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初恋のきた道

2021年11月16日 23時37分11秒 | 洋画1999年

 ☆初恋のきた道(1999年 中国 89分)

 原題 我的父親母親

 staff 監督/張芸謀(チャン・イーモウ) 原作・脚本/鮑十(パオ・シー)『我的父親母親』

     撮影/侯咏(ホウ・ヨン) 美術/曹久平(ツァオ・ジュウピン) 音楽/三宝(サンパオ)

 cast 章子怡(チャン・ツィイー) 鄭昊(チョン・ハオ) 孫紅雷(スン・ホンレイ)

 

 ☆チャン・ツィイー、19歳、デビュー

 泣ける。いや、泣いた。けど、なんで泣けるんだろう。

 道、なのだ。

 この邦題はほんとうに見事といっていいんだけど、20世紀の終わり頃、教師をしていた父が死んだと知らされ、帰郷した息子は、そこで、老醜を漂わせる母親が、町から村まで父の遺体を歩いて運ぶと聞かされる。とんでもない話だと息子は怒るが、母親の思い出を聞かされ、その町から村へ至る道は、かつて父親が教師として赴任してきた道だと知る。それは同時に、母親がまだ可憐な少女だった頃、初恋がやってきた道だった。さらに、文革によって連行されることとなる先生の去っていった道でもあり、その先生を、母親がひたすら待ち続けて立ち尽くしていた道でもあり、そんな母親のもとへ父親が帰ってきた道でもあった。息子は、母親の老いてもなお純粋に父親を愛している心を知り、父親に教えられた生徒もまた、いつまでも父親を尊敬していることを知り、父母の思い出の道を、父親の遺体を運んで歩いて行きはじめるや、ひとりまたひとりとかつての生徒が参列し、やがて葬列は膨れ上がって村へ至る。そして、息子は母親のために、父親が赴任する際に建てられた校舎で、最後の授業をするという、なんとも単純にして明解な話なんだけど、このとおり、すべては「道」がたいせつな舞台になっている。

 上手な邦題だわ。

 それと、なんてまあ、美しい映像なんだろう。華北の綿入れを着ないと凍え死んでしまうような厳しい寒村だけど、四季の、ことに秋の美しさはたとえようもないほど美しい。この映画が、チャン・ツィイーのひたむきさに感動するのは、背景となっている寒村の美しさと、単調ながら胸に染み入る音楽のせいだろう。

 ただひとつ、スパイスもある。さっきもちょっとふれた先生の連行されてゆく理由で、プロレタリア文化大革命、いわゆる文革だ。文革があった1966年から1977年って時期、ぼくは、中国で、いったいなにが起きているのか、まるで知らなかった。がきんちょだったから当然といえば当然なんだけど、そういうことでいえば、村の子供たちとほぼ同じ年齢だったことになる。ただ、かれらがぼくみたいな平和ボケ少年とちがうのは、ある日いきなり先生が町へ呼び出され、それで帰ってこなかったことだ。子供心にも、これはなにかとんでもないことになってるんじゃないかとおもい、いうにいわれぬ時代の重苦しい雰囲気を感じ取っていたかもしれない。

 けど、この映画では、そんなことはほとんど語られない。先生がいなくなり、先生を慕う娘がひたすら待ち続けるという、その抒情的な面だけが映し出されている。でも、ほんとはそうじゃない。彼女が寒さに倒れ、高熱を発し、死の瀬戸際まで追い込まれるのは、まさに当時の中国そのものだった。彼女は、中国の具象化されたものといっていい。財産といえばひろびろとした土地しかない貧乏農家に生まれ、文盲が象徴するように知識も教養も文化的な感性も持ち合わせないけれど、素朴で、健気で、愛らしく、希望を失わない少女は、文革前の中国で、文革とともに傷つき、倒れ、死線をさまよう。けれど、文革が終わり、先生は生きて帰ってくる。彼女はふたたび微笑みを取り戻すんだけど、それはつまり、中国の蘇生でもある…はずなんだけど、でも、なんで、現代の場面がモノクロームなんだろう。陰鬱な、陰影の濃い画面から漂ってくるのは、蘇って幸せになった中国なんだろうか?過去の思い出は、愉しい日々も辛い日々も、色鮮やかにきらきらと輝いているからだ、ていうような、とってつけたような理由だけでもないような気がするんだけどな。


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