NY, The Puffin Room.
Ayako Kurakake/a-core-dance arts による企画。
▼Ofelia Loret de Mola, Excerpts from Mexican Flavors in American Cuisine
10月の Reverb Festival でマヤ文明のダンスをやっていた振付家。今回もやはりメキシコネタで、前半は女性が巨大な布を背景に、後半は男性がスペイン語(「花!」とか「夜!」とか)を呟きながら、しかし取り立てて変わったところのなさそうなコミカルな踊りをする。
▼Nelly van Bommel, Pongas Triste
この人の作品も Reverb Festival で見たが、今回のトリオはとにかく力みながら、息を吸い込む音を掛け声代わりにして揃えるユニゾンで、急激に動き出しすぐに止める(静止状態から一気に加速してピタッと止める)振付にはこれといって引っかかるところがなかった。というより、こんなに互いに近くにいるのに、呼吸ではなく呼吸音をきっかけにしたり音楽の唐突な変化に半ばせっ突かれながら動かねばならないということが悲し過ぎる気もした。食卓を囲んでいるのに皆で黙ってTVを見ているみたいな。
▼Masumi Kishimoto, Sleepy Time
自作自演のソロ。電車の吊革につかまって立ったまま眠ってしまうとか、起きてもすぐ眠ってしまうとか、ありえないタイミングでいきなり眠ってしまうという風にして、制御可能と制御不能のあわいをコミカルに見せる。あの経験をダンスにしようという着想には共感するけれども、それをマイムで処理してしまうやり方には共感しない。そういえば日本のダンスではあれだけよく見かけるマイムをこっちではあまり目にしないが、改めて考えてみると、徹底して記号表現とその操作に終始するマイムは普通に考えられているよりもダンスから遠いものだと思う。無意識のうちに体がガクンと落ちるあの瞬間を、振付を呼び水にしながらライヴで引き起こすというより、マイムはただ観客の隙をつき、目を欺くために「唐突さ」を演出する。予備動作を見せないで一気に崩れ落ち、そして極端に素早くリカヴァリーする、など。
▼Naomi Luppescu, Precise Mistake
10月に Dumbo Festival で見たのと同じ作品だが、内容は思っていたより複雑というか混沌としていた。四人の中でペアを組み替えながら、ドタバタと絡んだり、幾何学的なフォーメーションを作ったりして、秩序と無秩序の間を行き来する。
▼Ayako Kurakake, Lay Over
ダンサーは Nohemi Bamiuso。NYでは、たとえソロでも振付家が自分で踊るのではなくダンサーに振り付けることが多い。身体と振付の間の距離感が、日本とはかなり違う。正面向きに立って頭を後ろに仰け反らせ、肩から向こうが見えない状態でしばらくそうしている。そこから踊りっぽく移動して下手側にある椅子に座るのだが、その瞬間にパッと醒めてしまった。見慣れたものをまた見た、という感覚を意識した。その後も高い体勢のバレエとモダンの踊りが続き、最後はまた冒頭の姿勢に戻って終わる。しかしこの仰け反りはなぜ魅力的なのか。予期せぬ出来事が起こると思わせる何かが、その姿勢の不安定さの中にあるのだ。ただ立っているのでも倒れるのでもない、未決の状態でグラグラしている。鳩尾の辺りから奥へ向かうなだらかな傾斜の先に、ズルッといきなり知らないところへ滑り落ちてしまいそうな不安がいつまでもそこにある。単純であり、たったのワンフレーズなのだが、これはダンス的といえる。他の部分は不安を抱くまでもなくすんなり了解してしまえて、目が表面を上滑りしてしまった。在るものと見えているものが過不足なく一致しているように思える時、そこには運動を感じない。ところが仰け反りはもっともっと見るようにと煽ってくる。目が先へ先へ追い立てられるように感じる。
▼Kana Sato, Unravel (work in progress)
下手側にカリグラファー Junior Aoki、上手側から布が垂れていてそれを男性ダンサー Dai Jian が広げていくと、その下を潜って Kana Sato が中央に現れる。Dai Jian がその衣装に筆で何かを書き付けていき、Kana Sato は揺らめきながら日本語で言葉を呟く。以降は、床上の布に文字を書き続ける男、下手であまり動かないが時々何かを書いている男と、中央で波に揺すられるようにうねりながら旋回する女、という三副対の状態になる。くねる文字の曲線が全体のモティーフだということは一応了解されるが、三人の身体が舞台上でどういう関係を結んでいるのかはわからなかったので、結局踊りだけを見ていた。しかしこれは一見、文字ではない人間が文字を演じようとするダンスのように思えるけれども、タイトル(「ほぐれる」)からすると決してそうではない。むしろ文字を書く筆先から遊離してしまった身体は、文字の体系から切り離されてしまった線なのであり、それがあてどもなく宙をさまよいながらどこまでも解体していくという、要するに規則を喪失してなお動くという、そういう「理念的」なダンスなのだ。ならば(漠然とした「自由」のイメージを踊ろうとするのではなく)そのダンスがどこまでダンスであり続けられるか、あるいはもうそれをダンスとは呼べなくなってしまうか、そういうギリギリの限界と格闘するところに「振付家」のフィールドがあるはずだと思う。
Ayako Kurakake/a-core-dance arts による企画。
▼Ofelia Loret de Mola, Excerpts from Mexican Flavors in American Cuisine
10月の Reverb Festival でマヤ文明のダンスをやっていた振付家。今回もやはりメキシコネタで、前半は女性が巨大な布を背景に、後半は男性がスペイン語(「花!」とか「夜!」とか)を呟きながら、しかし取り立てて変わったところのなさそうなコミカルな踊りをする。
▼Nelly van Bommel, Pongas Triste
この人の作品も Reverb Festival で見たが、今回のトリオはとにかく力みながら、息を吸い込む音を掛け声代わりにして揃えるユニゾンで、急激に動き出しすぐに止める(静止状態から一気に加速してピタッと止める)振付にはこれといって引っかかるところがなかった。というより、こんなに互いに近くにいるのに、呼吸ではなく呼吸音をきっかけにしたり音楽の唐突な変化に半ばせっ突かれながら動かねばならないということが悲し過ぎる気もした。食卓を囲んでいるのに皆で黙ってTVを見ているみたいな。
▼Masumi Kishimoto, Sleepy Time
自作自演のソロ。電車の吊革につかまって立ったまま眠ってしまうとか、起きてもすぐ眠ってしまうとか、ありえないタイミングでいきなり眠ってしまうという風にして、制御可能と制御不能のあわいをコミカルに見せる。あの経験をダンスにしようという着想には共感するけれども、それをマイムで処理してしまうやり方には共感しない。そういえば日本のダンスではあれだけよく見かけるマイムをこっちではあまり目にしないが、改めて考えてみると、徹底して記号表現とその操作に終始するマイムは普通に考えられているよりもダンスから遠いものだと思う。無意識のうちに体がガクンと落ちるあの瞬間を、振付を呼び水にしながらライヴで引き起こすというより、マイムはただ観客の隙をつき、目を欺くために「唐突さ」を演出する。予備動作を見せないで一気に崩れ落ち、そして極端に素早くリカヴァリーする、など。
▼Naomi Luppescu, Precise Mistake
10月に Dumbo Festival で見たのと同じ作品だが、内容は思っていたより複雑というか混沌としていた。四人の中でペアを組み替えながら、ドタバタと絡んだり、幾何学的なフォーメーションを作ったりして、秩序と無秩序の間を行き来する。
▼Ayako Kurakake, Lay Over
ダンサーは Nohemi Bamiuso。NYでは、たとえソロでも振付家が自分で踊るのではなくダンサーに振り付けることが多い。身体と振付の間の距離感が、日本とはかなり違う。正面向きに立って頭を後ろに仰け反らせ、肩から向こうが見えない状態でしばらくそうしている。そこから踊りっぽく移動して下手側にある椅子に座るのだが、その瞬間にパッと醒めてしまった。見慣れたものをまた見た、という感覚を意識した。その後も高い体勢のバレエとモダンの踊りが続き、最後はまた冒頭の姿勢に戻って終わる。しかしこの仰け反りはなぜ魅力的なのか。予期せぬ出来事が起こると思わせる何かが、その姿勢の不安定さの中にあるのだ。ただ立っているのでも倒れるのでもない、未決の状態でグラグラしている。鳩尾の辺りから奥へ向かうなだらかな傾斜の先に、ズルッといきなり知らないところへ滑り落ちてしまいそうな不安がいつまでもそこにある。単純であり、たったのワンフレーズなのだが、これはダンス的といえる。他の部分は不安を抱くまでもなくすんなり了解してしまえて、目が表面を上滑りしてしまった。在るものと見えているものが過不足なく一致しているように思える時、そこには運動を感じない。ところが仰け反りはもっともっと見るようにと煽ってくる。目が先へ先へ追い立てられるように感じる。
▼Kana Sato, Unravel (work in progress)
下手側にカリグラファー Junior Aoki、上手側から布が垂れていてそれを男性ダンサー Dai Jian が広げていくと、その下を潜って Kana Sato が中央に現れる。Dai Jian がその衣装に筆で何かを書き付けていき、Kana Sato は揺らめきながら日本語で言葉を呟く。以降は、床上の布に文字を書き続ける男、下手であまり動かないが時々何かを書いている男と、中央で波に揺すられるようにうねりながら旋回する女、という三副対の状態になる。くねる文字の曲線が全体のモティーフだということは一応了解されるが、三人の身体が舞台上でどういう関係を結んでいるのかはわからなかったので、結局踊りだけを見ていた。しかしこれは一見、文字ではない人間が文字を演じようとするダンスのように思えるけれども、タイトル(「ほぐれる」)からすると決してそうではない。むしろ文字を書く筆先から遊離してしまった身体は、文字の体系から切り離されてしまった線なのであり、それがあてどもなく宙をさまよいながらどこまでも解体していくという、要するに規則を喪失してなお動くという、そういう「理念的」なダンスなのだ。ならば(漠然とした「自由」のイメージを踊ろうとするのではなく)そのダンスがどこまでダンスであり続けられるか、あるいはもうそれをダンスとは呼べなくなってしまうか、そういうギリギリの限界と格闘するところに「振付家」のフィールドがあるはずだと思う。