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ダンスとか。

Armitage Gone! Dance

2005-12-17 | ダンスとか
Armitage Gone! Dance, in this dream that dogs me

NY, The Duke on 42nd Street.
ここしばらくずっとイタリアやフランスで活動してきたキャロル・アーミテージが2004年のジョイス・シアターでの新作を経てNYに帰還し、新しいカンパニーを立ち上げたということはそれなりにニュースになっている。男性3、女性2の衣装は青いレオタードで(終盤近くに赤いレオタードの男性2、女性3が加わる)、背景にデヴィッド・サーレによる折れ曲がったボイラー管のような銀のオブジェ、舞台上部ギャラリーにミュージシャン(チェロ、サンプラー、ギター、パーカッション)。途中でチェリストは舞台に降りて来る場面がある。クラシックが強いベースになっていて、そこから発展させた線的な動きをできるだけ夾雑物抜きに見せる方向性の割にはダンサーがあまりに貧弱で説得力がなく、序盤は眠かったが、大柄な William Isaac とのデュオにおける Megumi Eda が良くて目が覚めた。空間感覚が明晰であり、振付が含んでいる動きのダイナミズムを自分のものにしていて曖昧なところがない。バランシン、カニンガムとある種の王道を経てきたアーミテージの振付をとらえる語彙が自分には不足していて歯痒いが、Isaac のサポートを得て横へ伸び上がりながら体を思い切り開いて宙に放り上げられた片足の、重力で落ちて来る膝を再び素早く蹴り上げるなどといった細部にも、コントロールされた生命力が満ち満ちていて迫力がある。ただ言われたからやっている、というような気の抜けた踊りとこういう踊りの違いはどこから来るのか。与えられた形と無形の生命力がしっかり激しく衝突するその緊張感が、踊りを充実させるのだと思う。「矛盾」が激しければ激しいほど、形への愛憎がひたすら単なる「強度」として現れてくる。ダメな踊りは、体の持っている力を形に容易く従属させてしまっていて、しかもそれによって形の持っている力とも正面から出会えないままになっている、という気がする。Eda はこのデュオの部分が一番良かった。他にもう一人、非常に小柄な男性 Leonides D. Arpon は、小回りが利く体で機敏に、そして少し前に出た首とともに目線で方向を素早く見定めつつ、ダンシーに(強度とともに)動いていて印象に残った。Arpon の踊りは Eda と比べると一見「ラフ」に見えるが、振付を真面目に取りすぎずラフにこなしているというわけではなく、徹底して真面目に受け取った上で、それからの逸脱衝動と闘っている。はっきり目に見えるほどのものではないが、動きにいちいち過剰な表情が付いている。歌でいえば、調子が出て来た時にこぶしを回したり、アドリブでリズムやメロディーをいじったりするようなもので、事実、顔はよく笑っていたように思う。要するに顔は振り付けられていなかったのだろう。そういう、穴があればそこから何かが溢れ出すような踊りっぷりも、踊りとしてのあり方だと思う。62分。
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