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ダンスとか。

飴屋法水 『わたしのすがた』

2010-11-09 | ダンスとか
フェスティバル/トーキョー10

にしすがも創造舎ほか。
「にしすがも創造舎」のある、かつての小学校の校庭に掘られた穴と、その脇に建てられたテクストから始まって、その後に近辺の廃屋を使ったインスタレーションを三軒回る。よくこんな場所があったものだと思わされるようなあばら家や廃屋を見つけ出し、その上どこまでが現実でどこからが虚構なのか微妙に怪しませるような塩梅で作品に仕立てているそのコントロールの絶妙さが素晴らしくて、それが見事にジャンプ台として機能した結果、最後の建物にたどり着くまでの白山通り沿いのやや長い移動(15分くらい)がもはや凄まじかった。単なる日常のままの(演出されていない)光景でありながら、目に映る色々なものや、音や、出来事の一々が禍々しい「意味」を充満させて迫ってくるように感じられ、特に消防署の前に大きな日の丸がバサバサはためいていたのが、少し目を離してまたそこを見た時になぜかしぼんでいたのとか、手に持っていた地図をうっかり風に吹き飛ばされてしまい、車道の縁まで追いかけてやっと取り戻したこととかが、もはや忘れ難いほど強烈に心に焼き付いた。そこにはもちろん、午後から夕方にかけて日が傾いていく時間帯をわざわざ選ぶセルフサービスもうまく噛み合っていて、「作品を味わう」という行為のどこかに、自己暗示とも言い換えられる「(セルフな)遊戯性」が絡んでいることを意識させられた。それだけに余計、ラストの建物では、遊戯としてのベタさをあっさり通り越した耽美性で性急にオチがつけられているように感じられ、このギリギリでセーフだったりギリギリでアウトだったりする感じがまさに飴屋法水的、と心の中で舌打ちした。28年前まで妾が住んでいたという崩れかけの廃屋や、女子寮として使われていたという旧キリスト教会の建物の中のハチのモチーフなど、どことなく既視感がないともいえないJホラー的なイメージ、そして何となく「意味深」という域に注意深く留まり続ける宗教的なテクストの数々も、映画や小説ではなくライヴの体験であるがゆえの遊戯性によってこそ活気づけられていたのだろうに、作品である以上どうしても「終わら」ねばならず、それゆえに遊戯性の持続を支えていた「先行きの不透明さ」あるいは「全体像の不明瞭さ」には何らかのケリがつけられねばならなかったのだとしても、現実と虚構の境界をたゆたいつつそのまま日常の中に放り出されて終わっていた方が、造形的完成度などよりもずっと人の生にもたらすところ甚大だったに違いない。theater の外でいかに theatricality を機能させるかについて、手法の問題ではなく、主題(テーマ)の側から探ったとするなら、はたしてこういう形でオチていいのだろうか、と思った。
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