還暦過ぎの阿乱怒論

家庭菜園や工作好きの爺父が日々感じたことを綴る独り言

法事と癒しシステム

2011-07-19 20:04:08 | 日記
昨日は妹の七回忌。
兄とは年が8つも離れていてあまり一緒に遊んだ記憶がないので、兄弟といっても共通の思い出というのはあまりない。
4才下の妹のほうが兄妹としての感覚は強い。
その妹の突然の死からもう7年。
周り(子供)の人生を変えてしまった不幸な死であったが、時間の経過がいつしか悲しみも忘れさせてしまう。

時というものが悲しみを癒してくれる万人の妙薬であるのは間違いないが、その他にも悲しみを癒してくれるシステムがある。

それは昔ながらの葬式である。
永遠の別れの瞬間からすぐに葬式の段取りが始まる。
区長さんへの連絡、葬式を取り仕切ってくれる近所の人達との打ち合わせ、死者を連れて帰る自宅の片づけ、精進家の依頼、役所への届け出・・・等々
短時間のうちにやらなければならない事が多くて、悲しみにひたる間もなく準備に忙殺され、その間に次第に悲しみを薄れさせてくれる。
(*精進家=かつて田舎では葬儀は自宅で行うのが普通であり、遠方からの参列者の休憩や食事(精進料理)を世話してくれる近所の家のこと)

更に人間の脳というのも強すぎる悲しみから無意識にその人を保護するように働くもののようだ。
大震災で肉親も家も何もかも無くした人達の様子を見ていてもそのように思う。

今で言う「エコノミー症候群」で妻の妹が急逝したおりも、通夜式が終わり家族だけになった深夜、母親が「葬式を出す家がこんなに笑っているとこはない」と言うくらい、肉親だけで思い出話に花を咲かせ、涙が出るほど笑い転げたことがあった。
最大の親不孝(親より先に死ぬということ)に皆の悲しみが極限になった時、心が壊れるのを本能的に防ぐように作用していたのだろう。

時間と脳、それに社会システムが人間の心を守るツールであった。
最近は何でも合理的であるということの方が尊重される時代になり、田舎の葬式も葬儀会館で執り行うことが多くなってきたし、49日も短縮して35日で終わらせることが多い。
便利で楽にはなり、お金さえ出せば他人に気を遣う必要もなくなったが、その分何かを失ってしまったような気もする。

しかし田舎の葬式の大変さを知っている身としては、「わが子にはそんな思いはさせたくはない」というのが本音でもある。

いつかはごく少数の身内だけでどこかの葬儀会館で送られる日が来る。
式の間は小林旭の「北帰行」、出棺の際は同じく「惜別の歌」を流してくれと妻には言ってある。



北へ帰る 旅人ひとり
涙ながれて やまず・・・