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ダンスとか。

Port B 『個室都市 京都』

2010-11-13 | ダンスとか
KYOTO EXPERIMENT

京都駅周辺。
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ピチェ・クランチェン ダンス・カンパニー 『About Khon』

2010-11-13 | ダンスとか
Pichet Klunchun Dance Company, About Khon

KYOTO EXPERIMENT

京都芸術劇場(studio 21)。
ジェローム・ベルと対話する『ピチェ・クランチェンと私』を改作して、ピチェがコーンについて受け答えする前半部分の後に実際のコーンの上演を組み入れた作品。それを今回はジェローム・ベルではなく山下残とやる。「ヨーロッパとアジア」の対話から、アジア内の対話になったことで、まずは紋切型な文化論のフレームが機能しなくなり、作品も、コーンも、また「アジア」も、自由になったと思う。ではそこで何をどう「上演」するのか。暗黙のうちに観客の意識をとらえて自分のペースに巻き込むベルのような技術を山下残は駆使しないし、またベタに「日本文化」を背負うこともせず、むしろほとんど舞台を意識していないかのような「だらしない」感じで振る舞い、「コーン」て聞いたら工事現場に置いてある赤いコーンを連想しちゃったよ、とか、『まことちゃん』に出てくる「ぐわし」の指を教えようとしたりとか、ひたすら安定的なコンテクストをはぐらかしにかかる山下残に、ピチェが素でオロオロしているさまがとにかく新鮮だった。いわゆるクレヴァーな「間文化的パフォーマンス(intercultural performance)」すら成立していないように見えるのは、ピチェが自文化を明確に「アイデンティティ」として領有しているのに対し、山下残はそういう意識がほとんどないからだろう。それゆえ対等な二つの「文化」の間の対話にはならない。冒頭、山下残が「タイに行ってピチェのパフォーマンスを見た時に、伝統的な文化をすごく感じたんだけど、日本にはそういう文化がない」と発言すると、ピチェは「変だね、ぼくはタイにいる時に伝統を感じないけど、日本に来るとすごくそういうものがあると感じるよ」と答えた時にもそう思った。二人はむしろ「自分の国の文化は意識しにくいものだが外国人の目にはよく見える」というようなところで合意しているみたいだったが、とりわけ「今日における創造的なダンス」すなわち「コンテンポラリーダンス」の定義に関しては両者の差異は歴然としていて、とりわけピチェの作品や活動の文脈については、通常理解されているよりはるかにローカルで異質なものとして捉えるべきなんじゃないかということを強く考えさせられた(グローバルなシーンでは「珍しいタイ発の現代ダンス作家」かも知れないが、タイの文化の歴史的文脈では「伝統文化と現代文化の間の齟齬と格闘する古典舞踊界の異端児」なのだ)。二人の対話が、そもそも伝統文化に対する意識の仕方がこれだけ違うのはなぜか、というところへ深まっていけば面白かったのだが、この作品は『ピチェ・クランチェンと私』ではなく『About Khon』なので、そういう方向へは行かなかった。ぜひ「アジア内対話」を発展させていってもらいたいと思った。後半のコーンはピチェ自身による現代的な振付であるようで、前半でのデモンストレーションの内容を再認させる要素も含みつつ、複数のシーンが同時に展開したりする。いつか古典的なコーンを見てみたいとも思ったし、また「コーンについてのパフォーマンス」だけでなくピチェ作によるコーンの新作も見てみたいと思った。
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