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ダンスとか。

生活舞踏工作室 『メモリー』(ロングバージョン)

2010-11-27 | ダンスとか
Living Dance Studio, Memory

フェスティバル/トーキョー10

にしすがも創造舎。
振付/ウェン・ホイ(Wen Hui 文慧)、ドラマトゥルク・映像/ウー・ウェングアン(Wu Wenguang 呉文光)、出演/ラオ・シュウジュアン(Lao Xiujuan 労秀娟)、ウェン・ホイ(Wen Hui 文慧)、ウー・ウェングアン(Wu Wenguang 呉文光)
去年2月に香港で30分くらいのヴァージョンを見ていたが、今度は8時間版。巨大な蚊帳に囲まれた空間で、上体を後ろに反らせては戻す動きをゆっくり繰り返すウェン・ホイと、古いミシンで作業をしている母親役のラオ・シュウジュアン(ちなみに今回の「母親役」は急遽、ウェン・ホイの実母が出演)、そして時折り出てくるウー・ウェングアンは映画作家のはずだがセリフもあり、ちょっとしたパフォーマンスをする。幕に写されるアニメや実写映像と、二人のミニマムな動きや会話などが入れ替わりながら、起伏なく延々と続く構成だが、これだけ長いとだんだん時間の感覚が狂ってきて、案外短く感じた。トイレに立つこともなくずっと見続けている人が他にも80~100人はいたと思う。香港で見た時はウェン・ホイ一人だけで、映像も少なかったのだが、今回はウー・ウェングアンの映画『我的1966』が7つの部分に分けられて全編上映されるなど、かなり映像の比重が高いように思えた(最長で28分間、映画の上映が続いた)。確かに、映像をずっと見ているところへ唐突に照明が入って生身のウェン・ホイが現れたりすると、次元の切り替わりが鋭く感じられ(軽い眩暈すら覚えるほどに)、こういう演出は長時間上演でなければ不可能なのだが、その分だけ作品のコンセプトが強くなっていたかというと色々気になるところもある。まずライヴで演じられているのも映像の中で話されているのも主に1966年当時への回想なのだが、そこでそれぞれの媒体の特性に由来するニュアンスのズレが鮮明に出ているのに、そのことがわりとスルーされているように感じた。舞台上の親子のやり取りは主観的な「メモリー」だが、インタヴュー映像の方は機械的なプロセスを経た客観的な「レコード」(主観的メモリーの客観的レコード)としての印象がはっきりある。香港で見たソロ版には個人性やインティマシーを濃厚に感じたが、この版では複数の人の個人的「メモリー」が並列されることによって作品の規模が拡大しているといったような単純な結果にはなっていない。事態はもっと複雑なのに、そのことが実はあまり顧慮されていないと感じたのは、端的には、文革当時の写真などが断片的にモンタージュされるのと全く同じ水準にドキュメンタリー映像が置かれているように見えたからだと思う。(1)舞台上の身体、(2)ドキュメンタリー映像、(3)写真のモンタージュ、という三つの要素があるとすれば、まず(1)と(3)の間には明確な位相差がある(例えば主観と客観、あるいは虚構と現実、演技と記録、などといったズレがある)。他方(2)は、(1)と内容において等価、しかし(3)ともまた形式面で等価なのだ。だから両方(主観と客観etc.)にまたがる(2)は作品全体の構造上かなり厄介な立場に置かれることになるわけだが、その立場の難しさ(それがいわば「ドキュメンタリー」というものの本質でもあるだろう)に対して何らスタンスの提示が感じられなかった。かろうじて終わり近くにウー・ウェングアンが、このドキュメンタリーを撮影してからもう18年経っている事実に言及しはするのだが、映像の存在根拠としての自身の身体をパフォーマティヴに提示するに留まっていて、しかもそれはまた舞台上のウェン・ホイ親子とはさらに別の位相に属する(4)とでもする他ない要素だ。共約され得ない複数の位相がクロスしている状態でありながら、位相差が特に強調されるのではなく、むしろ曖昧に流されているように感じてしまった。そのことが気にかかるのは、やはりこれが単なる美学的な構築物ではなくて、現実や歴史をどう扱うかという問題に関わっているからだろう。この作品は初演時には1時間で、後から『我的1966』を組み込んで8時間版を作ったと聞いたが、ちなみに今回上演された1時間版では『我的1966』の中の女性のインタヴューの部分だけを使い、全体がいわば三人の女性によって織り成される作品だったらしい。もしかするとそっちの方が完成度が高かったかも知れない。そしてもう一つ気になったのは、映像が流れている間にしばしば演者たちが舞台上からいなくなっていたこと。これは作品にとって致命的な判断ミスであると思う。観客が8時間座っている状況で、演者の方が休憩を取ってしまったら、「8時間」という持続を劇場でフィジカルに共有することの意味が根底から崩れてしまう。後で聞いたら、わりと最近まで8時間ずっと舞台に居続けていたのだが、体力的にきつくてやめたとのこと。それならむしろ作品の長さの方を縮めるべきだったのではないか。「6時間」でも「4時間」でも、その方がずっと論理的になったはずだ。
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