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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



改装のため半年休んでいた焼き鳥のK越屋が今日から開店というので、改装前に撮影した写真を持って明るいうちに顔を出す。親仁さん、今日は仏滅だけど結婚したのも仏滅だし、俺は仏滅が好きなんだ。と相変わらずである。今は近所がうるさいから、と不釣合いなくらい太い排気ダクトが店内に。客で一杯になってきたので、出直すことに。K本に顔を出しIさんと再び。親仁に焼酎を注ぎ足され、、結局閉店まで。まったく頑固な親仁で、親父あっての、と跡継ぎ息子がいっているのにニコリともせず。これが照れているわけじゃないところが根っからである。孫から送られた暖簾を私が褒めると、親仁は前のを使うともめていたそうで、親仁ようやく納得。奥さんに「今日来てくれて良かった」と礼をいわれる。
若松孝二監督の新作は『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』だそうだが、三島由紀夫演じるARATAが183センチでデカすぎて三島らしくない、といわれているそうである。緒方拳の“四角すぎて三島らしくない”はまだ我慢できたが、183センチでは確かに大きすぎる。顔が四角たって三島にはなっただろうが、クレオパトラの鼻ではないが、三島の背が高かったら、あの三島は作られなかったであろうことは間違いがない。 三島の妻の条件の1つにヒールをはいても自分より背の低い人というのがある。寺島しのぶが妻役らしいが、寺島がすでに三島と同じ163センチというから、寺島しのぶを基準に決めたのではないか。黒蜥蜴のサイズに合わせて明智小五郎が次第に大きくなっていったことを思い出させる。 何度もいっているが三島は筧利夫しかいない。あの顔、全身のバランス、身長は166センチと、三島より3センチ高いだけである。学生時代はたしか拳法をやっていたはずで、制帽から覗く顔を想像しただけで良いと思うのだが。

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伊勢在住の友人にお願いして探してもらった海女の着る磯着だが、ご主人が釣り好きで、地元の釣具屋には昔ながらの海女の使う水中眼鏡『磯メガネ』を売っていると聞いた。『潮騒』の初江の使う水中眼鏡として戦前製のものを入手済であったが、デザインといい、ゴムの感じといい、明らかに現在の物と違って味があるのだが、ただ海女が仕事に使う物と考えるとどうも脆弱な感じである。さらに気になっていたのは、鼻が外に出るタイプの物だ、ということである。昔の写真を見ると、海女が必ずしも鼻が隠れるタイプのメガネを使っているわけではないのだが、これだと水圧によって顔にメガネが押し付けられるのを、鼻からの息でメガネ内の圧を調節することができない。ゴムでなく金属製だった頃はそうとう痛かったようだが、そのうち革製の小さな風船をメガネに付け、その中の空気をメガネ内に押入れて圧を調節するという工夫がなされたようだが、鼻までメガネ内に収まっていれば、自分の呼吸で圧を調節できるわけで、何故それに気がつかなかったのか不思議な気がする。磯着と一緒に磯メガネも送ってもらうことにした。 『潮騒』といえば有名な焚き火のシーンの観的哨がある。大砲の着弾地点を観察する施設だが、未だに神島には残っているようで、いつか撮影に訪れたいと思っていたが、ただのコンクリートの廃墟で、ジェット戦闘機F-104と違って、わざわざ本物にこだわらず、でっち上げたほうが良いような気がしている。 

『中央公論Adagio』以外では数年ぶりに新作をアップした。

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F104が、こんなに物静かに休ろうているのを見るのははじめてだ。いつもその飛翔の姿に、私はあこがれの目を放った。あの鋭角、あの神速、F104は、それを目にするや否や、たちまち青空をつんざいて消えるのだった。

日常的なもの、地上的なものに、この瞬間から完全に決別し、何らそれらに煩わされぬ世界へ出発するというこの喜びは、市民生活を運搬するにすぎない旅客機の出発時とは比較にならぬ。

何と強く私はこれを求め、なんと熱烈にこの瞬間を待ったことだろう。私のうしろには既知だけがあり、私の前には未知だけがある。ごく薄い剃刀の刃のようなこの瞬間、そういう瞬間が成就されることを、しかもできるだけ純粋厳密な条件下にそういう瞬間を招来することを、私は何と待ちこがれたことだろう。

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朝起きて広間で朝食をとり屋上の露天風呂へ。山奥の秘湯ではないので、浜名湖が一望といっても生垣や柵で目隠しされている。いつか某温泉にいったおり、はるか彼方の山から望遠レンズで撮る人間がいると聞いたからしかたないだろう。誰もいない露天風呂に仰向けに浮かび、青空を舞うトンビの腹を見上げる。 相棒Kさんのハイテンションは酔っ払っているゆえであり、覚せい剤と一緒で、その間も確実に体力は消耗している。風呂に入りぐったり。若いといっても60歳である。大人しくてこちらとしては丁度良いのだが。一休みしてタクシーで『航空自衛隊 浜松広報館』へ。 三島由紀夫は自衛隊で、当時の最新鋭音速ジェット機、『F-104栄光』(以下マルヨン)に乗っており、三菱エンピツと称された機体を男根に例えたエッセイを書いている。ここはそのマルヨンを展示しているだけでなく、コックピットに着座できることになっていて、今回はただそれを撮影するためだけに来ている。家族連れの順番待ちなどまっぴらなので、こんな日を選んだ。まっ先に展示している格納庫に行く。ここは一組に一人、パイロットスーツやヘルメットなど貸してくれるので、160センチと、三島と身長がほぼ一緒のKさんに着てもらい、物差し代わりにコックピットに坐ってもらうつもりである。ところが係りの女性がマルヨンは土日以外は着座できないという。何をいっている!こちらは事前に電話で確認しているのだ。問答するだけ無駄である。行ってみると鎖がかけてある。ほかの戦闘機が良くて、これだけ土日の意味が判らない。そばにいた説明担当の男性係員にいって鎖を外してもらう。当たり前である。 こういう展示会場にありがちだが、なんで蛍光灯や白熱灯など、ゴチャゴチャと様々な色温度の光を当てているのかさっぱり判らない。おかげで後処理が面倒である。一通り撮影し、地続きの浜松基地から飛び立つジェット機を眺めた。昼過ぎにバスで浜松駅。食事して東京へ。行きとは別人のKさん。哀しげなやつれ顔に変化している。広報館で買ったブルーインパルスの刺繍の入りキャップを、広いオデコを出して浅く被っているので、それじゃ競馬場のオジさんだよ。ちゃんと被ったほうが良いよ、といって別れた。

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三島由紀夫に対してある人が書いている『彼はいつも顎にぐっと力をいれていた。まるで、それ以外の生き方を知らないかのように。』なるほど、と思わせる文章である。しかし果たしてそうであろうか。 世の中には作家の著作や人となりを研究している人は沢山いるわけだが、こと作家の姿形、特に顔に関して、私ほど真剣に見つめてきた人間はいないだろう。三島は確かに刀を構えたり筋肉を誇示したり、力を入れて写真に撮られることが多かったのは確かである。しかしいつも顎に力を入れて、というのはどうだろうか。 三島は自分でも『私の顔は曲がっており、正面から見ると、便所の古草履みたいに、長刀型になっている。』といっているが、正確にいうと顎が曲がっている。近いところでいえば、つまみ枝豆やともさかりえと同タイプである。三島は噛み合わせがずれているかのようだが、それが自動的にギリリと歯軋りし、ぐっと力をいれているように見えるのではないか、と思うのである。 一日何もなかったからといって、ただ書けばいいというものではないだろう。ということになってしまった本日のブログであった。

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昨日制作した惨劇現場数カットの中から1カットを数人にメールで送り、そのままにして実家に帰った。思った以上のできだったが、データを持って帰ったら余計なことをしてしまうと思ったので持ってこなかった。 今のままだと数人の、しかも絞りきった、というくらいの血の量である。クーデターに失敗した青年将校を配した後に出血量を按配したい。だがしかし、私のことだからきっと減らすのが惜しくなって、ああだこうだと身悶えした挙句、本当のことなんてどうでもいいや、どうせ作り物だし。と開き直るに決まっている。こんな出血などありえない、という人もいるだろう。そんなことより、先生どちらがよろしいですか?と尋ねたならば、先生は「こっち」とおっしゃるに決まっている。

“僕は人を殺したくて仕様がない。赤い血が見たいんだ。作家は、女にもてないから恋愛小説を書くやうなもんだが、僕は死刑にならないですむやうに小説を書きだした。人殺しをしたいんだ、僕は。これは逆説でなくつて、ほんたうだぜ。(昭和二十三年十二月座談会『小説の表現について』)”

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昨日の撮影は、現場に着いた時には雨にかわっており、雪が撮影できなかった。こうなったら作るしかない。帰宅後、その前に雪より重要な作業を始めた。 三島は映画『憂国』の撮影時、クライマックスの割腹のシーンにもっと血を、と“増血”を要求したらしい。三島の好みからいえば当然のことであろう。乱歩同様、無惨絵が大好きな三島である。そこで撮影した現場を血だらけにすることを始めた。方法は『乱歩 夜の夢こそまこと』(パロル舎)制作時に、『盲獣』の風呂場ですでに考え出している。しかしあまりに陰惨な仕上がりに、趣旨に合わない、と没にしていた。いや正直にいうと、その風呂場を使わなかった本当の理由は、文化財だったからである。リアル過ぎて乱歩作品には使うことはなかった、というのは本当で、切断死体も切り口は常にスッパリと綺麗に、切断面は極力こちらに向けず、風呂場は元銭湯を使った。悲惨な状況も、どことなく笑えることを心がけた。同じ無惨絵好きでも、乱歩は本当の血など大嫌いである。その点三島はまるで違い、血に目を輝かせ恍惚とするタイプである。それは近年あきらかにされた様々な証言でも確かであろう。制作に熱中していると、あまりに上手くいき、雪はもう、二の次でどうでもよくなってしまっていた。

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現在制作を考えているのは石塚版『男の死』である。三島の死の数日前まで篠山紀信により撮影が行われていた『男の死』は、篠山のインタビューや評伝などから拾ってみると、すでに『血と薔薇』誌上で発表済みの『聖セバスチャンの殉教』『溺死』以外に、魚屋が魚をぶちまけ包丁で切腹。片手で吊り輪にぶら下った体操選手が射殺されている。頭を斧で割られている。セメント運搬トラックの下敷き。ヤクザのリンチ死。その他、切断された首などがあるという。15カットはあるそうである。 企画発案者である元薔薇十字社の社主、内藤三津子さんにはすでにお会いしているので、直接伺っても良いのだが特に聞いてはいない。それは兄、左門豊作のために、完成間近の消える魔球を探りにいった弟の口を塞ぎ、「それをいったらアンちゃんは星君のライバルでなくなってしまうバイ!」といった左門豊作の心境である。というのはまったくウソである。 体操選手やトラックの下敷きなど、それは本人が演じたから良いのである。一方私はあくまで作品として創作するので今まで同様、三島の作品、言及したイメージの中に三島を描くべきであろう。共通しているのは“嬉々として”死んでいるところくらいか? 内藤さんから伺っているのは、『男の死』のなかに武士の切腹がある、という説に関して、それは絶対なく、すべて現代が舞台である、ということである。企画者としてすべて立ち会っているから間違いない、と仰っていた。私も侍のカツラをかぶって切腹している現場写真のベタ焼きを見た、という人物から、それは死のおよそ一週間前、カツラのサイズが合わなかったが、時間がなかったからか(それはそうであろう)そのまま撮影した。ということまで聞いている。没後40年といえば、伝説が熟成発酵するには充分な時間だということであろうか。

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遅ればせながら今頃観る。これが予想以上に良く出来ており、面白く観ることができた。意外なほど事実に忠実に描かれ、劇中劇の『金閣寺』『鏡子の家』『奔馬』の選択が良く、市川雷蔵を思い出させる坂東八十助、佐藤浩一、沢田研二、永島敏行も良かった。美術の石岡瑛子もフィリップ・グラスの音楽も良い。 三島由紀夫役の緒方拳は、観る前は四角い顔が気になるだろうと思ったが、体格が大きすぎることを別にすれば気にならなかった。今だったら似ているといえば筧利夫がやるべきだと思っていたが、緒方拳のようにはいきそうにない。気になったところは二つ。市ヶ谷のバルコニーの演説シーン。実物より役者的に必死に説得しすぎである。あそこは一人でも自衛官が立ち上がったら台無しになったシーンで、説得及ばず無念、と踵を返し、というのが三島が用意したシナリオだったはずである。ニュース映像を観た中学生の私は、なんで拡声器を持っていかなかったのだろうと思ったが(当時、ああいう場合は使ったものである)用意周到な三島が持っていかなかった理由は一つであろう。いや、確かに武士に拡声器は似合わないのだが。 森田必勝役の塩野谷正幸が全くのミスキャスト。何故使ったか理由が判らず。森田こそ体格、顔が似ている人間を使うべきであった。私だったら下手でも良いから、気持ち悪いほど似ている人間を使いたいところである。

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撮影用の小物を探す場合、富岡八幡の骨董市、知人の骨董商、ネットオークションを利用することが多いが、制作の合間に、居ながらにして入手できるオークションは大変助かる。しかもおおよそ骨董市より安く、こんな物はまさかないだろう、という少々怪しげな物も見つかるから驚くのだが、本日届いたのは、検索したら一つだけヒットした、デッドストックの古い水中メガネである。800円。戦前物ということだが、ゴムの部分は今は見かけない、おそらく川端康成が最後にくわえたであろう、かつてガス管等に使われていた、古くなったニンジンみたいな色のゴムである。ゴムは経年で劣化してしまうものだから、どこにもヒビ割れがなく、紐の部分の柔軟性を考えると、戦前物というのは信じられないのだが、未使用は間違いのない、素朴で趣のあるものである。ポイントはやはりゴムの色であろう。
場所があれば三島由紀夫で個展をやってみたいと考えている。ただ少々血なま臭いことになりそうで、江戸川乱歩の時のように、どれだけ切断死体が並んでいようとも、どこか笑えるような調子というわけにはいかない。よって場所を選ぶことになるだろう。 三島で水中メガネといえば『潮騒』ということになる。

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一日  


知人と三島について話していると、作品は好きだがその人となり、特にスキャンダラスな面については、顔をしかめられるばかりで、こちらが話したいことに至らないことが多い。プロレス嫌いな人に、プロレスの味わいを伝えるくらい厄介なことである。 私は作家の作品世界を挿絵のように創作しているわけではなく、むしろその人となりを描くために作品世界を利用しているようなところがある。だから例えば江戸川乱歩を制作した時も、過激に表現することは、むしろ望む所であったが、乱歩自身が自作について、エロやグロが過ぎた、といって悩むような人であったから、それを踏まえて制作した。そして登場いただく御本人に、作品を見てもらってウケたいと夢想するのである。すでに亡くなった人物に対して奇妙なことのようだが、ウケるように喜ばれるように、と常に考えていると、作者、作品との間に、独特の空気が生まれるような気がしている。 私は三島作品を読むのが高校生になってから、と遅れた。それは小説とは別な世界、決して上手とはいえない演技の映画『からっ風野郎』『黒蜥蜴』。それにあの市ヶ谷での最後のせいである。しかしここに至ると、生前世間から失笑を買ったであろうことさえも、今の私には魅力に思えている。 失笑といえば、あまりに明快にしてあからさまな怪作。かつて偽名まで使い、わざわざ下手糞に書き、同性愛誌に掲載された『愛の処刑』がある。あれを読んで元某会の会員はどう思うのだろう。もっとも三島作品の傑作の一つ『憂国』は、『愛の処刑』の改作といえるのだろう。

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近衛兵一聯隊勤務 武山信二中尉は、新婚間もないという理由から、二月二十六日に決起した仲間から何も知らされずに置いていかれ、鎮圧軍として仲間を打つことはできないと、妻と共に自決する。という話であるが、青年将校の中には、乳飲み子を残して決起した人物もいる。新婚だから知らせずにおこう。というのは不自然な気がする。そんな理由で置いていかれては、残された方がたまらないだろう。第一師団が満州に派兵されることが決まっており、これを昭和維新を妨げるためと判断していた皇道派将校が、渡満までに事をを起こすであろうことは、統制派の中ににも予想する空気があった。仲間から知らされなかったから、というのは呑気すぎないだろうか。79年、当時話題になったNHKのドキュメンタリー番組「戒厳司令『交信ヲ傍受セヨ』」は、戒厳司令部が、敵味方に係わらず関係者の電話を盗聴しており、記録した録音版が発見され、それを元に作られていたが、暗号さえ知っていれば関係者の妻でさえ、事件現場を行き来できた状態である。作中の武山中尉は26日の朝から28日の日暮れまで鎮圧側として警備をし、交代を命じられて、一晩帰宅を許され「おそらく明日にも勅命が下るだらう。奴等は叛乱軍の汚名を着るだらう。俺は部下を指揮して奴らを討たねばならん。・・・・・・俺にはできん。」というわけで“二人がどれほどの至上の歓びを味はつたかは言ふまでもあるまい”という「最後の営み」のあと、二人は自決する。しかしその日の朝にはすでに決起軍は反乱軍となっていたはずで、家に帰ってセックスしている場合ではなかっただろう。 「戒厳司令『交信ヲ傍受セヨ』」でおそらく私を含め、もっとも視聴者を驚かせたのは、北一輝と安藤輝三大尉の会話だったと思うが、当時のプロデューサーが書いた『盗聴二・二六事件』中田整一(文芸春秋)によると、その北が安藤に資金の提供を打診する会話は、北を黒幕にでっち上げるため、戒厳司令部が北に成りすましたものだったことが明らかにされている。

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朝T屋で朝食を、と出掛けにポストを見ると、ネットオークションで落札した、1970年/昭和45年12月26日の朝日新聞が届いていた。三島由紀夫自決の翌日、三島と森田必勝の首が並ぶ現場写真が掲載された新聞である。他にバルコニーで『関の孫六』を見つめる三島の写真など。本日T屋には歴史好きタクシードライバーのTさんが来ているはずである。最近入手した二・二六関連の物を持っていく、とT屋のかみさんに伝えておいてもらったが、夜勤明けのドライバーが7、8人すでに盛り上がっている、というので今日は止めて、新聞だけを持っていくことにした。Tさんは三島のことを“三島先生”と呼ぶ。日大の学生だった頃、楯の会に入会したかったが、規定の身長170センチなかったので諦めたという。楯の会に本当に身長制限があったかどうかは知らない。Tさんの会話には、つねに茶目っ気が含まれており、真面目な顔して冗談をいうからどこまで本当なのか判らない。直球も変化球もモーションが変わらないのである。根っから深川っ子のTさんは会社をいくつか潰し、今はタクシー会社の寮で一人暮らしだが、若い頃の武勇伝は、Tさんのサービス心もあり、聞いていて可笑しくてしょうがない。今朝は以前から酒癖が悪く、ワイワイやっているタクシードライバーの群れに、余計なことをいってくる男を、シとヒの区別がつかない下町言葉丸出しのタンカで追い出したあとらしい。何しろ正義感の人である。 午前中だというのに、すでに全員ベロベロの状態で、Tさんともたいして話すことはできなかったが、財閥から金を貰い、若者をたぶらかした、と北一輝が大嫌いなことだけは判った。

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三島没後40年近く経っている段階で、自衛隊関係者内では、三島に関して語られることは少ないようである。自衛隊にとってもそれほどの事件だったということであろう。三島の体験入隊時のことが内部の人間に語られる機会は少なく、興味深い。三島は上半身を鍛えることには執着したが、それに較べて下半身は細い。私がアダージョで三島を制作した時、当初ボクサーのイメージでトランクスを穿かせていたのだが、上半身に較べて下半身が細くバランスが悪い。実際そうだとしても、私はここで三島のバランスの悪さに目を持っていくのは本意ではなく、むしろ邪魔であったので、せっかく下半身を作っていながら急遽空手や柔道着のようなズボンに変更した。ビルドアップ以降の三島は、何かというと裸になりたがり写真に撮られたがったようだが、撮る側にしても、スターの三島に気を使って妙なことを強調しなかったはずである。一番気にしていた背の低いことを、現在知らない人が多いことでも判る。撮り方によっては次回撮らせてもらえなくなる、くらいのことはあったのかもしれない。 三島がまだたいした訓練をうけていないのに係わらず、綱渡りの訓練をしたいといいだし、夫人を呼び、わざわざ記者を集めて披露したらしい。三島は得意の上半身の力でこなせると踏んだのであろう。颯爽とロープを渡る所を見せたかったに違いないが、こういうところは実に子供っぽい。バランスが取れずに落下しロープに宙吊りに。ミニスカートにブーツで激を飛ばす夫人。「情けない」と落ち込む三島。 著者はながらく自衛隊に体験取材をしてきて関係著書もあるようで、口数の少ない隊員の証言にも、隊内の微妙な空気を伝えてくれている。事件以降三島作品を一切読まない、という隊員もいるが、あの日バルコニーの下から野次っていた隊員とは別に、実際訓練の日々を共に過ごした隊員には、三島の真摯な姿は感銘を与え、尊敬の念を未だに胸に秘めるように持ち続けているのが良く判った。 同じく自殺した隊員マラソンの円谷幸吉についても触れられているが、水に浮かない体質のカナヅチの円谷。慌てる様子も見せず、泳ぎながら沈んで行き、そのたび助けられたという。律儀で真面目にも限度がある。東京オリンピックの時、男は後ろを振り返るな、という父親の言葉を守ったおかげで、競技場内でゴール寸前にヒートリーに抜かれたのではなかったか。川端康成が絶賛した遺書も私にはただ不気味である。その点三島は、褒められたいと可笑しいくらい懸命なところのギャップが私にはなんとも魅力的である。

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青木画廊にて元薔薇十字社の社主、内藤三津子さんにお会いする。薔薇十字社の書籍はいまだにファンが多く、澁澤龍彦責任編集『血と薔薇』も復刻されている。広告まで作られながら未刊に終った写真集に三島由紀夫が被写体になった『男の死』(撮影篠山紀信/デザイン横尾忠則/跋文澁澤龍彦※発売広告による)というものがある。三島自決の寸前まで撮影が行われ、死の一週間前に内藤さんは三島と出版契約を交わしている。この中で三島は様々な人物に扮し、様々な死に方をしている。  私は常々、作家を制作するにあたり、すでに亡くなっている人物とはいえ、作家本人に見てもらい、できることなら本人に喜ばれたいと夢想しながら制作している。三島を制作するにあたって、三島好みの人物に扮してもらい、三島が愛好した芳年の血みどろ絵よろしく、様々な形で死んでもらったら、三島本人は間違いなく喜ぶに違いないと考えた。その時点で未刊の写真集『男の死』の存在を知らず、まさか三島本人が最後に『男の死』を残そうとしていたとは思わなかった。過去の雑記を調べてみると三島を制作し始めた数日後、2004年4月(某日12)に思い付きを書いており、翌月制作のために入手した芸術新潮の三島特集号の篠山の言葉で『男の死』を知ったことも書いている。(某日2)余談であるが、『男の死』というタイトルで雑記を書いた数日後に父が亡くなっている。 私は『男の死』は、三島が自身の死の副読本のつもりで作ったのではないかと考えている。壮絶な死の直後に世人に見られることを想定して作ったのは間違いがなく、その効果は絶大だったであろう。あの死の直後に、たとえば魚をぶちまけ、腹に包丁を刺して死んでいる魚屋に扮した三島を見せられた世の中のショックは大変なものだったはずで、冷静に準備された作品群を見たなら、あの事件のその後の評価にさえ、影響を与えたに違いない。しかし、諸々の事情で公開されずに終わり、40年起った今公開されたとしたら、この“コスプレ写真集”は、生前に三島に浴びせられた以上の失笑を買う可能性が大きいであろう。三島の企みどおり、あの直後に見てこその『男の死』であったと思われる。タイミングの天才篠山が、未だ公開しない理由の“一つ”もそこにあるだろう。  本人が演じるのと三島像を制作して、というのは意味は違うが、私がイメージしたことを40年前に企画制作を試みた方と是非お会いしたい、と内藤さんには昨年すでにお目にかかっている。現在青木画廊に展示中の『からっ風野郎』は、石塚版『男の死』のプロローグのつもりで制作した作品である。

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