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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


好き勝手に作っているようで、案外、融通の利かないところがある。以前であれば、猫を虎に変えたなら、虎はすべて猫で行かなければならない、と考えただろうが、同一画面の中に矛盾がなければ、かまわないという所まで来た。虎も作ることになるかもしれない。この調子で行くと、いずれ同一画面の中にさえ矛盾が存在することになるかもしれない。何しろかつての日本人は、一つの画面内に時間経過、さらに起承転結でさえ描いて来たのである。西洋文明に犯される前の日本人の目を、見え方を取り戻せるならば取り戻してみたいものである。 備忘録としてのこのブログもいずれ改めて読み直してみたいが、確か昼間、買い物を済ませ永代通りを歩いていた時だったろう。頭の中のイメージには陰影がない、と気付いてスーパーの袋を取り落としそうになった時のことは鮮明に覚えている。私の中のかつての日本人の記憶が、フラッシュバックのように、突然甦ったかのような気がした。 頭に浮かんだイメージは何処に行ってしまうんだろう。確かに在るのに。と悩んでいた幼い頃の私に、やたらと時間がかかつたが、一応、ここまで来た、と教えてやりたい気がするが、時間かかり過ぎだ!と絶望して寝込んでしまいそうである。自分で見つけた物しか役に立たない、という厄介な性質なので仕方がないのだよ。



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『豊干に虎図』の掛け軸届く。タトウ入り、香が炊きこまれ落款印譜のコピーも入っていた。今時尊攘派の志士など人気ないのだろう。おかげで私の家にかけられることになった。 ”待てば海路の日和あり“子供の頃から、お隣の家のステレオ装置で広沢虎造の三十石船をかってに上がりこんで聴いていたせいで、学校のテストで日和を“しより”と書いてしまった。寒山拾得に関して、なんとなくではあるが、外堀が埋まりつつある気がする。この掛け軸も一役買うだろうし、偶然先月、必要があり、ある動物の毛並みを工夫したことについて、虎も作れという啓示であろう。 下手に性能のかんばしくない頭を使うくらいなら、金魚でも眺めながら待つ方が良い。私の扱い方は私が一番知っている。知っているのは制作に関してだけなのが惜しいのだが。まあ、あれもこれも、と贅沢を言うもんではない。肝腎な一つについて知っているのだから上出来としよう。 まずは、常に寒山拾得の膜に覆われているような状態になる事が肝腎である。三島を作っている時も書いたが、洗濯物を眺めても、三島由紀夫越しに洗濯物が見えているような状態で、そうなればいつ頭上から何か降って来ても、取り落とすことはない。ただ交通事故には気を付けたい。 口うるさかった母には、“外の世界に興味がないような顔は決してしてはならない”と教わった気がする。母親の勘が、親心がそう判断したのであろう。確かに例えば私が三島由紀夫、あるいは今なら寒山拾得の膜に覆われたような状態でいることを察知し、腹を立てるのは決まって女性である。小学校の担任の女教師は、そんな状態の私を難聴であると判断した。おかげで母に手を引かれ買い物に行くと母が小さい声で私の名を呼び耳の調子を試すのであった『うるさいなあ、なんだよさっきから。』と思いながら、聞こえないふりの私であった。


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寒山拾得水槽の虎役の金魚が、黒の虎模様が消えてしまい、ベランダに出向になって久しい。金魚というものはそういうものらしく、色抜けする途中の状態を虎柄などといって売っているらしい。以来。虎柄を見つけでも買う気がしない。 藤本鉄石のひょうきんな虎は良いが、ところで私はどうする、という話である。後の寒山拾得制作時に備え、知人の家で飼われているトラ猫を撮影し『月に虎図』をものにしたは良いが、あれにしたところで前もってマタタビをキメてもらい、2回撮影して、ようやく一カットである。豊干を乗せたり、豊干、寒山、拾得と虎が寄り添って眠る『四睡図』は必ず手掛けなくてはならない。猫がそんな調子良く撮らせてくれるとは思えない。かといって、フリーペーパーの表紙で向田邦子を作った時、アンコ?だったか、妙な色した猫を抱かせたが、二度と猫なんか作らないと思った。特にあの頃は、すぐ近所に猫だらけの飲み屋があり、目の前のカウンターに、ずっと居座られたりしていたから、あれを撮らせて貰えば良かった、と後悔した。また、『植村直己と板橋を歩く』も悩んだ。街中に私服で立たせ、あんな華もなく絵にもならない人物はいない。板橋の名前の元となった、現在コンクリート橋のかたわらの道標のイメージを頼り、アラスカンマラミュートのブリーダーの所まで撮影に行った。この時は、逆にマラミュートという”純毛“がそばにいるので粘土製の植村の髪が合わなく、階下に住む人を呼び出し、屋上で私の髪を撮影してもらい貼り付けた。ところでそういえば。 詳細は語れないが、つい先月、たまたま、ある動物の”毛並み“を表現する機会があった。偶然にも程がある。“ああ、これは虎も作れということだな”と今思った。



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毎日金魚を眺めていると、連中が餌以外のことには無関心なことが判る。私の今の関心事は、私が餌のパッケージを持っているのといないのと、連中が認識しているのか、ということで、水槽の前で餌を持って“赤上げて、白下げないで赤下げない”なんてやっている。 こんなあてにならない連中よりも、昨日落札した豊干と虎の図こそが私を見守り後押ししてくれるだろう。しかし届くまでは安心出来ない。以前明治時代の歌舞伎役者の書を落札した時、出品者から連絡が着た。「品物はすべて別棟の倉庫にしまっているのだが、いくら捜しても見当たらない。ハクビシンの仕業かもしれない」。言い訳にしてもふざけた話しだが、ハクビシンに免じて忘れることにした。 豊干と虎図の作者、藤本鉄石は諸藩の追っ手に追い詰められながらも脱出に成功したが、逃げることを潔しとせず、門弟一人と共に引き返し紀州藩本陣に突撃、討ち死にした。昨日の繰り返しになるが、その壮烈な最後に引き替え、虎の脳天気な表情はどうだ。近所のノラ猫でさえもっとシャープである。人間一人の奥深さを想うのであった。



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幕末に、近代化に対する不満を爆発させた攘夷派の士族が各地で決起する。三島由紀夫が晩年取材した神風連もその一つで、廃刀令に反発し決起、政府軍の近代兵器に対し刀、槍のみで抵抗、当然あっという間に鎮圧される。私も三島が神風連に扮し”もはやこれまで“と腹を切っているところを制作した。神風連は、電線の下を通る時は扇で頭を隠して通った。三島の最後の演説は、テレビを観ながら「スピーカーないと良く聴こえないよ。」と思った私だが、三島が市ヶ谷にスピーカーなんて野暮な物を持ち込むはずがない。もっとも説得され立ち上がる隊員が一人でもいたなら、予定の結末が妙なものになって困ったろう。 水戸藩では、天狗党の乱が起こった。徳川慶喜に想いを託そうとしたが、慶喜に見捨てられ、数百人が斬首された。私は仕事で慶喜を作ったことがあるが、父方の親類には天狗党三総裁の一人の子孫がいるので、作りながら妙な気分がした。 ところでここ数日、豊干禅師が寒山と拾得同様、奇怪な人物として描くべきではないか、と思っていたら、ヤフオクでそんな豊干と虎の図を見つけた。なかなかの怪僧ぶりが気に入り落札した。これから二年間私を見守って貰いたい。 作者はというと、奈良で起きた天誅組の乱の総裁の一人で、壮絶な討ち死にを果たした絵師でもある藤本鉄石である。天誅と虎の表情のギャップが可笑しい。山水図を多く残しているが、ユーモアの持ち主だと知ってはいたが、この作品には山水図では窺い知れない藤本のユーモアが現れていて納得した。以前藤本の、一人の鎧武者が真ん中にポツンと描かれたボロボロの掛け軸を入手したが、ボロ過ぎて掛けることはない。 私は64年の東京オリンピック以前の東京こそが、私の東京だ、と引っ越しを機会に、そんなつもりで暮らしているが、本音をいうと、さらに明治以前、御一新前に憧れがある。と、長押に架けられた南州こと西郷隆盛の扁額を見上げる私であった。本物は百に一つといわれており、当然九十九の口であろうけれど。 そういえば、つい先日のブログで葛飾北斎親子に”あんな野暮なものを取り入れると晩節を汚すことになるから止めた方が良い”と御忠告申し上げたばかりであった。

 

 



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岸田劉生の『麗子像』は寒山拾得の、いわゆるアルカイックスマイルに影響を受けているという。先日、同一画面に矛盾さえなければ良い。つまり、写真の特質を生かし、寒山と拾得の無気味な笑顔に、陰影を付けて撮るのも良いのではないか。 私の大リーグボール3号だ、石塚式ピクトリアリズムだ、とひとしきりはしゃいでみると、今だからこそ、素直に陰影を駆使出来るのではないか。それは、真を写すという写真に対して、何処か腹に一物持ったまま、長年撮っていた時とは違って一皮剥け、打開策を手に入れた今なら、素直に陰影と向き合えるのではないか。 写真的な、陰影を与えられた寒山拾得こそが、今まで存在していなかった。当然、寒山拾得が、絵画のモチーフであり、西洋的絵画表現に合うわけもなく、当然、写真のモチーフにもなり得なかった。という単純な話である。 そう思うと、もう少し早くここに至っていれば、無限のモチーフが与えられ、やりたい放題だったろう。やはり“人生は夏休みのバイトの如し、慣れた頃に夏休みは終わる”ということか。 だがしかしおかげで、いくらなんでも寒山拾得は、いきなり飛躍し過ぎだろう、という思いは消滅した。寒山拾得位で間尺が合うという気にようやくなった。



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途中中断はあるが、小学校の頃から熱帯魚を、特にシクリッドという、縄張り意識が強く、他の魚との混泳が難しい魚を飼って来て、金魚は様々な形、模様の金魚と混泳が可能で(厳密にいえば、似た体型同士の方が良い)つい水槽内が賑やかになってしまう。あの色は居るから、もうちよっとこんな色が欲しい、となってしまうのである。しかし毎日眺めていると、金魚が特に平和主義者というわけではなく、実際は他の金魚に興味がない、無関心という感じである。 もうすでに、第二寒山拾得水槽が可能なくらい、数は居る。昨日までは寒山と拾得と共に三聖人と呼ばれる豊干が、大きく黒い僧衣をまとったような青文魚を、その風格から店で見た時点で豊干にするつもりでいたが、昨日書いたように、他の二人同様、実は阿弥陀如来であるのはともかく、むしろ怪僧じみているべきではないか、と思い始めた。そう思うと、最近メンバーとなった鹿の子模様のオランダが、よりふさわしい気がしている。水槽内で一番大きく、黒い鼻は犬のようでもあり、チヨビ髭にも見え、呑気な顔して、私の酒の相手をしてくれている。

 



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寒山拾得の拾得は豊干禅師に拾われたから拾得となった。最初に作ろうと考えている豊干は、一説によると二メートルほどの人物といわれる。虎を手なずけ跨がっているのだから、少なくとも小さくはないだろう。また阿弥陀如来だという説もある。かといって、寒山と拾得が、実はそれぞれ、文殊、普賢菩薩だというのに、あの有り様。豊干にしても阿弥陀如来然とはしておらず、実態を隠し、むしろ怪僧じみた人物として描きたい気がする。もしくは、豊干だけはまともな禅師とするか。 個人的には、幼稚園児の頃から、毎週、それこそ黒タイツの男の頃から、大きな化け物じみた連中をテレビで観ていたので、情報は十二分、私の中にあるので、それを生かしたくはある。



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寒山と拾得を作る前に、まずは豊干を作ろうと思う。色々な意味で基準になるだろう。とりあえずは頭部が出来れば、出来たも同然。放っておいて、次に誰かを作るも良し。普段、虎に乗っている豊干。虎をどうするか。数年前の、個展としては始めて石塚式ピクトリアリズムを披露した青木画廊に、かつて虎を見たことがなかった絵師の虎の味を出すために、近所のトラ猫を撮影し、顔のわずか一部に動物園の虎の模様を貼り付け『月に虎図』とした。唐突だと思いながら、その思い付きに我慢が出来ず出品したが、かなりなフライング。何でこの中に虎がいるんだ、という話しだが、思えばあの時には、寒山拾得にすでに向かっていたことになる。ただあの時点では、陰影を無くす、と言いながらも、つげ義春『ゲンセンカン主人』の女に、行灯の光を当てる誘惑抗しがたく、改宗したなら、すべてを改めるべきだ、という融通の利かなさで、身をよじって苦しんでいた有り様であった。今はというと、好き勝手やってるくせに、そんなことで悩むなんておかしいだろ、と欲望の赴くまま。一つの画面内に矛盾さえなければ良しとした。よって『三島由紀夫へのオマージュ椿説明男の死』では、市ヶ谷で11月の光が当たっていたり、弓張り月のように浮世絵のように陰影なかったり。 と今書いていて、寒山と拾得も、ポイントとなる、何らかの場面では、普通に陰影を表すカットがあっても良いだろう。例えば例の無気味な笑顔を寄せ合う二人のアップなど。

 

 



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最初に寒山拾得をモチーフにしようと思ったきっかけが何だったのかが思い出せない。これだけ寒山拾得寒山拾得いっているのだから、それなりのきっかけがあったはずだが、本当に判らない。昔、曾我蕭白の寒山拾得図は見たが、それはきっかけ程にはなっていない。“イカレタ野郎だ”くらいにしか思っていなかつたろう。今は少々に蕭白に騙されていた気がして見直しているが。 知らないウチにチップが埋め込まれ、洗脳され、その気にされてしまつたかのようである。ホントにボケが始まっているのか?こんな物をテーマに、と考えたなら、それなりのことがあったはずだと思うのだが。どう考えても、石塚式ピクトリアリズム以降のことてあることは間違いない。つまり三遊亭円朝以降のことであろう。やってるウチに、だつたら寒山拾得もやれるはずだ、と思ったのは間違いない。となるとそう昔の話ではない。タイムトラベラーの、アルバムに一緒に写っているこの同級生は誰?という感じである。正月にでもブログを読み返してみることにする。そう思うと良いけれど、だいたいいつからダラダラとブログを毎日書くようになってしまったのか。ブログ以前は、サボつていることがバレないように日付は書かず某日としていたのだが。如何にもヒマだといっているようである。 



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江東区のは芭蕉記念館に行くと、最寄りの森下駅の、様々な絵師の芭蕉像のパネルを見ることになる。これにしても、芭蕉の門弟の描き残した芭蕉像とは無縁の物ばかり。垂れ目の好々爺がほとんどである。芭蕉は吊り目で、がっしりしていたんだ、とか、夏目漱石の鼻は鍵鼻で、あれは修正していたんだ、と私がいくらいったところで、多勢に無勢である。いや、ただ私が気にしてるのは、何を勝手に鍵鼻にしたり吊り目にしているんだ、と思われるのが嫌なだけで、もう勝手にしてくれ、という感じである。 『寒山拾得』の二人は痩せている、と書かれているのに、何故ほとんど唐子のようなぽっちやり童子風に描かれてきたのであろうか。昔からの土産物の定番、中国の寒山寺の土産物の寒山と拾得でさえ相撲取りのようである。伊集院光が、あまりに自分にそっくりなので、ヤフオクで落札したというくらいである。 そう思うと曾我蕭白が描く寒山と拾得こそが忠実に描かれていると思え、イカレタ野郎だと思っていたのが、作品はともかく、案外まともで、その面立ちまで、案外すっきりとした人物だったつたのではないか。なんて思えてきたりする。私の場合は、というと何しろそう書いてあるのだから、例によってその通りに描く。今回の場合は、「いや、そう書いてあるので」などと説明することもなく、なんで寒山と拾得が、痩せているのか?などという質問も出ること自体がないだろう。



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寒山拾得に策がない、といいながら、結局は、ただそのまま描けば良いのではないか。まずは、かつて泉鏡花の『貝の穴に河童の居る事』で、やったように、森鴎外がほぼそのまま書いた『寒山詩集』の序文に描かれた寒山と拾得のストーリーを人形を持って制作する。そしてその間に、古来から中国、また日本で連綿と描かれ続けた名場面を差し挟んでいく。 そもそも私如き者が、禅の何某かを感得し、後に事を起こそう、ということ自体が大いに間違っている。日々金魚を眺めながら悩んでいても進展することなどあろうはずがない。寒山拾得をモチーフにしてきた星の数ほどの絵師達も、描く事自体で何某かを得ようとしていたに違いがない。 泉鏡花の『貝の穴に河童の居る事』の時にまずは河童を作ったと同様、主役の寒山と拾得を作る。さらに河童と同様、いくつかの表情のバリエーションを作る。 そもそも貝の穴の時は、人間ばかり作って来て、人間にあらざる者を、つまり妖怪の類いを手掛けてみたかったことが発端だったが、私は元々、中年男、または爺さん専門の人形制作者といっても良く、さらに、約四十年前、個展デビューからずっと架空の人物専門であった。写真資料を集めて誰かに似せる必要がない分、作るのは早い。今回まず決めているのは、河童でそうしたように、髪は人形用の髪を使う。 正月は水槽内には紅白の金魚が舞い踊り、それを眺めながら、正月が明けた頃には、登場人物の頭部がいくつか出来上がっていることであろう。



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一日  


芭蕉記念館に納めた芭蕉庵は、奥の細道に旅立つた直後をイメージしたのだが、会場で確認すると、庵の出入り口を閉めてしまうと室内が暗すぎるので、少し開けておくよう戸を直している。さらに旅に持って行かれない文机と門弟達が芭蕉のために米を持ち寄ったヒヨウタン、煙草盆、を追加しようと考えている。燕の巣は一応持って行って着けるかどうか考えることにする。 我が家の寒山拾得に見立てた金魚は、いつの間にか定員過剰になり、数からいえば、二軍の寒山拾得劇団が結成出来るだろう。一軍では一番大きい青文魚が豊干禅師、桜東錦二匹が寒山と拾得のコンビ。というのは相変わらず決っている。二軍を選ぶとすれば、肌色したシルク東錦が豊干で、飯田産琉金と金魚坂で入手した中国産ショートテール琉金で寒山拾得としたいところてわある。 昨日のブログで書いたが、ヘソ下三寸辺りから聞こえて来る声はともかく、表層の脳は、いくらなんでも寒山拾得は無茶ではないか、と未だに思っているのだが、理由は判らずとも衝動に任せた方が、結果は必ず良くなる。今回もいつものように任せるしかない。そして二年後の個展会場では“始めから計画通り。こうなるこのは判っていたのです”という顔が出来れば、結果オーライということになろう。



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ホームセンターへ。何度通ったことだろう。おかげでつい余計な金魚を買ってしまったりした。ブラントである志村養魚場産の金魚など入荷するので侮れないのである。 詳細な図面があるわけではなく、予定や気が変わるで、一度に材料を買うと無駄になる。屋根の板など、張る段になり、歪みを演出するため馬糞紙を使うことを思い付き、買った板が無駄になってしまった。多少の無駄は、寒山拾得の逆遠近に歪んだ室内背景を作る時に流用しよう。なんて書いていながら私はなんて奇妙なことをいっているのだ、と思うのだが。 出無精をこじらせたこともあるが、好奇心を自分の頭の中のイメージだけに向けたことで、人の作品に対する興味が薄れてしまった。一度入ったものは出て行かない。これをずっと恐れて来た。おかげで他人からの影響をたいして受けることがないので、常識を身につけることなく、あらぬ方向、ペンペン草一本生えない荒地に平気で歩いて行ける。古典技法などほとんどやる人がいない時代に写真の素人がオイルプリントを独学出来たのも、そのためである。しかしこれで案外客観的な部分も持っていて、自分独自の、新たな、寒山拾得を作るなんてことはゆめゆめ考えることなく、写真で寒山拾得を実現すれば充分である。というより、そうでなくてはならない。寒山拾得とは、そういうモチーフである。 友人が、また私が寒山拾得などと馬鹿なことをいっている、と92歳の母親にいったら、何をいっている。この人はエライ!といわれたそうである。判る人には判るのである。



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寒山拾得を何故制作しようと思ったのか。きっかけは森鴎外を制作したとき、寒山詩集の序文に基づき解説を加えた鷗外の『寒山拾得』を読み、もっと以前に美術館で、曾我蕭白『寒山拾得図』を見ていたことだろう。やはりその風体、特に二人揃って無気味な笑顔が印象に残ったのではなかったか。はっきりは良く判らない。写真見ながら実在者の頭部を作るのは、そろそろもういいのてはないか。と考えながら、30年以上住んだマンションの引っ越しを決め、だらだらと片付けし、その間,制作に逃げるのを避けるため.粘土も入手せず、結果、子供の頃の写真アルバムも捨て置いてしまうほどの断舎利を成した。様々な要因が重なったのであろう。以前から当ブログで、寒山拾得制作について書いていたと思うが、浮かんでは消えるあぶくのような無責任なイメージであった。ただそうはいっても、あまりにもなモチーフではあったから、何処まで本気なのか自分でも良く判らず。 5月のふげん社での個展『三島由紀夫へのオマージュ 男の死』において飯沢耕太郎さんとのトークショーで、何処からかの、次は何をの声に、つい寒山拾得と答えてしまった。しかし後日、社長から、子供の頃寒山拾得を読んで、社名をふげん社とした旨を伺い(拾得は普賢菩薩だとされる)2年後の個展が決まった。私は自分自身が半信半疑でも、上から降ってくる啓示は必ず拾い、取り逃がしたことは一度もない。とはいえ今のところ、金魚に寒山や拾得、豊干などと名前を付け眺め暮らすしか策はない。これを策といって良いのか? 2年後の会場で、最初から思った通りです。金魚のことなど知りません。という顔をしていたなら、首尾良く行った、ということになるだろう。



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