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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨日は、定位置の椅子に座ることで金魚は餌の時間だと判断するのかも、と思ったが、どうやらそうではなかった。違う場所にいても餌くれ、とやっている。餌のやり過ぎは寿命を短くする、といわれるが、私は連中をより大きくする方向に決めている。アマチュアの飼育家は、勤め人はなかなか目が届かないことを嘆いている人がいるが、私の場合はそうではないので、消化不良に気を付けながら、少量の餌を何回もやっている。そう書いていて、常に餌くれとジタバタして、優雅な様子を見せないのは、私が悪いのであろう。躾がなっていない。しかし、これから寒くなる季節に向け、徐々に餌を減らして行くことにする。拾得のホウキが、いつの間に柄を残して食われていた。ミニチュアのホウキをまた買おう。最新知ったのだが、金魚も喉の奥に磨り潰し用の歯があるそうだ。 寒山と拾得は、文殊菩薩と普賢菩薩だということは知っていたが、いつも虎に乗っている豊干は、実は阿弥陀如来だという話がある。寒山詩の序には、そのことは触れていない。どこかで、ちらっと目にした時は、見なかったことにしよう。と思ったのだが、某書ではっきり目にしてしまった。聞いてないよーという話である。最後まで知らなかったことにするか、それに対する演技プランは後で考えることにする。 最近二軒飲み屋を開拓した。昨年まで住んでいた所では二十年で二軒であったが。私が通う店といったら、テーブルに味の素が置いてあったり、今日の店は壁に”二級酒“とあった。勿論それをオーダーしたのは言うまでもない。

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浮世絵的遠近感は、建造物、建具その他、直線的なものが効果的なのは当然である。だがしかし、私のようなぶきっちょが、逆遠近的に歪んだ建具など作れるわけがない。しかも例によって、たった一カットの為だけに。腹の中では冗談じやない、といつものように思っているのだが、この私がやってみないで諦めるとは思えない。水槽の水替えをしながら方法を一つ思い付いた。これならば作れるかもしれない。名案だと思うが、書かないでおく。作例を見せられるのならまだしも、聞かされた所で感心するわけにも行かないような話であろう。今の所イメージは、私の中にしかなく、説明もし難い。結局私の頭の中のイメージは、取り出して可視化しない限り、そんな事ばかりである。無い物は撮影も出来ない。これも芭蕉あんの構造について考えなければ思い付かなかっただろう。今までもこうやって枝葉を伸ばすように、チビチビと変化を続けてきた。山々など不定形なものはともかく、建造物である、家や寺院などは、すべて歪ませてみたい。というより人家が歪んでいたなら、寺院も歪んでいなくてはならない。果たして逆遠近法を試して失敗した『ゲンセンカン主人』のリベンジなるか。しかし私ほどの面倒くさがりはそうはいないと思うが、こうやって益々面倒な方向に向いて行ってしまう。皮肉なものである。 

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浮世絵的遠近感は、建造物、建具その他、直線的なものが効果的なのは当然である。だがしかし、私のようなぶきっちょが、逆遠近的に歪んだ建具など作れるわけがない。しかも例によって、たった一カットの為だけに。腹の中では冗談じやない、といつものように思っているのだが、この私がやってみないで諦めるとは思えない。水槽の水替えをしながら方法を一つ思い付いた。これならば作れるかもしれない。名案だと思うが、書かないでおく。作例を見せられるのならまだしも、聞かされた所で感心するわけにも行かないような話であろう。今の所イメージは、私の中にしかなく、説明もし難い。結局私の頭の中のイメージは、取り出して可視化しない限り、そんな事ばかりである。無い物は撮影も出来ない。これも芭蕉あんの構造について考えなければ思い付かなかっただろう。今までもこうやって枝葉を伸ばすように、チビチビと変化を続けてきた。山々など不定形なものはともかく、建造物である、家や寺院などは、すべて歪ませてみたい。というより人家が歪んでいたなら、寺院も歪んでいなくてはならない。果たして逆遠近法を試して失敗した『ゲンセンカン主人』のリベンジなるか。しかし私ほどの面倒くさがりはそうはいないと思うが、こうやって益々面倒な方向に向いて行ってしまう。皮肉なものである。 

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浮世絵的逆遠近法は、普通に考えるなら、撮った写真をフォトショップで加工することになるだろう。パーツとして切り抜き組み立て、歪ませやってみたが、これが成分が写真であると、よほど歪んでないと効果が出ない。ちっとやそっと歪んでいるくらいでは、それがどうした、という感じなのである。浮世絵を気取って、燈火器尽くしというのを制作してみたことがある。撮影用に集めた行灯、燭台などを並べて見たのだが、遠近感がちょっとヘンなのは判るのだが、中途半端。グループ展の展示を2度差し替え、結局諦めた『ゲンセンカン主人』に次いでの惨敗であった。これは真などとは一切関わりたくない、と写真という言葉を嫌いながら、考えてみると、真を写す、という見る人の写真への思い込みを利用していた私への、写真からの反撃、バチが当たったということではないか。 陰影を削除することで充分成果はあり、作品を作り続けている。遠近法まで、手を出すべきではない、ということなのであろう。ところが昨日のブログで書いたが、写真を加工するのではなく、背景をあらかじめ歪ませて作って撮影してみたらどうか。私には経験上、馬鹿馬鹿しく面倒で、止めておいた方が良いのではないか、ということを試みた時に限って、創作の神が味方してくれる。という思い込みのせいで、あげくに寒山拾得、なんてことに至った。 背景をあらかじめ逆遠近法で作っておいて撮影する。これは私が今までしでかして来た中でも、馬鹿馬鹿しさにおいては飛びっきりではないか? ギャラリーで『寒山拾得写真展』なんてやっていたら、会社を勤め上げた老人が、中国の深山や臨済宗の寺院で座禅したり庭をホウキで掃く坊さん:等をアナログカメラでモノクロで撮った写真展だろう、実につまらなそうだ、と通り過ぎられてしまうのがおちである。そうではないところを多少は見せなければならない。

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寒山拾得に関しては、寒山詩にも踏み込まなければならないが、やはり序文の面白さである。最後ゲラゲラ笑いながら去ってしまう寒山と拾得。置いてけぼりにされるのは、作中の閭丘胤だけではない。この後味こそが寒山拾得である。数年前、三遊亭圓朝が眠る谷中の全生庵の圓朝旧蔵の幽霊画公開のおり、巨匠連の幽霊画像と共に私の圓朝像を展示させていただいた。余談であるが、記念に展示姿を撮影させていただいたのだが、期間中、幽霊画のなにかを吸い込んだか、ソニーのα7はピントは合わない、露出もヘン、1カットも、まともに撮れなかった。私自身も、急にカメラの扱いが判らなくなった。搬出の際、全生庵が臨済宗の禅寺だと初めて気が付き、これは寒山拾得をやれ、ということか、と玄関先で対応いただいたお坊さんにいずれ寒山拾得を制作しますと、口走っていた。いっそのこと座禅会にでも参加して住職に教えを請いたいところだが、肝心なことはあくまで自分の中から取り出した物で制作するのがルールである。 寒山と拾得は、実は文殊と普賢菩薩なのだという。金魚に名付ける人間いれば、会社に付ける人もいる、また原発に名付ける人さえいる。私は本来人間も自然物。その自然物が作ったといことでいえば蟻の作った蟻塚も人間の作った原発も変わりがないといえよう。だがしかし。自然物である私は、草木同様、へそ下三寸辺りから聞こえて来る声に従っていれば、頭で判らなくとも結果は必ず良い。頭を使って作った物にロクな物はない、と早々に気付いたからである。それは廃れて久しいオイルプリントを写真の素人である私が独学で実験を始め、周囲には反対されるし、何より私自身が人形も作らず何をやっている。とハラハラしていたが止められなかった。今はオイルプリントを手がけてはいないが、あの経験が有形無形、直接間接、今の私を作るためにどれだけ貢献しているか計り知れない。 余計な頭を使ってヘンな物を作らないように、今は金魚を眺めている。座禅するより楽で楽しい。

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被写体から陰影を廃するという最初の試みは正確にいうと『鏑木清方作三遊亭圓朝像へのオマージュ』ではなくバストアップの圓朝の周囲にヒトダマが浮かんでいる作品であるが、手がけるまで時間がかかった。一月くらい、頭の中で圓朝がずっとこちらを見てたのを憶えているが、当時のブログには、あの頃の葛藤が書かれているはずので、我が大リーグボール3号の完成の流れをいずれ読み直してみたいが、憶えているのは、ヒトダマのことである。寄席や、映画で使われたような、真綿に焼酎を浸ませて火を点けたようないわゆる”焼酎鬼火“あんなダサイ物は絶対に撮りたくない。結局、半紙に墨汁で筆描きした物を反転し、重ねて使った。以降、蠟燭の灯りも筆描きとなる。後で考えてみると、陰影を排除するということは、艶や、光の反射にも制限がかかる。よつて実に合理的な手法なのであった。円谷英二同様、火と水には苦労する。 手塚治虫のジェット、ロケット噴射は蠟燭の灯のようである。蠟燭の火を撮影してみたが、出力不足は否めず。噴射を強めた。寒山拾得でも焚き火あたりが、登場しそうである。それはまた筆描きするとして、問題は水である。陰影がないということは、艶もなければ反射もなく、また空気感もなくはないが難しく、いいずれにせよ四元素には工夫が必要となる。



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幼稚園の頃からの幼馴染みのYと、小学4年で同じクラスになり、彼の影響で熱帯魚を始めた。中学の飼育部で、予算を多く撮り過ぎ、非難の的になり、その風向きを変えようと、熱帯魚の丸呑みショーを企画し、見事に失敗して、涙目の部長を残し二人逃げた話しは書いた。江戸川の金魚の 養殖場に入ってしまって叱られたり。彼とは随分会っていないが、熱帯魚かららんちゆうに転向したという話をかすかに憶えていた。彼は地元で美容院を経営しており、美容学校時代は友達のよしみでパーマ他随分実験台になった。店の名前は私が考えたので、検索して店に電話をしてみたが、このご時世、早仕舞いだそうで、何度かかけて、今日ようやく通じた。引っ越ししたことや、お互いの近況、親のこと、話すことは山々あれど、そんなことよりまずは金魚である。 彼は椎間板ヘルニアのせいで水替えができなくなり、十年前に止めたという。数年前にたまたまあった時は、私が金魚に興味がなかったので、らんちゆうを止めた話は出なかった。 彼はらんちゆうの愛好会に入っていたことは知っていたが、実は優勝を果たし、しまいには審査員もやっていたそうである。ユーチューブによると、一般の愛好家のように、店で市販の金魚を飼って育てるというレベルではないことは知っていたので、教室の金魚が病気になり、ビタミン不足だと知り、家からレモンを持ってきて水槽に絞ったYが、と感慨深かった。近いうちに会って金魚の他、学芸会や飼育部、その他で、我々のしでかしてきた様々について語り合うことにした。

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ペットにたいして飼い主は、何でも可愛らしく見えるらしい。そういわれても私には大体、普通の犬や猫にしか見えない。しかしウチの金魚に限れば、わざわさ不細工だから、という理由で選んでしまった寒山こと桜東錦を別にすれば、間違いなく可愛い。暗い部屋でライトを点けて眺めていると唖然とするくらいである。生き物が発する色彩は格別である。 女子中高生などは寄ると触るとカワイイを連発しているが、以前、泉鏡花原作”貝の穴に河童の居る事“をビジュアル化して出版した際、間違ってもカワイイとは言わせないよう、心がけた。女性がカワイイと発音するとき、副音声でオイシソウと聞こえてしまうのは、高校を卒業し、入学した工芸学校で、すぐに親睦を兼ねた合宿があり、キャンプファイアーを囲んで酔っぱらつて皆で寝てしまった。夜中に目が覚めると満点の星空、3人の可愛らしい先輩が肩を寄せ合い語らっている。この前までいた男子校とは雲泥の世界である、うっとりしていると、3人の彼女らの、誰君は柔らかそう、誰君は筋ばってるから煮込んだ方が良い、と男子を喰う話が聞こえて来た。 可愛いいから、と新入りのオランダ獅子頭を拾得に昇格させ、拾得を寒山に、不細工で選んだ寒山をベランダに、と考えてしまったが、水替えして眺めていて、やはり同じ桜東錦同士、寒山と拾得とすることにした。新入りのことはまた後日。最終的に、この六十センチ水槽には、寒山と拾得、豊干と豊干の乗る虎、くらいにしたいところである。 絵巻調に描く予定だが、せっかく時間経過を表すには絶好のフォーマットである。頭痛に苛ま苛まれる閭丘胤のところに旅の僧、豊干が訪ねて来て、最後、寒山と拾得が笑いながら何処かへ行ってしまうところまで、寒山詩集の序に描かれたストーリーをそのまま描いてみるのも面白いかもしれない。

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一日  


新作が一番良いと感じるのは作家としては何よりだが、一つには目が慣れておらず新鮮に見える、ただそれだけ、ということもあるだろう。同じように、水槽内に新入りが入ってくるたび、目移りして主役を換えているようでは先が思いやられる。金魚を眺め、寒山拾得制作に備え、といっても、直接金魚自体を参考にして、という訳ではないので、いい加減にしておかなければならないだろう。他の連中が私の姿を見ると、餌を投入する水槽の左側にいつも集まっているのだが、寒山だけが、未だに一匹、右側にいて、斜め上を見ている。中学生になると、急に押し黙り、遠くを見る目になったりする奴がいたものだが、あれを思い出した。相変わらず食欲は大勢なのでそれほど気にはしていないが、主役が一匹、そっぽを向いているのもどうか。今週中には、寒山拾得の朗読CDが届くだろうから、その時に考えよう。私も新入りが来るたび、可愛い、などといってそちらの方に目が行ってしまうが、寒山と拾得は、本来、薄気味の悪さが持ち味である。そうこうして、芭蕉庵も、設置方法その他、記念館と確認し、そろそろ制作に入りたいところである。芭蕉の樹はともかく、深川に置かれるのであるから、古池もなんとかしたいところである。こうすれば可能か、と考えてはいるが、果たしてイメージ通り行くものかどうか。それこそやってみなければ判らない。ドールハウスやミニチュアを作る人はいるが、私が作るのであるから、その精巧さに関心してもらうより、あくまでも芭蕉像が引き立つことばかり考えてみたい。

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寒山こと桜東錦は、主役の座から降格となり、ベランダへ出向の可能性がでてきたが、一番パワフルで拾得を追い回していたのだが、ここ一週間ぼど、群れから一匹離れ、右隅の、底から10:センチくらいの所から、斜め45度上あたりをじっと見つめている。よく幼児が誰もいない虚空を指さし、知らないおばちやんがいる。そんな感じである。私の友人が魚に悪さをして死なせたそうで、以来、その水槽に新たな魚を入ると一日で死ぬことが何度も続いた。水を全取っ替えしようと効果がない。その魚はタフで知られていたから本来あり得ないことである。冗談で盛り塩してみたらどうだ、といったら、以来止まった。友人と書いた都合上、どんな悪さをしたかは書かないでおく。今流行りで映画化もされるらしい事故物件のような話である。事故物件云々といってる人達は、おそらく親類縁者に東京大空襲の経験者がいない地方出身者であろう。殺人だ自殺だ、呪いだ、といったところで、それがどうした、というのが大空襲である。戦後、雨の日にリンが青白く燃え、それが気持ち悪くて東京から越した人達の話を聞いたことがあるが、うちの母もそうだが、ゴキブリ一匹で大騒ぎしても、おそらく大空襲経験者に、特に事故物件的怪談話は効き目がないだろう。 それはともかく。寒山はまるで大海を懐かしむ、たい焼き君の如き風情であるが”淡水魚大海を知らず“である。体調の異変に備え、準備はしてあるが、餌の時間だ、となると血相をかえ突進してくるから、心配はないだろう。それにしても日々大きくなってきているから、いい加減私も、かわいい新入りを参入させては寒山と拾得役のキャスティングに迷っていてはいけない。最終決定は水槽の前で井川比佐史朗読するところの森鷗外『寒山拾得』を聴きながら決めることにしよう。

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一日  


新作が一番良いと感じるのは作家としては何よりだが、一つには目が慣れておらず新鮮に見える、ただそれだけ、ということもあるだろう。同じように、水槽内に新入りが入ってくるたび、目移りして主役を換えているようでは先が思いやられる。金魚を眺め、寒山拾得制作に備え、といっても、直接金魚自体を参考にして、という訳ではないので、いい加減にしておかなければならないだろう。他の連中が私の姿を見ると、餌を投入する水槽の左側にいつも集まっているのだが、寒山だけが、未だに一匹、右側にいて、斜め上を見ている。中学生になると、急に押し黙り、遠くを見る目になったりする奴がいたものだが、あれを思い出した。相変わらず食欲は大勢なのでそれほど気にはしていないが、主役が一匹、そっぽを向いているのもどうか。今週中には、寒山拾得の朗読CDが届くだろうから、その時に考えよう。新入りが来るたび、可愛い、などといってそちらの方に目が行ってしまうが、寒山と拾得は本来、薄気味の悪さが持ち味である。 そうこうして、芭蕉庵も、設置方法その他、記念館と確認し、そろそろ制作に入りたいところである。芭蕉の樹はともかく、深川に置かれるのであるから、古池もなんとかしたいところである。こうすれば可能か、と考えてはいるが、果たしてイメージ通り行くものかどうか。それこそやってみなければ判らない。ドールハウスやミニチュアを作る人はいるが、私が作るのであるから、その精巧さに関心してもらうより、あくまでも芭蕉像が引き立つことばかり考えてみたい。

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深川のコーナンにてよしずを購入。先日、お隣からの目隠しは設置したし、これでベランダで、何をしようと?安全である。コーナンには、金魚売り場がある。 うちの寒山拾得水槽はキャストとしては揃っている。60センチ水槽としてはもう良いだろう。メンバーにはセロフアンみたいな真紅からピンク、橙色と赤系の色が揃っているが、唯一、金魚といえばこれ、という朱色がかつた赤がいいないな、とは思っており、その隙間が用がないはずの金魚売り場に足を向かせた。パソコンやカメラ同様、嫌いな物が好きに転じるという現象が金魚にも現れており、嫌いだったフラダンスみたいな泳ぎが今ではそこが可愛らしく見えるし、子供の頃からランチュウの頭の肉瘤が気持ち悪かったはずが、この肉瘤のおかげで、正面から見た魚顔とは違う可愛らしさに目覚めてしまった。それまで魚の正面顔など意識したことはなかった。かといって、魚なのに背びれがないランチユウには未だ違和感があり、金魚坂で購入した中国産の琉金ショートテールや、虎役の朱文金、その他大勢のアイアンコメットを別にすればすべてオランダ獅子頭系である。コーナンには朱赤のオランダ獅子頭がいることは知っていたが、あえて見ないようにしていた。その間大分買われていき、数も少なくなっていた。しかし今は、朱赤のオランダでさえあれば、正面の顔だけである。そう思って見たら、一匹だけいた。鼻の下が口紅をくっつけたような色をしている。 子供の頃から熱帯魚、特に縄張り意識が強い魚ばかり飼ってきたので、金魚が餌をくれろ、とジタバタしているところに、入ったばかりなのに、以前から居たみたいな顔をして一緒にジタバタしている調子の良いところが可笑しい。 しかし、今後はもう寒山拾得劇団は関係なく飼っていこう、と考えなくもないが、近いうちが井川 比佐志が森鷗外の寒山拾得を朗読するCDが届くはずだし。そう考えると、拾得役の桜東錦があまりにも可愛らしく、コントラストを付けようと、わざわざ不細工な桜東錦を選んだ寒山が少々気になってくる。であれば、拾得を寒山に、本日の新入りを拾得に、今までの寒山にはベランダに出向してもらおうか、と企み始める冷酷な頭取である。といつても、金魚的には水槽より屋外のケースの方が環境的には良いそうである。


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金魚、食欲の収まることを知らず、餌が消えたあとも、水面の泡が餌に見えるのかエアーは充分なのにパクパクやっている。お前らの飼い主はすでに数十年前、空気を飲み込んで腹を満たせるかを試み、失敗に終わったといったろう。 外の世界にレンズを向けず、念写が理想といいながらも、芭蕉庵の芭蕉の樹や、古池には実写を使ってみたい。また寒山拾得の背景にも、わずか数十センチの石膏で作った岩山に、数百メートルの実物の岩山を、分け隔てなく配してみたい。私の場合はウソもホントも等価である。 子供の頃、家で絵を描いたり本を読んでばかりいないで外で遊んで来なさい、と言われ、外でばかり遊んでいると、今度は家にいろ、という。『いったいどっちなんだよ。』大人はかってなことをいうものであるが、今の私は外であろうと、在宅だろうとウソとホントの割合が多少変わるだけで、これは長年、まことを写す、という意味の写真という言葉に抗い続け、古いレンズを使ったり、古典技法を試み、そしてついに被写体から陰影を除くに至り、私がようやく勝ち得た状況であると考えている。だがしかし、陰影をなくすという簡単なことを思い付くのに時間がかかり過ぎた。作家シリーズから寒山拾得というモチーフに、一挙にジャンプ、あるいはワープしたのは、それについての悔やみがそうさせているのは間違いないだろう。持ち時間には限りがある。それでも今のところ、ただ金魚を眺めているしかない。いずれにしてもあらゆる謎はすべて自分の中にある。何もこの暑い中、外に出掛ける必用はないと考えている。

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それにしても、金魚以上に、他人事みたいな顔した生き物がいるだろうか?本日もただ餌を求めて上え下への大騒ぎである。それに釣られて餌をやっていたら、長生きできない。しかしショップでは最低限しか餌はやらないから、ショップに居残る兄弟達に比べれば、明らかに大きくなっている。赤い色も飼い主の欲目か鮮やかになって来たように感じる。虎役の朱文金が小さすぎ、水槽を別にして 大きくしようか、とも思うのだが、これに乗る豊干役の青文魚が、水槽内では一番大きいのでなおさらである。だがしかし、そのぐらいは想像力でカバーすれば良いだろう。美人は想像力のない奴に任せておけ、と誰かもいっていた。 最近読んだキース・リチャーズのインタビューでチャーリー・ワッツがこう言ったそうだ「考えると腐る」。その通りだ。私の腐り止めのために、お前ら金魚は私に餌をもらっている。そして毎日他人事のような顔を私に向け続けている。それにしても、ただ棒が浮かんでいるだけのような魚も飼ったことがあるが、可動域の広い魚はやはり頭が良い。餌を求めている間はピラニアと変わらないが、しばらくジタバタし、今回は餌は無しだな、と理解して散会していく様子など、奴等の考えていることが手に取るように分かり実に笑わせてくれる。

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小学生の時に、同級生の影響で熱帯魚飼育を始めた。得にジャック・デンプシーというかつてのヘビー級ボクサーの名前がついた魚にはまり、以来、シクリッド科のブルーの輝きにはまったのだが、この種は光の縄張り意識が強く、混泳が難しい。色々飼うには水槽の数が必要になる。繁殖もさせたが、求愛行動が激しく、メスのヒレがボロボロになったりした。それを考えると金魚は、新たに仲間に加えても、以前からいたような顔をして、一緒に餌に食らいついている。なので、次から次へと飼いたくなってしまうのだが、その分換水の頻度も高くなり、水槽内が過密になると、それに応じて成長も止まってしまう。 寒山拾得の出演メンバーも決まり、これで落ち着くことになるだろう。どうしてもということになればベランダのトロ 舟がある。しかし本来金魚は上から眺めるものらしいが、私にはその良さがわからないのであった。 昔はお岩さんのように見えていた金魚の肉瘤が、色とりどりのキャンディに見えるようになってしまってからは、正面の顔がまた可愛い。やはり水槽で眺めたい。 水に隔てられているせいで、犬猫の飼い主のようにキャッキャキャッキャと親バカぶりを発揮すふことなく、ただ無表情に金魚の動きを追うだけだが、気がつくと半沢直樹が残り15分になっていたりするので気をつけなければならない。 そういえば幼稚園からの付き合いで、熱帯魚を飼うきっかけになった友人が、金魚に転向し、らんちゆうを増やしているのを思い出した。子供の頃、二人で江戸川の養殖場を見つけ、それはただの水田に金魚がいっぱいいるだけに見えて、入ってしまって叱られた。彼は教室の金魚が病気になり、ビタミン不足だと聞きかじり、家から持って来たレモンを水槽に絞った。三年程前に、たまたま地元で会ってお茶を飲んだが、まだらんちゆうを続けているだろうか。久しぶりに連絡してみたい。

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