
さて、花岳寺を後にして赤穂駅方面へ再び進みますと、みなと銀行の道向に「息継ぎ井戸」と呼ばれる井戸が復元されています。
時に元禄14年、勅使饗応役の赤穂藩主浅野内匠頭長矩はその指南役である高家筆頭吉良上野介義央を事もあろうに殿中松の廊下において刃傷に及ぶ。将軍綱吉は即日内匠頭切腹、赤穂浅野五万三千石断絶を決定し、田村右京太夫邸にて35歳を一期として果てた。
青天の霹靂とも言うべき御家の一大事を領国赤穂まで知らせる大任を任されたのが早水藤左衛門・萱野三平の2名。彼らは約620キロの行程を昼夜兼行で4昼夜半、駕籠の中で眠れず、食べられず、排泄できず、の極限状況で耐え抜き城下へ入った。大石内蔵助に報告する前にとにかく息を継いだのがこの井戸、とされています。
現在の井戸は本当にあった場所から移動されています。歴史的な遺物を簡単に移動するなんて赤穂市も大胆だなーと思ったら、井戸は井戸でも通常の掘り抜き井戸ではなく水道から水をくみ上げる「取水口」で、感覚的には水道管から取った蛇口(=息継ぎ井戸)を別の位置へ付け直したという感じでしょうか。
赤穂は江戸時代から上水道が整備され、城下各地にその水道から水を自由にくめるように「息継ぎ井戸」のような取水用くみ取り井戸が各地に作られていたんですね。
この赤穂の上水道については次回!
時に元禄14年、勅使饗応役の赤穂藩主浅野内匠頭長矩はその指南役である高家筆頭吉良上野介義央を事もあろうに殿中松の廊下において刃傷に及ぶ。将軍綱吉は即日内匠頭切腹、赤穂浅野五万三千石断絶を決定し、田村右京太夫邸にて35歳を一期として果てた。
青天の霹靂とも言うべき御家の一大事を領国赤穂まで知らせる大任を任されたのが早水藤左衛門・萱野三平の2名。彼らは約620キロの行程を昼夜兼行で4昼夜半、駕籠の中で眠れず、食べられず、排泄できず、の極限状況で耐え抜き城下へ入った。大石内蔵助に報告する前にとにかく息を継いだのがこの井戸、とされています。
現在の井戸は本当にあった場所から移動されています。歴史的な遺物を簡単に移動するなんて赤穂市も大胆だなーと思ったら、井戸は井戸でも通常の掘り抜き井戸ではなく水道から水をくみ上げる「取水口」で、感覚的には水道管から取った蛇口(=息継ぎ井戸)を別の位置へ付け直したという感じでしょうか。
赤穂は江戸時代から上水道が整備され、城下各地にその水道から水を自由にくめるように「息継ぎ井戸」のような取水用くみ取り井戸が各地に作られていたんですね。
この赤穂の上水道については次回!
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