手にマクワウリや托鉢の鉢、腰に瓢箪、背中には巻いたゴザを背負っているので仕上げの後、個々の着彩を済ませ、装着して完成ということになる。臨済宗中興の祖に対抗するつもりなどないが、白隠禅師の『乞食大燈像』とはまったく趣の異なるものとなった。 ここのところ作るものがことごとくターニングポイントにあるように思えてしまうが、性能が今一つの頭さえ使わなければ道を外すことはない。逆にいえば行先が見えないといえるが、先が見えるようではむしろ困るのである。 白隠禅師へのオマージュという意味もあり『乞食大燈像』としたいところだが、ある老師のユーチューブの法話を拝見していたら乞食は避けていたので、昨今はまずいのだろう。であるなら『真桑瓜と大燈国師』とでもしておこうか。