明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



浮世絵的逆遠近法は、普通に考えるなら、撮った写真をフォトショップで加工することになるだろう。パーツとして切り抜き組み立て、歪ませやってみたが、これが成分が写真であると、よほど歪んでないと効果が出ない。ちっとやそっと歪んでいるくらいでは、それがどうした、という感じなのである。浮世絵を気取って、燈火器尽くしというのを制作してみたことがある。撮影用に集めた行灯、燭台などを並べて見たのだが、遠近感がちょっとヘンなのは判るのだが、中途半端。グループ展の展示を2度差し替え、結局諦めた『ゲンセンカン主人』に次いでの惨敗であった。これは真などとは一切関わりたくない、と写真という言葉を嫌いながら、考えてみると、真を写す、という見る人の写真への思い込みを利用していた私への、写真からの反撃、バチが当たったということではないか。 陰影を削除することで充分成果はあり、作品を作り続けている。遠近法まで、手を出すべきではない、ということなのであろう。ところが昨日のブログで書いたが、写真を加工するのではなく、背景をあらかじめ歪ませて作って撮影してみたらどうか。私には経験上、馬鹿馬鹿しく面倒で、止めておいた方が良いのではないか、ということを試みた時に限って、創作の神が味方してくれる。という思い込みのせいで、あげくに寒山拾得、なんてことに至った。 背景をあらかじめ逆遠近法で作っておいて撮影する。これは私が今までしでかして来た中でも、馬鹿馬鹿しさにおいては飛びっきりではないか? ギャラリーで『寒山拾得写真展』なんてやっていたら、会社を勤め上げた老人が、中国の深山や臨済宗の寺院で座禅したり庭をホウキで掃く坊さん:等をアナログカメラでモノクロで撮った写真展だろう、実につまらなそうだ、と通り過ぎられてしまうのがおちである。そうではないところを多少は見せなければならない。

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