6月22~23日にかけて1泊2日で仕事で富山、新潟方面へ旅行してきました。
1日目に行ったのは魚津埋没林博物館。魚津埋没林は、約2000年前、片貝川の氾濫によって流れ出た土砂が杉の原生林を埋め、その後、海面が上昇して現在の海面より下になったとのこと。埋没林は、その森林が生育していた場所全体が地下に密閉され、木の株だけでなく種子や花粉、昆虫などが残っているため、過去の環境を推定する大きな手がかりとなるそうです。典型的な箱物施設ですが、何百万年前から日本大陸ができて来た過程の地図を見ていると、日本という国は常に地震と津波を繰り返しながら地面が動き形作られてきた国であり、人間が住むには非常に過酷な場所であるいうことを改めて実感しました。
宿泊は、金太郎温泉。温泉街というわけではなく何もないような田んぼの続く場所に、突然表れたような施設でした。1000m地面を掘って掘り当てたそうで少し湯温が高めですが湯量が豊富でお風呂が広く充実していて満室に近いような状態でした。食事はごく普通と言った印象ですがどこにも、観光に行かず純粋のお風呂のみを楽しみたいと思う人にはお薦めかも。
2日目。朝からビールを飲む。いい気分!この日は新潟方面に移動し、燕三条地場産業振興センターに寄った後新潟市の宝山酒造へ。酒を造っている場所の見学後、試飲。試飲ですごくおいしく感じた甘酒を記念に買って帰りました。
最後に行ったのは、寺泊。まあまあおいしい魚が食べれました。平日なのに、結構人が多かったです。
今回はおいしい魚を食べて、おいしいお酒を飲んで、温泉にも入れるというなかなか良い仕事でした。
海方面に向かう県道に入る。かろうじて残っているアスファルトがここに道があったことを表しています。
地面が落ち込んだ所に自衛隊が作った仮設の橋があり、それを超えて先に進めました。
家の土台だけが残っていてこのあたりには建物があったと思われます。
このあたりから住宅街が見えたそうですが、跡形もなく消えています。
南相馬市の市街地。このあたりは原発から30km圏内です。一時期、埼玉の避難所に逃げていたこの近くに住んでいるお客さんは、いてもやることがないからとこの地に戻ってきて生活しています。田植えも禁止されているため、とりあえず畑を耕しているそうです。
飯舘村では営業しているスーパーを1つだけ見かけましたが、ほとんどの店が閉まっていて家に人気もなくほとんどの住民が避難しているようでした。静まりかえった新緑の中を、警視庁のパトロールカーだけが走っているという光景に不気味さを感じました。
飯舘村から川俣町へ抜けて東北道方向に向かい高速に乗って帰ったのですが、放射能は全く目に見えないため、ここらあたりが高いと言われても全然実感がなく非常に怖さを感じました。
家に帰ってテレビをつけると、首相がやめる時期に関していつかというニュースをやっており、この国の政治家達は結局は自分の利益、党の利益を優先して考えており日常の生活を突然奪われた人たちのことをほんとに親身になって考えていないという思いからむなしい気持ちになりました。1日も早く原発問題が終息することを願います。
今日仕事で福島県相馬市に行ってきました。
東北自動車道は休日1000円割引が終わるためか、いつもより混んでいて、しかも二本松ICから福島西ICの間で事故通行止めになり4号線の渋滞が予想されたため少し手前の本宮ICで高速を降り下道で相馬市方面に向かうことにしました。
川俣町から、飯舘村を通るほうが近いのですが、飯舘村は高い放射線量が計測されて計画的非難区域になっているようなので北の方から遠回りで向かいました。
相馬市のお客さんと話している中で、地震津波関係の話題も出てきて、間一髪本人は逃げたが逃げ遅れて車に乗ったままクラクションを鳴らして助けてと言いながら流されていった人がいたという話や、地震当日の夜にプロの泥棒が大量に集まって来て遺体から金品、貴金属を根こそぎ取られたり、誰もいない家の金庫などを盗まれた人がたくさんいたことなどを話されていました(プロの泥棒は、新聞やテレビで報道された時にはすでに現場にはいないそうです)。また、遠回りして相馬市に入ったのですが、通った道の方が飯舘村を通るより高い放射線量が計測されていて非難区域にするか現在検討中だそう。なので、帰りは飯舘村を通って帰った方が良いのではないかとのアドバイスを受けそうすることにしました。
仕事が終わった後、相馬市から松川浦漁港方面に向かってみました。
道の脇に船や車が転がっており、家は津波により流されて跡形もなく消え去っていました。
去年行った時とは全く違う風景で、散歩した漁港は消えており津波の威力というものを実感しました。1日でも早くあの港を復活させてほしいと願います。
次に時間があったので、南相馬市方面に向かいました。