かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 379

2017年03月21日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究46(2017年2月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【冬桜】P154
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:①曽我 亮子(②渡部 慧子)
      司会と記録:鹿取 未放

379 寒々とあるばかりなる此岸にて下仁田葱をひもすがら抜く

         (レポート①)
 寒々としているばかりのこの世にあって、私は下仁田葱を一日中畑で収穫しているのだ……
独りの寂しさが歌われている。(曽我)

         (レポート②)  
 畑とせず此岸とすることで生活や労働の捉えが大きくなり、下句「下仁田葱をひもすがら抜
く 」には儚さや美しさまで感じられる。「寒々とあるばかりなる」を否定的に解したくなるのだが固有名詞下仁田葱と此岸によって全体が否定でも肯定でもなく、現実を浮かび上がらせながらどことなく高い視座を得ている感じ。(慧子)


          (当日発言)
★下仁田葱は群馬県の特産で、嬬恋のキャベツとか松男さん地元ですし、よく歌ってますね。自分
 自身がこういう作業をしなくても、ずっと目にしてきた情景なんでしょうね。此岸という語で一
 気に自分の内面に引きつけた歌にしています。(鹿取)
★此岸にての「にて」が場所を表すのか理由を表すのか、ちょっと迷いました。「あるばかり」が
 とても強調されていて、此岸「だからこそ」と取ると、下仁田葱がすーすーと人間みたいに抜け
 ていくような感じもして……違うでしょうか?(真帆)
★「にて」に理由を表す用法ってありましたか?ああ、ありますね、格助詞の表に「原因・理由」
 って書いてあります。(鹿取)
★この世は世知辛くて望みも無いので…とか。(真帆)
★いや、この場合の此岸はそういう世俗的な意味合いでは使っていないと思います。存在している
 ことそのものが「寒々とある」という把握で、私は慧子さんのレポートの「高い視座を得ている」
 辺りに賛成です。(鹿取)
★シ、シ、ヒってiの音を続けていますけれど、存在の寒さを感じつつ、〈われ〉は一日中葱を抜
 く労働をしている。ことさらに言っていないけど、そういう労働を大切なことと捉えていると思
 います。だから葱を人間に例えているとかではない。(鹿取)
★そうすると、「にて」は場所ですか?理由ですか?(M・S)
★場所ととっても理由ととっても、言っていることはあまり変わらないと思います。「此岸にいて」
 でも「此岸だから」でも。(鹿取)

馬場あき子の外国詠91(スペイン)

2017年03月20日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠10(2008年7月実施)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H       まとめ:鹿取未放

91 母たちは巨鯨 娘はガレの蝶 あした西班牙の陽にひかりあふ

     (レポート)
 ガレ:(1846~1942)フランスのガラス工芸家。アール・ヌーボー様式の代表者の一人。
 スペインの母親達は食べ物のせいか巨鯨のようだ。それに比し娘達は何と華奢で繊細な曲線を持ちスマートなことだろう。ガレの蝶細工のように美しくスペインの陽光の下、光り輝いている、と馬場は街を行き交う人々を眺めながら感慨にふけっている。(T・H)


      (まとめ)
 娘を「ガレの蝶」ととらえたのが的確である。若い女性はきゃしゃで美しく華麗なのである。豊かな体躯の母ときゃしゃな娘がお互いに陽光のもと輝いているのもよい。蝶のような美だけを肯定せず、あくまで母と子が等価であるところがよい。
 この一連、構成が見事である。ジパングとしてマドリッドに花を浴びている軽い緊張から始まり、西洋の象徴のような尖塔に圧倒され、緊張の極みに日本初の遣欧使節としてスペインへ渡り洗礼を受けた支倉常長のことを深く思索する。さらに緊張は続き美術館へ行ってグレコやゴヤと対峙する。そして最後に緊張から解放され、人々の中に個は埋没し、街を歩く母子を軽やかに描写する。この息の抜き方が読者をほっとさせる。(鹿取)


馬場あき子の外国詠90(スペイン)

2017年03月19日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠10(2008年7月実施)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H      まとめ:鹿取未放

90 胸や肩や寛(くつろ)かに着て街をゆく巨鯨のやうな母の貫禄

      (レポート)
 スペインの女性は、若い時はスマートだが年をとると貫禄満点の姿に変貌する。今、街頭を胸や肩に広いストールを巻いて、子供を抱え、悠然と女性が行く。凄いなあ、母は強いなあ、と馬場も感心して見ている。
     (T・H)


     (まとめ)
 「寛かに」がゆたかな体躯にひらひらとうすものをひっかけている西洋の婦人の様を見事に言い得ている。「巨鯨のやうな」も微笑ましい。悪意や揶揄ではなく、優しい視線が感じられる。(鹿取)


馬場あき子の外国詠89(スペイン)

2017年03月18日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠10(2008年7月実施)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H       まとめ:鹿取未放

89 集団の猥雑の色の中にゐる安けさ存在のなき存在の色

     (レポート)
 馬場はやっと美術鑑賞の時を終了して館外に出た。グループの中のいろいろな色に囲まれて、そこには埋没する安らぎもあるが何か存在のなき存在の色?もあって落ち着かない。旅行中の東洋人、そのような人々は多く、常に生き生きとしているものなのだが、そのような人々の中にあって、馬場は美術館の中での、そのヨーロッパの人々の強烈な個性から解放されて、やっとほっとしているのではないか。(T・H)


     (まとめ)
 これは一つ一つの絵に緊張して向かい合っていた美術館から解放された場面であろう。色といっているが、服装の様々な色をさしているだけではないだろう。個というものを集団の中に埋没させてみんなでいる気安さ。もちろんそれはある意味で恐ろしいのだが、美術館で一人一人個性の強い画家と緊張して向き合った後では何ともここちよいのである。(鹿取)


馬場あき子の外国詠88(スペイン)

2017年03月17日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠10(2008年7月実施)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H       まとめ:鹿取未放

88 リンデン大きみどりの葉を垂れて暗きひかりのゴヤと相見る

     (レポート)

 ゴヤ:(1746~1828)スペインの画家。近現代絵画の先駆者。宮廷社会を個性的な技法
    と鋭い写実で描いた。怪奇幻想の領域をも開拓。銅版画の名手。
 今、馬場は町中で菩提樹の大きな葉に慰められた。その一方、館内では暗いゴヤの絵を見た。ゴヤは別に暗い絵ばかり描いている訳ではなく「カルロス4世とその家族」「裸体のマハ」「着衣のマハ」など楽しい絵もある。なのに馬場はなぜ「暗きひかりの」と詠んだのであろうか。油絵の黒を多用する手法に、(それは聖と悪との対決を思わせるが)、もうたくさんと食傷気味だったのだろうか。(T・H)


      (まとめ)

 宮廷画家だったゴヤは、晩年耳が聞こえなくなりマドリード郊外の別荘で「暗い絵」のシリーズを描いたといわれている。(梅毒の治療に水銀を用い、その副作用で聾者になったという説もある。)その「暗い絵」シリーズをゴヤは自分の別荘に掲げていたそうだが、現在は壁から剥がされてプラド美術館に展示されているらしい。代表的なものに「わが子を喰らうサトウルヌス」などがある。 この歌、初句4音という不安定な入り方で、歌全体が不安定でもあり、強さをも合わせもっている。「リンデンは」と助詞を入れれば5音にするのは容易だから、わざと外した4音なのだろう。リンデンは釈迦が悟りを開いた菩提樹と同じではないのかもしれないが、リンデンから私はやはり悟りを連想してしまう。そして大きな緑の葉を垂れるリンデンの安らかな姿と対照的に暗いひかりを放つゴヤの暗い絵がある。作者はここで渾身の力でゴヤと対峙しているのだろう。その力は人間ゴヤの大きさに跳ね返されそうだ。不安定な歌の姿はその反映だろう。(鹿取)


馬場あき子の外国詠87(スペイン)

2017年03月16日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠10(2008年7月実施)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H       まとめ:鹿取未放

87 黒きグレコのぎしぎしの腸の犇きを逃れんともがけり東洋の思惟

      (レポート)

 エル・グレコ:(1541~1614)ギリシャ生まれのスペインの画家。本名はドメニコス・テオトコプロス。奔放で、神秘的、怪奇的な画風の宗教画・肖像画を描く。作者達はたぶんプラド美術館にいて、これらの作品群を観たのだと思う。(いや、グレコの作品はトレドに多く残されているので、トレドで観たのかもしれない。)
 グレコの絵を観て、「黒き・ぎしぎしの腸の犇き」のように感じられた。この呪文のような絵画を理解するためには、東洋のとりわけ日本人の思想では理解できないなあと嘆息している姿が目に浮かぶようだ。彼のぎしぎしした腸の犇きのような作品とは、「三位一体」「オルガス伯爵の埋葬」「聖衣剥奪」「キリストの復活」などであろうか。(T・H)


      (まとめ)
 場面は移ってプラド美術館であろう。スペインの空や教会の尖塔に圧倒されていた作者は美術館に行ってもまだ西洋思想にがんじがらめになっているようだ。西洋の美術も文学もキリスト教の理解なしには解読できないものだが、グレコの絵に作者は東洋の思惟をもって対峙している。そしてその絵を「ぎしぎしの腸の犇き」と形容している。その強い身体的な形容によって作者がグレコの絵にいかに圧倒されているかが伝わってくる。
プラド美術館には膨大なグレコの絵があるようだが、彼の絵にはプロポーションを無視した細長い奇妙な人物像が描かれる。たとえば、「聖三位一体」「十字架を抱くキリスト」「オルガス伯の埋葬」など地上・天上を同一画面にたくさんの神や聖人や地上の人物が描かれている。それらの過剰な錯綜は、東洋の思惟では解けない「ぎしぎしの腸の犇き」を内包している。釈迦をとりまいて一様に悲しんでいるような涅槃図とは全く違う趣のものなのである。(鹿取) 


馬場あき子の外国詠86(スペイン)

2017年03月15日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠10(2008年7月実施)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H       まとめ:鹿取未放

86 十六世紀の虚空の青の深(ふか)ん処(ど)に坐して洗礼の日の支倉(はせくら)居たり

      (レポート)
 支倉六右衛門常長:江戸初期の仙台藩士で、慶長18(1613)年、藩主伊達政宗の遣欧使節として、スペイン、ローマへ赴き、マドリッドでは国王臨席の下洗礼を受け、ドン・フイリップ・フランシスコの霊名を受けた。通商同盟の約はならなかったが、ローマではローマ法王パウロ五世にも謁見。元和6(1620)年帰国。同行者はフランシスコ会の神父ソテロ。この遣欧派遣は実際は17世紀なのだが。
 馬場は今、今日と同じような青い空の下、フランシスコ会の教会の中で、敬虔に合掌して洗礼を受けている支倉常長の姿を思い浮かべている。彼のその時の気持ちは誰にも分からない。ただあまりにも祖国日本とは違った環境、進んだ文化的資産に驚かされ、彼は進んで洗礼を受けたのか、または藩からの使命を全うするための手段だったのだろうか。その内心の揺れを馬場は「虚空の青の深ん処に坐して」と解釈する。支倉はその使命を果たすために自分の良心を売ったのだろうか。真意はいずこにあったのか。
 彼が帰国した1620年は徳川幕府による「キリスト教禁止令」が強く行われていたので、仙台藩でも彼の功績を讃えることなく、彼自身は旅の疲れと心労で帰国の2年後(元和8年7月1日)
知行地において逝去。享年52歳。(T・H)


       (後日発言)(2008年7月)
★「深ん処」という言葉は、上田三四二の小説の題にある。(田村)


      (まとめ)
 支倉という人はどういう人物だったのだろう。支倉の洗礼は自発的なものだったのか、伊達政宗の命令に従って己の心を売ったのか、スペインとの通商を有利に運ぶための計略だったのか。
 「虚空の青の深ん処に坐して」洗礼を受けた支倉の心は、はたして澄み渡って宗教的感動にうち震えていたであろうか。船上で何ヶ月かソテロからキリスト教の教義を授けられたであろう支倉が、その教えに深く帰依したという可能性ももちろんないわけではない。任務とはいえソテロの教えに感銘したことは充分考えられる。それでもなお、人間のつかみがたい暗くて深いこころのありようを「虚空の青の深ん処」という表現はみごとにすくい取っている。どういう気持ちだったかは限定せず、なぞをなぞのまま提示しているところに想像力を刺激される。
 ちなみに、仙台藩主伊達政宗が支倉常長らを「慶長遣欧使節」として派遣したのは1613年9月のことである。一行180人余が乗り込んだ船の名は「洗礼」を意味する「サンファン・バウテスタ号」、ソテロの命名であったという。この使節の目的は、同行したフランシスコ会宣教師ソテロに陸奥への宣教師派遣を許す見返りにスペイン領国への通商に、法王の尽力を願うところにあったと言われている。また、幕府には、秀吉以来冷え込んでいたスペインとの関係改善をはかるねらいがあったらしい。
 かくて支倉は1614年、ローマへ行く途中のマドリッドのサン・フランシスコ教会で国王臨席のもと洗礼を受けている。1615年には国王フェリペ三世に謁見、その後念願のローマ法王パウロ五世にも謁見している。だが、何年か粘っても通商交渉は成就しなかった。一説には、日本の厳しいキリスト教弾圧の様子が行く先々に伝わっていて、支倉は禁教の国から来た厄介者であり、儀礼的に扱われていただけだという。支倉は1618年にマラッカに着いたものの一年半も滞在し、1620年ようやく帰国した。
 だが支倉の帰国の前年には家康は直轄地にキリスト禁令を出していた。翌年12月には、全国にキリシタン禁教令を出した。そういう厳しいキリシタン禁令の折も折、支倉は帰国したのである。支倉は己を派遣した藩主伊達政宗にも厭われ、失意のうちに二年後に病没した。もともと政宗は遣欧使節の派遣が家康との軋轢を生まないように、いざとなったら言い逃れができるように重臣ではない600石の支倉を派遣したのだという説もある。しかし支倉は帰国後なぜキリスト教を棄てなかったのだろうか。(棄教したという噂があったと紹介している本もある。)藩主の命令で己の内心に背いて洗礼を受けたのなら、弾圧や処刑から身を守るために改宗すべきではなかったろうか。洗礼から長い歳月を経て、支倉は心底キリスト教徒になっていたのだろうか。
 ちなみに、先月鑑賞したザビエル、ヤジローの時代からは七十年ほど後の話である。ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えてから七十年の間に、幕府が全国に禁教令を出すほどにキリシタンが広まっていたことになる。もっとも、支倉が遣欧使節として出発する四半世紀も前の1587年、豊臣秀吉は既にバテレン追放例を出しているし、1597年には同じく秀吉がカトリック信者26名を長崎で処刑してもいる。
 この歌、十七世紀ではなく十六世紀となっているのはザビエルの歌の一連に近く置かれているため混同されたのであろう。(鹿取)
 (この項、『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』(大泉光一)・『支倉常長慶長遣欧使節の真相』(大
  泉光一)・『シリーズ日本近世史①戦国乱世から太平の世へ』(藤井譲治)・講談社『日本全史』
  等を参照した。)


馬場あき子の外国詠85(スペイン)

2017年03月14日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠10(2008年7月実施)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H      まとめ:鹿取未放

85 仰ぎみる尖塔は鋭く空を刺し聖なるものは緑青噴けり

     (レポート)
 84(尖塔は碧空に入りて西班牙の深き虚に触れ物思はしむ)と同じく今一度、紺碧の空に鋭く突き刺さっている教会の尖塔を採り上げる。その尖塔は一神教の強さ、信仰心の深さ、精神力の強さを表している。なぜ聖なるものが緑青を噴いているのか、日本の社寺でも古く由緒ある建物には緑青がふいている。2000年の歴史の中で、キリスト教はますます緑青をふき、健全なのか。(T・H)


     (当日発言)
★一神教のすごさ(崎尾)


     (まとめ)
 救い主のいる天に向かって伸び続ける尖塔も、それらが緑青を噴くまでになっているのも、キリスト教というものの過剰さゆえであろう。下の句はその過剰さを感じ取っての表現だろう。(鹿取)


馬場あき子の外国詠84(スペイン)

2017年03月13日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠10(2008年7月実施)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H       まとめ:鹿取未放

84 尖塔は碧空に入りて西班牙の深き虚に触れ物思はしむ

      (レポート抄)
 スペインの都市には至る所教会があり、そこには高い尖塔が聳えている。マドリッドのカテドラル、バルセロナのガウディのサグラダ・ファミリア、サンディアゴ・デ・コンポステラのカテドラル、いずれも高い尖塔を持つ。それは少しでも天に近づきたいとのキリスト教の信仰の現れで、ゴシック建築の特徴。今、馬場はその尖塔を仰ぎ見ている。その尖塔はスペインの紺碧の空に吸い込まれているように見える。またその尖塔は「深き虚に触れ」、歴史的な事件や人間の営みなどについて、馬場を深い思いに誘っている。スペインの深き虚とは何か、かつてスペインは、大航海時代には、この地球上に日の沈むところなきまでに植民地を広げた。教会の尖塔を眺めることにより、スペインという国・地域の歴史的な事件や人間の営みなどまでに思いを致す馬場の感性の鋭さに感銘を受ける。(T・H)


      (まとめ)
 82番歌「静かの海のさびしさありてマドリッドのまつさをな虚にもろ手を伸ばす」にもあった「虚」がまた出てきた。直截に言えば「虚空」ということだろう。こちらは「尖塔」だから82番歌の「虚」より物思う内容が絞りやすい。大きくいえば、やはり東洋思想と西洋思想、キリスト教という思想についてであろう。(鹿取)


馬場あき子の外国詠83(スペイン)

2017年03月12日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠10(2008年7月実施)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H       まとめ:鹿取未放

83 ジパングは感傷深き小さき人マドリッドにアカシアの花浴びてをり

     (レポート)
 「ジパング」はいうまでもなくマルコポーロが『東方見聞録』において、日本を指した言葉。ここでは詠者である馬場を指しているのか、同行者全員を指しているのか。自分をも含めた日本人全体を指すものと思う。「感傷深き小さき人」日本人は確かにヨーロッパ人、とりわけスペイン人よりは身体的に小さい。今、詠者である馬場はマドリッドの大きなアカシアの木の下で、その花びらを浴びつつ、日本人とヨーロッパ人の精神構造の違い、地理的・風土的な違いを、しみじみと感じている。今回のスペイン旅行詠で、馬場はジパングという言葉を使うことによって、日本とスペインとの歴史的な背景にまで思いを致している。その心のあり方が「感傷深き小さき人」に表現されていると思う。(T・H)


     (まとめ)
 2首前では「ジパングの国より来たる感情の溺れさうなる西班牙の空」と詠ってジパングと空を取り合わせていたが、この歌ではアカシアとの取り合わせ。空の歌よりも感傷が限定できそうだ。「感傷深き小さき人」はここで花を浴びているので、日本人全体にまでは広げないでよいだろう。また花を浴びているのは同行者も同じだが、「感傷深き」を考えると作者のことと考えたい。もちろん、西洋人に比べて日本人は「感傷深き」傾向が強いかもしれず、レポーターのような見方も当然成立する。ただ、臨場感の点では作者ひとりに絞った方が説得力がありそうだ。「小さき」も格別精神に関わらせなくてもよいだろう。ちなみにアカシアは古代イスラエル人には聖木であったそうだ。(鹿取)