かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠379(中欧)

2018年01月01日 | 短歌の鑑賞
 馬場あき子の外国詠52(2012年5月実施)
   【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)100頁~
   参加者:K・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
       渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:鈴木良明
   司会とまとめ:鹿取未放

379 ドナウ川クルーズもややに夕暮れてハンガリー舞曲奏でられたり

     (レポート)
 やや夕暮れてきたドナウ川の周遊船のなかで、演奏が始まり、人々の耳目をひく。演奏されているのは、「ハンガリーにおけるマジャール人の国民舞踊曲調をもととし、国民音楽の優れた典型として知られている」ブラームスのハンガリー舞曲。「涙によってのみハンガリー人は愉快であるという言葉どおり、啼泣の憂愁と狂乱の歓喜は特有の魅力をもって迫ってくる。」(鈴木)


         (当日発言)
★演歌を聞かされると私は政治とか思想とか全てなげうって流されてもいいような気分になる。だ
 から演歌には警戒しているのだが。ハンガリー舞曲が演歌と同じ作用をするとは思わないし、私
 も好きな曲だが、もともと民族音楽を採譜して編曲したものだから、いろんなものを溶かし酔わ
 せる魔力もあるようだ。この歌には関係ないが音楽による民心の操縦というのはいくらでもある
 ことだ。もちろん音楽の効用は認めるが、反面麻薬のように政治とか思想とかに向かう人の心を
 へなへなと溶かすように働く気がする。378番歌(くらしの時間はすみやかに何かを忘れしめ
 孤独なり老いて静かに肥ゆる)の後に置かれた歌なので「何かを忘れしめ」るものの一つとして
 人々を酔わせ陶酔させる音楽も、いくぶんそのようなモノとして捉えている気もする。一方で3
 79番歌ではハンガリー舞曲を旅情をかき立てる抒情として扱っているのだろう。(鹿取)
★ハンガリー舞曲を麻薬のようには思わないし、作者もそうだと思う。378も379も自分は肯
 定的に捉えている。(鈴木)
★人が集まれば歌い踊るという民族だから、酔わされるというようには思わない。みんなで踊る 
 ことでまた力を得て蜂起する力の源にもなる。(藤本)