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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


なぜこんな時に、という感じでパソコンの調子がおかしくなり、ネットにも一日つながらなかった。幸い外付けのハードディスクに何かといっては放りこんでいたので、別なマシンで作業は続けられた。外付けハードディスクは私のもっとも好きな周辺機器である。嫌いなのはプリンターで癇癪のもとでしかない。それはともかく『金閣寺』完成。もっとも告知に使用している炎上する金閣寺の前の三島と、聖セバスチャン状態の二点で、特に小説の内容とは関係がない。明日は『船の挨拶』の仕上げにかかる予定であるが、こちらは内容そのまま。
三島が被写体となった未刊の写真集『男の死』は撮影者の篠山紀信が、映画のスチールを撮っているようでつまらなかったとくり返し述べている。撮影者のいわれるがままオブジェに徹した『薔薇刑』と比べて、三島主導で撮影された、ということもあろうが、おそらくそこにはただ無名の男たちが無惨な死に様を繰り広げているはずで、文学性など排除されたものに違いない、と私はふんでいる。三島はそういったものをやりたかったはずで、だからこそよけいに、あの事件のあとに見た者にインパクト絶大のはずであった。企画者の内藤さんには、あえてどんな内容かは伺っていないが、今度の個展会場では是非伺ってみたいと思っている。

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大変有名な三島扮する『聖セバスチャンの殉教』は、数年前にニューヨークで別カットが発見された。三島が手紙と共に送ったものだそうだが、それはぼかしてあったが腰の布も着けていない。両カットとも苦しそうだが、殉教の図なのだから、もう少し恍惚として嬉しそうでも良かったのではないかと思っている。 一方私のセバスチャン?は、というと、燃えさかる金閣寺の二階の柱に縛られている。西洋の聖人が日本のお寺で、というのはおかしな話だが、面白ければ整合性などどうでも良い、と少年の私に教えてくれたのは、かの偉大な江戸川乱歩先生である。そんなことを気にしているようでは健全な大人になれんぞ、と。 私は確かに、小学校の木造の図書室でその声を聴いた。

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三島は映画『憂國』において、帝國陸軍将校として腹を切った。先に本人にやられてしまっては、同じことをしたところで面白くない。そこで『奔馬』のなかの『神風連』の一人としてやってもらうことにした。昔の雑誌には烏帽子に鎧姿で挙兵したとあっだが、『嵐の時代明治9年』大坪草二郎著(1932年)によると、鎧を着た者もあったが、烏帽子に直垂や、久留米絣の筒袖に袴という者もあり、どうやらバラバラだったようである。考えてみると明治も9年経っているし、敵が鉄砲や大砲で向かってくるところを、わざわざ刀や槍で戦おうと考えた連中である。死ぬつもりなのだから防御に関しては無頓着である。登場人物は断髪令に廃刀令、と侍の魂を奪われてまで生きていたくない。なにしろ死にたい、死なせろ、いつ死なせてくれる、とまるで腹をすかせた子供の如しである。三島一人の割腹に衝撃を受けた昭和の時代とは訳がちがう。 しかしこの乱の雰囲気を出すとなれば、烏帽子を被らせ鎧を着せたい所だが、腹を切るなら、鎧は脱いだろう。脱ぐとなれば被った烏帽子も脱いだろう。だったら手足を防御する具足類だけにするか、これに陣羽織を着せるかにしよう。 何も制作上頭に浮かんだ細かいことを書く必要はないが、Kさんと飲んでいる話より良いだろう。と思うのは私だけなのか、アクセス数は減る。

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三島は切腹願望が強く、そういった自身の写真を撮らせたり、同好の志との交わりも明らかにされてきている。明らかにされなくとも著作を読めば判ることであるが。三島で『男の死』となれば触れなければならないであろう。 私は以前、どこでも血だらけにする方法を考えた、と書いた。だが実際はある条件が必要で、どこでもというのはいいすぎであったが、大変上手くいき、披露した人をたじろがせるには充分なできであった。三島は映画『憂国』の撮影現場でもそうだったように“もっと血を”という人であった。舞台に僅かな傾斜を作り、流れ広がる工夫もしていたという。そんなこともあり、流血の背景画像に満足していた私だが、今になって考えてみれば個展会場を探すにあたり、まだ完成作がなかったとはいえ、先方にそれを披露していたのが断わられ続けた原因でもあったろう。私の作戦ミスであった。私としては『だってそういう人なんですから』。と単純に思っていたわけである。 告知ページにも書いたが、制作にあたっての私の発想は、たとえ故人であっても本人にウケたい、という想いであるが、結局三島以外の方々に披露することになるわけで、作者の私にしても、プロレスの流血がせいぜい、という実状もある。悩みどころであったが、本日、制作中の背景がピッタリということに気がついた。それは夜の屋外シーンであり、明るさの按配によって、仮に血以外の物まで出てしまっても加減できるというわけなのである。

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今頃何を考えているのだ、という話だが、予定していなかった『黒蜥蜴』をラインナップにいれてしまった。しかもそれを作り始めてしまった。思いついたのが最近なだけに自分にとって新鮮だ。というのが暴挙に出た理由らしい。ただ当初、剥製の三島を黒蜥蜴と乱歩が眺めている画を考えたのだが、用意した背景の画角がせまく、乱歩をいれると煩雑になってしまう。三島と乱歩の共演は今回見送ることにした。 さらに。時間的なこと、バランスを考えラインナップから削除していたはずの作品の、別な扱い方を思いついてしまい、よせばいいのに一眠りしたら、それを作ることにしてしまった。思いついたのが一昨日だから、さらに新鮮だ、というわけなのだろう。これまで作ってきた背景が、主役の登場を口を開けて待っているというのに。 しかしこういう時にこそ、作りたいという欲望は利用価値がある。こんな時私は早い。この辺りの自分の扱い方は良く判っており、作りたくてしょうがないのを、あえて焦らし、腹ペコの状態にしてやおら首かせをはずすことを良くやる。  確実に出品することになった作品は、告知のページに足していくことにした。

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一日  


三島が好きなタイプの男に扮し様々な死に方をしている。三島にはドンピシャに決まっている。私は当然そう考えたが、今から42年まえに、そんな写真集を企画したのが、薔薇十字社の社主であった内藤三津子さんである。三島を3度にわたって説得したのが内藤さんだと知った瞬間から、人見知りの私が絶対お会いしたいと思った。連絡先が判り、お手紙をお出しして、明日会えるという日にK本に飲みに行き、当時同じマンションに住んでいたフリーの映画プロデュサーYさんにその話をした。するとYさん、若い頃に映像の仕事で横尾忠則さんについて助手をしたことがあり、篠山紀信撮影の三島が聖セバスチャンに扮したカットを参考に、絵を描いている現場にいた、という。しかも今日、横尾さんの事務所に数十年ぶりに電話をしたところだという。 『男の死』はもともと雑誌『血と薔薇』に三島が聖セバスチャンに扮した物と海辺での2カットが発表され、それが発端となり横尾さんと三島の二人の写真集として企画された。横尾さんの体調の問題で三島の分だけが撮影を終え、その一週間後に亡くなる。 そしてYさんは現在横尾さんのドキュメント映画を制作しており、私は内藤さんに個展のDM用に一筆いただいたところなのである。

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今年の深川の本祭りが中止になったのは残念であった。こんな年にこそ、と思うのだが。 三島の『仮面の告白』に、神輿について描かれている場面がある。『祖母は仕事師を手なづけてゐて、脚のわるい自分のために、また孫の私のために、町内の祭りの行列が門前の道をとほるやうに計つてもらつた。本来ここは祭りの道順ではなかつたが。仕事師の頭の手配で行列は毎年多少の迂路を敢えてしながら、私の家の前をとほるのが習はしになつた。』 ある年の祭りの日、突然神輿が門内になだれ込み、幼い三島は大人に手を引かれ、とっさに二階に逃げる。『植え込みが小気味よく踏みにじられ躙られた。本当のお祭りだつた。私に飽かれつくしてゐた前庭が、別世界に変つたのであつた。神輿は隈なく練り廻され、潅木はめりめりと裂けて踏まれた。何が起こつてゐるのかさえ私には弁へがたかった。』『何の力が、かれらをこのような衝動に駆つたのか、のちのちまでも私は考へた。それはわからない。あの数十人の若者が、何にせよ計画的に、私の門内へ雪崩れ込まうと考へたりうすることがどうしてできよう。』

手なづけられた仕事師の頭はともかく、三島の祖母が神輿のルートを変えさせたことに、若者達はずっとムカついていたと思うのだが?『私を目覚(おどろ)かせ、切なくさせ、私の心をしらぬ故苦しみを以って充たした。それは神輿の担ぎ手たちの、世にも淫らな・あからさまな陶酔の表情だった。・・・・・・』だとしたら当然そんな表情になるだろう。
http://blog.goo.ne.jp/diaghilev/e/ac8b6224aa9ae42e574dbebd148fcf35

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夕方『8×10カメラな仲間たち写真展2011』のオープニングに出かける。入り口ドアを開ける前にすでに酒臭い。アナログな装置でジャズが流れる中、様々な技法やレンズを使用した作品を見ることができる。盛況である。25日まで。 地元に帰り、たまたま古書店に寄り昭和二十年代の『近代百年史』を買う。明治6年の参議分裂以後の大久保利通時代を扱った号。各地に起こった不平士族の叛乱には『佐賀の乱』『秋月の乱』『萩の乱』などあるが三島が『奔馬』で扱った『神風連の乱』。錦絵などでなんとなく様子を思い込んでいたが、決起前に藤崎八幡宮に集う神風連の絵が載っており、それでは兜こそかぶらず烏帽子であったが、全員鎧を着けている。廃刀令をきっかけに立ち上がった神風連。電線の下を通る時は鉄扇で頭を防護し、洋装の人物とすれ違っては、懐から塩を出して清めたというラストサムライである。この時代に火付け用の武器に刀、槍のみで鉄砲に立ち向かい、あたりまえのように一日で壊滅する。それにしても明治九年に鎧?イヤだ。鎧など絶対作りたくない。その気持ちのままT千穂で飲酒してしまう。 

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TVでスタジオジブリの最新作『コクリコ坂から』のCMを見た。国際信号旗を掲げる少女と、やはり旗を掲げた船に乗る少年。一瞬のことで定かではないが少女の「船の挨拶みたいだね」。というセリフがあったかもしれない。 私は先日房総へ出かける前に、この国際信号旗について調べた、と書いた。これは旗の組み合わせにより様々な意味の信号になるというものであるが、何故調べたかというと三島由紀夫に『船の挨拶』という戯曲があり、それを作品化しようと考えたためである。三島が『潮騒』の取材で三重県の神島へ行ったことがきっかけで作られた作品で、凡そこんな話である。 ある灯台の海上保安庁職員。毎日通り過ぎる船をチェックしている。船はそれぞれ信号旗を掲げ、彼はやはり船に向け灯台の庭に信号旗を掲げている。彼はその船からの信号旗による挨拶に倦み果てていた。ある日怪しげな密航船が現れ、銃撃を受けるが、待ち望んだ“熱い火みたいな挨拶”を受けたと感謝して死ぬ。という話である。作中主人公が掲げていたのがW・A・Yの3種の旗で『貴艦ノ愉快ナル航海ヲ祈ル』という意味になる。ちょうどそんなことを考えている時だったので、いきなり少女が信号旗を掲げるシ一ンを見て驚いた、というわけなのである。『コクリコ坂から』はひょっとしたら『船の挨拶』から着想を得ているのかもしれない。 ジブリ作品は背景が益々凄いが、残念ながら人物の造形が趣味に合わないのでちゃんと見た覚えがない。

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2・26事件の決起将校の中心人物に磯部浅一一等主計がいる。(事件当時は免官され立場は民間人であったが)三島の『英霊の声』は2・26事件の決起将校たちの魂が、天皇への純粋な心から決起したのにもかかわらず、陛下に叛徒といわれたと嘆き、特攻隊の英霊がすめろぎ(天皇)が人間となったことに憤るというものだが、執筆中は何かが乗り移ったように筆が走ったそうで、当時の丸山明宏に誰かがついているといわれ、三島は「磯部か!」といって顔色を変えたという。 2・26事件の背景には青森などの農民の窮状があったが、天皇は「農民は苦しいとはいえ、自ずから彼らにも楽天地がある。自分もヨーロッパに旅行した時、自由な空気を吸ったときは、なんとも楽しかった。だから、農村には農村なりの楽しい愉快なものがあるだろう」。といっていたというから、つまり娘を売りに出すような悲惨な実態を何も知らされていなかったわけで、これでは決起将校の気持ちが判るはずもない。よって将校は天皇の逆鱗に触れ、反乱軍とみなされ処刑されたわけだが、磯部は密かに獄中から持ち出された手記に「今の私は怒髪天をつくの怒りにもえています。私は今は、陛下をお叱り申し上げるところにまで、精神が高まりました。だから毎日朝から晩まで、陛下をお叱り申しております。天皇陛下、なんという御失政でありますか、なんというザマです。皇祖皇宗におやまりなされませ」とまで書いた。尊王討奸(天皇を尊び天皇の悪い取り巻きを討つ)と立ち上がったはずがなんともやりきれない結末である。

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一日  


Kさんから石垣島で大盛りラーメンを食べてる画像が届く。あれだけいっておいたのに。確かにドンブリはデカイが、これでは只今高円寺です。といったって判りゃしない。 Kさんが出かけている隙に作品制作について書く。現在制作中の三島由紀夫のシリーズは、以前個展の開催場所がほぼ決まっていたのだが、内容に問題があると断わられてしまっている。三島に縁のある場所であったが、それがかえっていけなかった。内容で断わられるなど、私もようやく一人前になったような気がしないでもない? 『中央公論アダージョ』を手がけている間は個展は開けず、06年の『夜の夢こそまこと』 (青木画廊)以来一度も開催していない。だから都営地下鉄に乗らず、インターネットもやらない人からすると、私は止めてしまったと同然かもしれない。そんなこともあり、アダージョ終刊が決まったときから、次ぎの個展は以前から構想だけはあった三島でやってみたかった。相変わらず作家の作品世界に本人に登場してもらうのだが、現段階でいえることといえば、『仮面の告白』『F-104』『潮騒』『金閣寺』。あとは凡そ7作品である。アダージョ制作の勢いのまま、今年の11月25日の三島の命日を目標に一気に作るつもりであったが、上記の理由でズッコケてしまった。しかしモチベーションが下がることはまったくない。制作したいと発表したいは又別な気持ちである。 母から度々聞かされたが、台風の日、幼稚園児の私はクレヨンで佃の渡し舟の絵を描いていた。煙突あたりに東京都のマークがあり、同じ物がマンホールの蓋にあったと、どしゃ降りの中、止めるのも聞かず確かめにいったという。せめて雨が止んでから見に行けば良いだろう、というのは作る、ということに関しては何も判っていない。少々いいにくくはあるけれど、あれから私はあまり変わっていないと思う。そして自分にいい聞かせるのである。こうなったのも生まれつきだから、私のせいじゃない。

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潮騒  


このベストセラーは三島らしくない作品といわれる。三島本人も、本音かどうかは判らないが、こういう作品がベストセラーになり、ウンザリしている、というようなことをいっている。 数十年ぶりに制作の合間に半分ほど読んだ。映画で山口百恵が包丁でノコギリのようにギコギコ切っていたのは原作ではナマコであった。 爽やかな青春物語である。18歳の新治の父親は、歌島から三哩位のところで、B24の艦載機に出会い、停滞したエンジンから上がっていた黒煙が敵機の目標にされ、爆弾投下と機銃掃射により死んだ。『新治の父の頭の耳から上はめちゃめちゃに裂けた。もう一人は目をやられて即死した。一人は背から肺に盲管銃創を負い、一人は足をやられた。尻の肉を殺がれた一人は、出血多量で間もなく死んだ。甲板も船底も血の海になった。石油タンクが射たれ、石油が血潮の上に溢れた。そのために伏せの姿勢をとれなかった者は腰をやられた。』盲管銃創とは弾が貫かずに体内に残ることをいうが、こんなシーンは三島由紀夫、ついリアルである。

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三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃 (中川右介著)を読む。120人に及ぶ人たちの昭和45年の11月25日、いわゆる三島事件当日の体験が時系列順に並べられている。初めて読んだ話として、後にNHK会長になる島桂次の死の前年に出版された回想録には、当日サンデー毎日の徳岡孝夫とともに、市ヶ谷会館で三島からの封筒を受け取ったNHK記者の伊達宗克が、前日の24日に『NHKの責任者の方に』と書いた手紙を持ってきて、それには“私の行動がまげられて伝えられると困るので肉声を正確に伝えてほしい”と書かれており、そのため翌日NHKは三島の演説を撮影することができたという。伊達は「お疑いなら、ここから電話をいれましょう」と言った、とまで書かれている。リアルに語られているが、準備の時間がそれだけあったとしたら撮影はともかく、演説をすべて録音したのが文化放送だけだった、ということはないはずで、眉唾物の話しであろう。 驚いたのが、三島と二度しか面識のない村田英雄とのエピソード。三島はあの日、11時15分前後にトヨペットに乗って市ヶ谷に向かうが、その直前、村田英雄の留守宅に電話をかけ、公演のため岐阜にでかけていることを家人に聞くと、岐阜にまでわざわざ電話をかけ、十年連続紅白歌合戦の出場決定のお祝いを伝えようとしたらしい。まだ村田は到着していなかったが。それが出発の凡そ15分前というから、呆れるばかりの律儀さというか、もうヘンである。 本書には各界の人々の当日の衝撃が語られているわけだが、割腹による自決だけだったら、これほどではなかったろう。やはりあの介錯方である。

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映画監督、小津安二郎を制作中である。小津は独特のローアングルで有名で、ローアングル用の脚を切り詰めた三脚を特注していた。当の小津も必然的に低い位置で、時にムシロを敷いた低い位置から演出することになる。二体目となる小津は、そんな様子を作る予定である。 東京の深川出身の小津安二郎は9歳で三重県に転居している。その小津と縁のある、三重県は鳥羽市より海女の磯メガネおよび磯着が届いた。磯メガネと呼ばれる水中眼鏡は一目でプロ用とわかる頑丈な作りである。こう見ると私が事前に入手していた戦前の水中眼鏡は、とても仕事に耐える作りではない。 肝心の磯着はというと、以前実際に使われていた物で、着ていた人の名前、何故かクリーニング店の判が押してある。畳んであるのを見ると割烹着のようであるが、開くとまさしく。 他に腰巻状の布着れと、これはブラジャーのように胸に当てるのか、下半身をさらに保護するものか、頭に巻く物かは不明だが、ただ布に紐が付いた物。さらに用途不明なのが大きめな三角巾に紐が付いた物である。紐が両方についていればフンドシのように使うのか、とも思うが短い紐が片側に一本なのである。おそらく文明開化の頃、西洋から入ってきた女性用下着を始めて見た日本人は、今の私のようであったに違いない。 ところで。お婆ちゃんが使っていた物、というのはすでに聞いてしまっている。

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先日某中古車販売店でトヨペットコロナを撮影した。車のボディやウインドウなどは映り込みがやっかいで修正に手間がかかる。コロナは三島が中古で入手し、11月25日に自宅から自衛隊に向かった車である。そして車中で最後に歌ったのが『唐獅子牡丹』。殴りこみに向かう池辺良と高倉健に自分達を例え、楽しげに歌ったらしい。 ヤクザ映画といえば、三島は鶴田浩二が好きで『博奕打ち 総長賭博』(68')を絶賛していた。たしかに鶴田の眉間辺りにただよう陰りはただごとではない。一時映画のポスターを収集していたことがあり、仁侠映画も集めたが、鶴田は特別にフォトジェニックであった。先日ネットで『ビージーズ』のドキュメントを見ていてロビン・ギブが耳に手を当てて歌っているのを見て鶴田を思いだした。ついでに女に刺殺された物まね芸人佐々木つとむまでも。 仁侠映画といえば、なんといっても美しかったのが藤純子である。映画をやっていなかったら絶対立ち入りたくない下町の東映系映画館で、中学生の私は顔面の大アップで、その美しさに唖然としたものである。泣いてよし怒りに燃えてよしであった。 三島に着流しを着せ、あの池辺と高倉の道行を再現したらどんなものであろうか。タイトルは当然『昭和残侠伝』ということになろう。

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