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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨日書いたような出来事があると、雲の上でシナリオを書いている存在があるのではないか?と思いたくもなるが、有頂天にさせておいてあまりなオチである。 その後信じがたいことだが、街宣車に来られても困る、と他のギャラリ一に断られたりした。しかし私にはそもそも三島本人が死ぬ直前に腹に包丁を刺し、魚ぶちまけて死んでいる魚屋に扮し、篠山紀信に撮らせていた、という“後ろ盾”があった。発表を急いだが、それはある筋からの情報で、薔薇十字社版『男の死』が発表される、という情報があったからである。NYでの三島が扮した『聖セバスチャンの殉教』の未公開バ一ジョン発見も私を焦らせた。(しかし出版は誤情報で、出版されない理由を後で知った。)1日でも先に発表しないとただのバッタもんである。 企画者の内藤三津子さんに、出版契約を済ませた帰りの車中、三島は「右翼の奴ら今に見ていろ」といったと伺った。内藤さんは『三島さんは右翼じゃないの?』と思ったそうである。(ちなみに私は三島を右翼だと思ったことは一度もない)それは数日後の自決のことをいっているようだが、私は二の矢となるはずだった『男の死』の出版のことを指している、と考えており、それは自決直後だからこそ“効果”があった。私は「ザマアミロ!ガハハハ」と笑いそびれた三島の無念を思うのである。

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

HP



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刺青  


三島由紀夫仕上げに入る。背後に控える4人組は撮影済みであるから残すところはあとは背中の『唐獅子牡丹』である。『三島由紀夫へのオマージュ 男の死』では構想はあったが時間もなく、刺青の質感をどうするべきか浮かばず断念した。そこで今回は知りあいの女刺青師『彫S』に相談した。彫Sは背中一杯の唐獅子牡丹はやったことがないので1彫Sの知り合いの作品唐獅子牡丹を合成で写す。2誰かの背中に描いてもらったものを合成で写す。3私が人形の三島の背中に描く。当初行程は面倒だが2で行こうと考えていた。しかし人形を作り進めるにつれ欲が出て来る。様々な角度から撮りたくなって来た。そうすると1や2では1カット作るのが精一杯となるだろう。ならばリアルな質感は望むべくもないが、3なら様々な角度で撮影ができる。 彫Sに現在の状態の画像を送ると、彫S自身が描いてみたい。との返事。贅沢な話になってきた。

彫S作


朗読ライブ

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一日  


昨日の続きである。三島は何事もきっちりと予定通りにことを運ぶ。特に時間にはうるさい。それがあの時の演説は何故か予定より早く切り上げている。仮に三島は怒号渦巻く自衛隊員の中に、良く知る数人の、目を輝かせ三島を見上げる隊員を見つけていたとしたらどうであろうか。明らかに我々も三島先生に続こう、といっているのが表情で判る。そして動き出した。これはまずい。そんな連中が現れては、せっかくの怒号の集団と自分たちとのコントラストが破られ、絶望の名場面が台無しである。演説切り上げ急ごう。というのはどうであろうか。さすがに三島といえども死を前にして予定がくるった、というのはないだろう。出掛けに村田英雄に、紅白連続出場のお祝いの電話をかけているような人である。
いつもの美人ばかりのクリニックで、初めてのエコー検査を受ける。魚群探知機の原理だと思うが、腹部に妙な魚が映っては恥ずかしいので、なんとか始末してから出かけた。その後『劇場版SPEC~結~漸ノ篇』を観る。最後の完結篇だとばかり思っていたら、一歩手前のつなぎであった。ハードルやロングジャンプ選手の、踏み切り手前の歩数あわせのジタバタを見せられた感じであったが、かといってこれを観て最後を観ないわけにいかない。

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三島由紀夫の命日である。生誕だ没年だ、とほとんど興味がないが、この時の背景の撮影はあまりに有名な場面だけに、光の方向が違っていたりすると面白くない。25日にできるだけ近く、時刻もできるだけ近い時間に撮影している。 70年頃といえば、アジ演説は拡声器を使うものというイメージがあったが、子供心に拡声器なしでは聴こえないじゃないか、と思った。持ち込むのが無理だったのであろうか。それでも“肝腎”の日本刀『関の孫六』はどうどうと持ち込んでいる。 今思うと、聴こえようが聴こえまいが三島にはどうでも良かったのであろう。むしろ怒号にかき消されることを想定していたであろう。あの場面は必死の説得に応じない自衛隊。「もはやこれまで」。ときびすを返して長官室に戻り割腹。というシナリオだったはずで、仮にあそこで「三島先生私も」などという隊員が現れてしまったら、三島の想定したであろう名場面が台無しになってしまう。それは絶対に困る。あそこでは怒号を浴びせられなければいけなかったはずであり、空気を読めない隊員が現れなかったことは幸いであった。 あそこでそんな隊員が現れてしまったら、どうするつもりだったのか三島に訊いてみたい気がするが、当然、三島のことであるからそんな“万が一”にもそなえていたことは間違いない。

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初志貫徹的イメージがある三島が、初めに手掛けたスポーツ、ボクシングを何故止めたのか知りたかったが、鈴木邦男さんの『遺魂』(無双舎)に始めたきっかけを含め出て来る。

銀座のゲイバーで外人の喧嘩を止めたのが安部譲二。「君が今、使った術は何ですか」「ボクシングです」。三島は笹崎ジムを紹介されたそうだが、安部がジムの人間に「あの方は頭で仕事する偉い先生だから、ボクシング教えてもいいけど頭を叩くんじゃないぞ」。しかし加減をされていることに気づいた三島は「僕は不愉快です!」と安部に青筋立てて叫んだそうである。「それは僕が言いました。当たり所が悪いと涎がたれっぱなしになるし、“さしすせそ”も“たちつてと”も言えなくなります。ボクシングで食っていく方じゃないんだから、頭を叩かないよう頼んだんです。何が悪いんですか」。三島は怒って席を蹴立てて帰るが、その後ボディビルに転向する。
それにしても三島関連本を読むと石原慎太郎という人物は、つくづく三島を虐めるのが得意である。初対面では「思ったより小さいですね」。三島が芝居に出れば「足が震えてましたね」。いちいち、一番三島がいわれたくないことをいう。相手の気持ちはどうでもいいから、思ったことは口にだせ、という躾を受けたのであろう。私は弟の方も歌を別にすれば、坊っちゃん臭くて苦手である。

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東京積雪4センチ。6年ぶりだという。この程度しか降らなくなってしまったのか。天気も良くなり、戒厳令下の帝都の撮影には出かけず。 『三島由紀夫「最後の独白」市ヶ谷自決と2・26』前田宏一著(毎日ワンズ)を読む。2005年に出たものだが、まったく知らなかった。著者は元週間ポストの記者である。事件の直前の11月17日、著者にとって最初で最後となったインタビューをしている。三島はスケジュールを調整し、25日以降の約束はしていないことになっているが、三島に写真撮影を頼むと、「そうだねぇ、二十五日はのっぴきならない用があるんだが、二日もあればカタがつくと思うから二十七日、朝のうちにお電話下さい。そのとき時間決めましょう」といったという。そして今でも三島は市ヶ谷から帰るつもりだったと考えており、目的は死することではなく、訴え、真実に気づかせることだったという。二十七日の約束をした著者ならではの感想であろう。 私にはそう思えないし、未だにニュース映像を見ては、自衛隊員の中から、一人でも二人でも「三島先生お供します」という隊員が現れたらどうするつもりだったんだ、とハラハラする。声届かず、もはやこれまで、と武士がきびすを返し自決する。というのが用意されたシナリオだったはずで、三島のあの場での“演技”からは私にはそれが透けて見える気がするのである。よって映画『MISHIMA』における名優緒方拳のバルコニーの必死の訴えかけは納得がいかない。 三島について書かれているのは第一章であり、後の章は2・26事件についてであり、特に先年発見された青年将校等が獄中で書いた遺書がそのまま掲載されている第三章の『血滾る遺書』が嬉しい。
七時に阿佐ヶ谷。『奇譚倶楽部』という店に『中央公論Adagio』全号を展示いただいているという。行く前に中央線が誇るブルースベーシスト谷口さんのお宅で手打ち蕎麦をご馳走になる。湯煎により70パーセントまで煮詰めるという蕎麦汁。思いっきりドロドロの蕎麦湯も堪能し、一緒に『奇譚倶楽部』へ。発行順に壁に額装されて並べられていた。 帰りの中央線。どうにもトイレに行きたくなり、限界で途中下車したのがたまたま市ヶ谷駅。 東京駅からタクシーでT屋に。先日酔って両乳を露出した女性客等とTVでザ・タイガースを観る。サリーがベースを弾いており、学校の先生になっていたピーがドラムを叩いていた。懐かしくは観たが長生きすると伝説にはならない、とつくづく。



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昨年の個展『男の死』は本来、今年やるつもりだったのを開催したこともあり、想定していた作品をすべて作り切れなかったが、それでもバランスだけはとるつもりでいた。しかし『仮面の告白』が素材満載の作品であり、そのせいでバランスが取れなかった。『仮面の告白』に対し『憂国』にもっと重心をかけるつもりであった。 三島はどれか一つ、といったら『憂国』を読んで欲しいといっているが、これ一つといわれても私は素直に聞くことができない。というのも新潮社の全集に入った、60年に同性愛誌に変名を使って掲載された『愛の処刑』である。この体育教師と生徒の話を翌年、将校と妻の話に、文学性を高めて書き直されたのが『憂国』といってよいのだろう。『愛の処刑』は青年(作中は少年だが)に見られながら腹を切りたい、という願望がそのまま描かれた作品であり、『楯の会』の会員などはどう受け止めたのであろうか。7日に出る雑誌『紙の爆弾』のニッポン越境問答で、一水会の鈴木邦男さんとお話させていただいた際、新潮社版全42巻を読破された鈴木さんに伺ってみたかったが、聞いてはいけないような気がして伺えなかった。そこで阿佐ヶ谷ロフトAのトークライブの後の二次会で、意を決して伺ってみたが、意外にも特別どうということないようなお返事であった。私の中に『判りました。行っちゃっていいんですね?』とアンドレ対前田の時の前田日明のようなセリフが浮かんだ。私が手掛けるなら『憂国あるいは愛の処刑』ということになる。つまり当然2・26決起将校と、部下の兵との話ということになる。実はこれ一作のみで、『男の死』というタイトルで制作しても良いくらいの大ネタであろう。



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一日  


椎根和さんの事務所へ平凡パンチ時代の三島由紀夫の写真を拝見に行く。午後二時に広尾駅。電話で場所を伺い向かう。途中でもう一度。「東に向かって~」空を見上げて太陽を探す。それで東が判るなら方向音痴といわない。外まで迎えに来ていただきなんとか。 椎根さんの著書で見る三島の写真は、あきらかに他の三島と違う。筋肉に力が入っていない、特に目が違う。普段の表情はこんな感じ、気弱な時の表情はこんな感じ、などと伺う。チェーンスモーカーで常に煙草に火が点いている。鼻から煙が出ていたりもする。それにベタ焼き(フィルムを並べた密着焼き)で、選択から漏れたカットがまた貴重である。三島に重なって頭だけ見えている寺山修司。 勝鬨まで飲みに行かれるというのでご一緒する。40年通っているという、品の良い割烹着姿のお婆さんの店。白髪葱を添えた酢に漬けた煮干が美味。かつてのマガジンハウス、雑誌全盛時代の話を色々伺った。なんとも豪快な時代があったものである。かろうじて『ブルータス』の表紙になっている。 椎根さんと別れ、T千穂~T屋へ。T屋では興に乗った女性が両乳房を露出。



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一日  


昨日入手したプリントのコピーについてブログを書いたが、どうしてこんな撮影が許されたのか、と不思議であったが、どうやら無許可で撮られた物のようである。関係者なら誰が撮ったか判るだろう。これが知れたら撮影者は大変なことになるかもしれない。ブログは念のため削除した。 本日、椎根和さんと電話で話させていただいた。椎根さんの著書“オ-ラな人々”(河出書房新社)に秘蔵写真集として掲載されている三島由紀夫の写真が素晴らしい。私も随分三島の写真を見てきたが、それらとは明らかに表情が違う。まだ沢山あるそうなので、近々拝見させていただくことに。 前述のプリントの件から篠山紀信撮影の『男の死』についても話が及んだが、椎根さんによると、おそらく出版されることはないだろう、とのことである。理由も伺った。ここ数年間、せっかく着想した私なりの『男の死』も、オリジナルが先に出てしまっては興ざめだ、と常に考えてきたが、取り越し苦労だったことになる。私のことなどどうでもよいが、三島が自決する直前の、貴重な時間をやりくりしながら心血そそいだ作品のことを思うと、どうにかならないものか、と思うのだが。



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未だに頭の中は熱を持ち静まっていないようである。実際制作した作品と、イメージしただけの作品が夢の中では区別がなく、同じように存在していて、目が覚めてくると、徐々に、これはどうも考えただけで作っていないぞ、となってくる。3、40秒は懸命にどっちだったか考えているようだ。多少風邪ひきの熱のせいもあるだろう。 『男の死』では三島に、本人のキャラクターとは正反対で、三島が愛した“理智に犯されぬ肉の所有者”になってもらうことが眼目であった。そういう意味では三島のイメージに度々登場するサーカスの芸人、特に綱渡りになって落下死してもらいたかったし、あれだけ海に行きながら真っ先に考えていた漁師の死が実現していない。これは現在ではFRP製の漁船ばかりで興がそがれたことにもよる。 そして今回一番“取り逃がした”感があるのが、ついに、という感じで新潮社の全集に入った『愛の処刑』であろう。私はゲイ雑誌に掲載されすでに読んでいたが、これは『憂国』の下書き、といってしまいたい作品である。この大ネタは大きいだけに、どんどん後半に持ち越され、『憂國』とタイトルを付けた作品も、これだけでは、まったく部分でしかない。最終的に『憂國あるいは愛の処刑』としたい。 陶芸をやっていたとき、しばしば経験したことだが、一度窯の温度を下げると、元に戻すのに骨が折れた。このまま作ってしまうべきなのか?

三島ページに黒蜥蜴を追加。



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一日  


5年ぶりの個展は『男の死』というタイトルではあったが、案内にいただいた内藤三津子さんの文章ですでに心配され、周囲も危惧するような内容はなく、“真面目にやり過ぎるとどこか可笑しい”という私の作風が炸裂したものとなった。これは意図したものではなく自動的にこうなる傾向にあるが、これは女性を制作するには向かず、男性を制作する場合にのみ有効である。特に三島自体が真面目にやり過ぎな人物なので、力石と矢吹ジョーのクロスカウンターの打ち合いのように威力が倍増したと思われる。(この理屈が小学生以来よくわからないのだが)三島は様々なことを告白しているので、いくらでもやりようがある。私は実際、真面目にやり過ぎる人や物が大好きであり、やり過ぎず、ほどほど、などというと不真面目で不誠実に感じてしまうタチである。 個展の終了間際、気温の急激な変化、疲れもあったろう、風邪をひいた。喉に違和感を感じた時点で薬を飲もうとしたら、鈴木邦男さんの突然の御来廊で、すっかり忘れてしまった。しばらく安静にしているつもりだが、少しずつ今回の出品作をHPにアップし、制作工程など留めておきたい。以前も書いたが、私は子供の頃、頭に浮かんだイメージは確かに頭の中にあるのに、どこへ行ってしまうのだろう、と不思議であった。私の創作行為とは、そのイメージを取り出し、“やっぱり在ったな”と確認することである。よって確認してしまえば役目は終了とばかりに急激に愛着が薄れていくので、早めに当サイトに記録を残しておかなければならない。

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8日間はあっというまであった。会期が始まっても作り続けている夢を見て、ようやく制作の緊張が解けたころには終了である。 三島でやりたいテーマは『男の死』これしかなく、今回作れなかった作品はおいおい足していき、想定した作品数に達するまでは作るつもりだが、今回6割以上作ったので、個展の続編はおそらくないだろう。 会場でご覧頂いただいた方以外にはチンプンカンプンかもしれないが、たとえば震災のおかげで今年中止になった深川祭りを来年撮影し、神輿を担ぎながら恍惚として死んでいる三島。市ヶ谷に向かうコロナ車中で隊員と歌ったという『唐獅子牡丹』から、背中に唐獅子牡丹を背負っての道行。題して『昭和残侠伝』。小学校しか出てない小学士様だ、といってたのは映画『からっ風野郎』でヤクザ者に扮してのことだったが、私なら小学校どころか、平仮名も読めないチンピラになってもらい、さらに悲惨な死に方で三島に喜んでもらうことも可能である。 今回来ていただいた方を羅列するわけにはいかないが、最終日の終了寸前、田村写真の田村政実さんや、『影武者』の家康役以降、黒澤映画の常連だった油井昌由樹さんに来ていただいたのは二回目である。油井さんの日本初のアウトドアショップに、当時どこにもなかったバンダナを買いに行ったのは、私が高校生の時であった。

明日3日は、搬出時間の関係からオキュルスのご好意で、午後3時までは引き続き見ていただくことが可能である。

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朝オキュルスへ向かいながら喉が痛い。これはどうみても風邪である。昨日との急激な温度差のせいか。ここ数年、風邪といえばこのパターン。都営地下鉄の高輪台を降りると薬屋が何軒も目に付く。まずオキュルスへいってから薬を買おう、と思い歩いていると、蕎麦屋から男性がでてきた。なんとなくその足元を見ながら歩き、コンビにによって初日以来、毎日飲んでる『メガシャキ』といったか、カフェインが入ったドリンクを買って飲む。オキュルスはドアの周囲がガラス張りで、中にいた男性と目が合う。さきほど蕎麦屋から出てきたのは鈴木邦男さんであった。一度みえて、私が来ていないので、食事を済ませて待っていただいた。 一水会は三島・森田両烈士らの魂魄を継承するため創立したとある。以前から三島で個展を催すさいには、お知らせしようと考えていた。三島の死んでいる様子を描く、というだけで周囲には心配の声があった。画廊には断わられるし、私も濡れた週刊誌を腹に巻いてそなえる、などと冗談をいっていたが、周囲が心配するような内容ではないし、そもそも危ない人物など一人も来ない。鈴木さんには色々お話いただき『愛国と憂国と売国』(集英社新書)までいただいた。北一輝をいつか作りたい、とお話すると、「見沢知廉は?」このペンネームは書店で三島の隣に並べられるために考えられたのではなかったか。「頭山満は動きがないから血盟団事件なども面白いかもしれないね」。お会いできて良かった。

午後、専門学校時代の同級生や青森からは下級生にも来てもらった。忘れていた記憶が甦る。陶芸作家になるはずが、三島由紀夫の前で昔話をする不思議。 結局風邪薬を買うのを忘れ、高輪台で一軒、地元で二軒ハシゴ。明日が最終日。

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携帯電話の落し物だと深川警察より。家の中のどこかだと思っていたのだが個展の前日辺りに木場のヨーカドーに忘れたらしい。オキュルスに行く前に深警へ。遺失物の受付に行くと数人の婦警。T千穂でKさんに太股を触られた婦警?とつい見てしまう。 実在した人物をテーマに個展をやると、縁のある人であったり、当時が懐かしく、という方々がみえる。本日は、昔平岡家の隣に住んでいた、という方とお会いした。子供に対しても気軽に声をかけてくれる人だったそうである。私のことを始めて知り、会社を休んで来た、という方もみえた。実に有り難いことである。仮に自分の作品が原因で誰かが死んだとしよう。顔で沈痛な表情を浮かべていても、どこか満更ではない。そんなロクでもない人間だけが、何かを作ればよいと思う。 また次にこういう人物を扱って欲しい、という方もみえる。三島関連で2・26事件を調べるうち、私自身、北一輝の風格あるポートレイトに興味が湧いたが、夢野久作の父親、杉山茂丸の話から頭山満、さらに、と話は盛り上がり、次回は『憂國の士』シリーズへ、などと勝手な話に花が咲くのも個展会場ならではである。しかし、好きな人物を制作するにしても形だけでなく、その人物にかこつけ、どさくさに紛れて自分自身の某かを表現するわけなので、それに応えられる人物を選ぶべきである。そういった意味で“鳩が豆鉄砲”のような表情しか浮かばない川端康成で個展を開くような展開は難しく、私生活的にも表情豊かな谷崎潤一郎はいくらでも創作のしようがある、というわけである。
帰りに久しぶりに一杯、などという知人が来ない場合、K本へ急ぎ、30分ほど飲むことができる。さらに常連二人とKさんのホームグラウンドT千穂へ流れる。私のブログを読んでKさんに会いたがる人がいるが、このオジサン、女性に対してくだらないこと企んで無邪気に笑ったり、酔っ払ってコケたりする様が面白いので、さあ師匠、面白いところ一つお願いします。と対面したところで、ただ頭の薄い小さなオジサンである。

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一時過ぎにオキュルスに出かけると、高校卒業して入った工芸の専門学校で陶芸を教わったY先生の名が芳名帳に。三十数年ぶりにお会いする機会を逸してしまった。そこでは酒ばかり飲んでグウタラな駄目生徒であった。誰かがY先生の私に対する評価が書かれたものを覗き見て、続くかどうか、というようなことが書かれていたと聞いたことがある。個展をされたら尋ねてみよう。 午後、T屋のHさんやKさん、タクシー運転手のTさん来廊。Tさんは楯の会に入ろうとして身長ではねられた人である。冗談ばかりの愉快な人だが、オキュルスの東さんも居酒屋の女将さん扱いなのには困った。 こんな個展だと、三島を実際目撃したことがある方がみえるが、事件当日記者クラブにいた写真家の方から聞いた話で、一報が入ったとたん、記者たちが爆笑した、という話には驚いた。割腹自殺と聞いて記者に爆笑される人物。当時ある種の人々に三島がどう見えていたのか、その一片が端的に伺える話であった。いつか三島展を開催した神奈川近代文学館の方が、三島について話をされてきたばかりという研究者の方とみえる。冷や汗をかくが私なりの三島へのアプローチも喜んでいただけたようであった。 専門学校で一緒だった連中が集まったので五反田まで歩いて飲みに行く。Hには三島が握る刀身を作ってもらった。ここまで付き合いが長いと、誰かが誰かの棺おけを覗き込むハメになるのは間違いがない。

追記:記者クラブが爆笑したのは「市ヶ谷の総監室を占拠した」という第一報の時で、「割腹した」とわかった時は、なんともいえない空気で、みな真顔だったそうである。それはそうであろう。翌26日の新聞にもそう書かれている。

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