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ダンスとか。

天狼星堂舞踏公演 ソロ小品集2010

2010-11-23 | ダンスとか
中野・テルプシコール。
▼小林友以 『ボッサボサボサ』
うずくまった姿勢から、立ち上がり、歩き去るまでを、終始遅い動きで。見る側からいえば、遅い動きを見るということは小さな点に注意を集中するということであり、ということはすなわち視野を狭めるということでもある。フォーカスが絞られれば絞られるほどに、踊り手の周囲の空間が視界から消え、踊り手の全体像すらも薄らぐことがある。その果てに、視覚は三次元的な空間の広がりを捉えるということをしなくなって、むしろ注視している先と、眼球との間の距離感が失われたりする。そこに舞踏独特の没入感のようなものが生じる、といえるように思う(原理的には)。フォーカスを絞り続けるには力が要り、その力は、第一には踊り手から発せられるものだろうけれど、しかしそれ以上に、フォーカスを絞り続ける目の側の力との拮抗によって生じる「張り」(tension)のようなものである。踊りには、そういうものがうまい具合に生まれる時と、生まれない時とが歴然とある。この踊りの場合、見た目には動きは均質なのに、「張り」が軽く弾けては、また最初から張り直される、ということが、繰り返し起きたように感じた。
▼横滑ナナ 『常夏』
賑やかな音楽や標題通りの描写的な音、揺らめく水面の反射のような光で、空間全体を作り、その中に身を置く踊り。空間と身体のコントラストが強調されるものの、見ているこちらの意識は絶えず変化していく空間の方に吸い取られ、体の中に入って行くことができなかった。だから、踊りというよりもむしろ演劇として見た。
▼大倉摩矢子 『うしろがわ』
黒いジャケットに赤いネイルで、斜めの光が当たり、ドラマティックな雰囲気が漂う中に異なるトーンの動きをつなげて行く。どの場面も、何をどう踊っているのかが明確で、一々が彫り物のようにくっきりとしていた。遠ざかったり近づいたりして聞こえる無機質なミニマル音楽のようなものによって抽象的な空間が生まれていて、それを聞くでもなく聞かないでもないような身の置き方をしながら、均質なように見える部分にも不定形な波があり、繰り返されない動きにもリズムが宿っていた。一言でいえば良い踊りだった。しかも速度や質感やモティーフなどを変えて生み出される場面の推移は、何か構造のようなものが組み上がっていくのを見ているかのように明晰。こういうスケール感は今までの大倉摩矢子の踊りで見たことがない。ところで、冒頭の遅い歩行で示された「遅さ」の本質について。動きの向かう方向がはっきり示されていて、それによって想像が現実を追い越してしまい、そこから振り返った時にこそ「遅さ」は強く感じられる。「未だ来ていない」時点すなわち「未来」を待ち受けている状態の中で「遅さ」の印象は生まれる。例えばここでの歩行にはマイムの要素を感じたが、歩行せずに歩行を見せること、すなわち運動ではなく運動のヴェクトルを示すことにおいて、動きのマイム的な記号化が有効であることは容易に理解できる(舞踏とマイムの明白なつながり)。ヴェクトルの提示が強く、なおかつ動きの遅延が甚だしいほど、見る側の意識としては、想像される未来と目の捉える今の間の激しい往復を味わうことになる。おそらくそれは踊る側の論理としても同じではないか。未来と今の間の往復の激しさが、表立っては見えない波になって、遅い動きの中に籠る。踊りとしての厚みとは例えばこういうものを指して言うと思う。
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