には生老病死の四つの苦悩がついて離れない、これを克服して強く生きるようみ仏は教えてくださっています。一般論として生老病死の苦しみについて語ることは易しいことですが、これが家族の問題、自己の問題となったときは感情なしに語ることはできないでしょう。
実際に苦しみを超克せよと言われても、われわれ凡人にはいかんともしがたいものがあり、苦しいときは苦しいと言いたくなりますし、言えばなお苦しみが増します。それでも苦しいと叫ぶのが凡夫の性です。そんな私たちは、何かにすがり、何かを拠り所として、苦しみがなくなり、軽減するよう祈ります。その祈りはけっして心が弱い人がするものとは言えません。どんな屈強なアキレスでも横綱でもケガをしたり不安があります。そのとき、祈る人は逆に素直な心の持ち主といえないでしょうか。
佛立開導日扇聖人は、病は善知識で、人生の良き教師であるとたびたび教えてくださっています。凡夫の祈りによってこそ信心が起こり、信心が深まるもの、やがてその人は仏道にいそしみ、不退転の信心を身につけ成仏に至るものであるとされています。
また、日蓮聖人も「病によりて道心(道を求める心、信心)はおこり候か」と言われています。
ともかく、人間は生きている以上、誰でも病気やけが、あるいは老化、そして死も避けることはできません。そのような危機に直面したとき、私たち佛立信者は祈ることを知っていて、しかも実際にみ仏のお計らいをいただく「頂き方」を知っていることは本当に心強いことです。
膝の手術も無事に成功し、かなり回復された御講有上人が本山のご信者の御祈願を一生懸命なさっている声をお聞きして、安心して宿に帰ってきました。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする