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Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

「お父様が・・」と正当化する  「お父様が・・・」と言う無責任

2017-04-16 22:48:23 | 統一家の行くべき道

統一運動に致命的ダメージを与えた反社会的な経済活動

経済中心の歩みになって、様々な反社会的な手段方法での経済復帰が、そののち多大なダメージを統一運動に与え、今なおそのマイナスの影響が強く残っている。現在の統一家の混乱の現況がまさにそれであると思われる。

そしてそのような経済活動を通して社会的非難を浴びた時に、常に彼らが行ってきたのが「お父様が言われた」「お父様の指示に従った」と言う、責任逃れであった。今もそうである。

 

「お父様が・・」と言う無責任

彼らは常に誰かに責任を転嫁する。「摂理がうまくいかなかったのは郭先生が大統領選挙に出なかったからだ!」などと言うのはその代表的なものだろう。

そして彼らは何かにつけて「お父さまが‥、御父母様が…お母様が・・・」を連発する。

「あなた自身の責任は何処に行ったの!」と言いたくなる。本当に無責任である。

うまくいったら自分のおかげ、うまくいかないことはすべて誰かのせい・・・最後は御父母様のせいか・・御父母様の言うとおりにしたから、できなくても仕方がない・・となる。

 

すべての発言・行動は神様のみ旨成就のため

御父母様のすべての発言行動は神様のみ旨の成就のためである。そして、その成就のためには時として全く反対のようなことも発言され、行動もされるお父さまだった。すべて神様のみ旨成就の目的ありきだったのです。

人生の道だってそう・・・、車で目的地に行く時だってそうです。

目的にに行くときに道を迷ったり、もしや事故か災害で通行止めになっていたら後退したり別の道を行くこともあるのです。さっきまでこっちの方向に行きなさいと言っていたけど、次の瞬間には逆行を命じられることもあるのです。

要はその目的地に一刻でも早く着くことが問題なのです。同じことをいつまでも続けていてもいけないのです。

 

ただ命令に従っていればいいのか?過去に命じられたことを後生大事にすることは正しいことなのか?

昨日の命令を後生大事に守っていればいいのでしょうか?いろんなところからいろんな情報が入ってくるけれどもどれが正確で正しい情報化を見分けることも必要なのです。お父様がどんなに立派で素晴らしい能力をお持ちになっていても、周辺からの正確な情報が無ければ的確な判断を下すことはかないません。

スポーツの試合だってそうでしょう。どんなに素晴らしい監督でも、相手チームの状況、そして見方チーム選手の現状、それらを正確に的確に時宜に応じて知らなければ試合に勝つことは出来ません。負けた責任を誰かに転嫁してもいけないのです。監督のサイン通りに行動したらすべて正当化できるのでしょうか!

 

日本の歴史で見てみましょう。楠木正成と後醍醐天皇について

日本歴史上代表的な忠臣と知られる楠木正成は湊川戦いで最期を遂げました。その治世において軍略において卓越した能力を持っていた楠木正成がなぜ湊川でうち果てたのでしょうか?

それははっきり言ってトップの判断が間違っていたからです。

楠木正成はそれまで本当に弱小な勢力しかないことから、戦えば常に百戦百勝の武将でした。統治した河内の民からも絶大な信頼を得ていました。後醍醐天皇のもとにはせ参じ、隠岐の島に流された後醍醐天皇の奪還にも成功したのです。

ところが最後の湊川の戦いでは奮戦の末討ち死にしました。何故なのでしょうか?

それは、後醍醐天皇が隠岐の島から帰られて建武の新政を行われたその内容に問題がありました。楠木正成ら後醍醐天皇に付いた侍たちは鎌倉の幕軍に対して獅子奮迅の戦いで勝利をもたらしました。その中に足利尊氏もいました。ところが後醍醐天皇の建武の新政では、これら貢献した武士団に十分な報償をもたらしませんでした。また新政が始まって民への税金もさらに加重されてしまいました。これらは天皇を取り巻いた貴族たちの影響が大きかったのです。後醍醐天皇の取り巻きとなった貴族たちは自分たちのこれまでの貴族として権益や生活を守るために武士や庶民を蔑ろにしたのです。

このような武士たちと庶民の声を代弁したのが足利尊氏でした。建武の新政の失策に失望した西国の侍や庶民が足利尊氏を応援したのです。

楠木正成の必死の進言にもかかわらず

楠木正成は後醍醐天皇に進言しました。今は尊氏の言うことを聞いてほしい。何度も強く進言しました。しかし結局天皇の最後の命令は「尊氏と戦え!」だったのです。取り巻きの貴族たちの言い分に負けてしまわれたのでした。

結局楠木正成は負けるしかない戦いに臨まざるを得なかったのです。そして湊川で奮戦して果てました。

結局、楠木正成の進言を聞かなかった後醍醐天皇は、京を逃れて吉野に隠棲、政治的影響力をそがれてしばらく南朝として存続するも、北朝側に屈服せざるを得なくなったのです。

何が問題だったのか

結局何が問題だったのか・・・それは、現実を直視せず自分たちの権益を守ることしか考えなかった公家たちの声に耳を傾けてしまった後醍醐天皇の判断ミスが悲劇をもたらしたのです。

楠木正成はその学識において、治世のすばらしさにおいて、また軍事戦略家としてもそして勇猛果敢な武士としてもすぐれた人物でした。もしや後醍醐天皇が周りの公家たちの邪な声に惑わされず楠木正成の進言を聞くことが出来ていたならば、本当の意味で公武が一つになった善なる治世の時代が訪れていたに違いありません。

楠木正成の活躍を主要なテーマに取り上げた「太平記」と言う戦記物は、そのご江戸時代の諸侯の治世と軍事の教科書となりました。「太平記読み」と言う、太平記を読み聞かせる講釈師が現れ、諸侯だけでなく、民衆の間にも広まって行きました。

統一家は?

さて、統一家はどうなのでしょうか?

真のお父様の周辺に、かつて後醍醐天皇の傍にいた公家たちのような輩がいなかったでしょうか?楠木正成のように勇気をもって進言した本当の意味での忠臣はいたのでしょうか?

真のお父様が後醍醐天皇と言うわけではありません。全然立場や状況は違います。しかし、置かれた立場の状況は似ている部分があったかもしれません。

「お父様が・・」と言う無責任

ここで言いたいのは・・ただただ「お父様が・・」「御父母様が・・・」「岡様が・・」と強調しながら、本当の意味で現実を直視して、最終的み旨の成就には何が必要で何が求められるかを考える責任感が、周りの側近や中間幹部には必要だということです。「お父様が・・」と言うことは結局み旨成就と言う真のお父様が生涯求め続けた事柄への無責任きわまる言葉であると知らなければなりません。お父様が何を願っておられたのか?何をなそうとされていたのか!そのことをすべての幹部、全ての食口が自分自身で考えることがまずは求められているということなのです。

 

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