還暦過ぎの阿乱怒論

家庭菜園や工作好きの爺父が日々感じたことを綴る独り言

潮岬灯台(和歌山県)

2013-08-29 21:19:12 | 灯台巡り
しおのみさき灯台
2013年5月8日(0810-0945)訪問

明治3(1870)年6月10日 仮点灯にて業務開始(八角形の洋式木造灯台)
明治6(1873)年9月15日 初点灯
明治11(1878)年4月 現在の石造りに改築(旧灯台が台風で倒壊したため)

和歌山県東牟婁郡串本町潮岬2877
(33.26.15N  135.45.16E)
高さ  地上~塔頂:22.51m  水面~灯火:49.47m
白色搭型石造り

本州の最南端・串本町の陸繋島である潮岬の南西端の断崖上に立つ大型灯台で、太平洋から瀬戸内海方面へ航行する船舶にとって重要な指標になっています。
「日本の灯台50選」にも選ばれていて、また歴史的文化財的価値が高いのでAランクの保存灯台になっています。

攘夷・開国で揺れていた慶応2(1866)年に英米仏蘭4カ国と結んだ「江戸条約」によって建設を約束させられた8灯台(※)の一つで、明治2(1869)年4月にイギリス人技師R・H・ブラントンの設計により樫野埼灯台と共に着工したのですが、正式完成は8灯台のうち最後の1873年になってしまいました。
それはイギリスから灯台機械を運んでいる途中で船が沈没してしまった為だそうです。
そこで急遽アメリカから蒸気機関車のヘッドランプを輸入して明治3(1870)年6月10日に仮運用を始めたということです。
当時から、ここがいかに安全航行上重要であったかが窺えます。
ちなみに正式運用を開始した1873年と言えば、西郷隆盛が征韓論を主張して下野した年です。歴史を感じますね。


灯台守の宿舎跡

南南西約500m先の米粒岩を照らす潮岬米粒岩照射灯も設置されています。



灯台前の有料駐車場(¥300)に8時過ぎに到着、参観可能(0900-1600、¥200)な灯台なので、すぐそばの潮御崎神社へ行ってみたり、東京からという70歳ぐらいの方と3人でいろんな灯台の話をしたりしながら開門を待ちました。

犬吠埼灯台よりやや低いですが、同じブラントン設計による犬吠とよく似た灯台です。


レトロな雰囲気の登り口です。

中はらせん階段(一部はしご部あり)になっており、周囲は板張りがしてあり落ち着いた雰囲気の内部です。

歴史を感じさせる初点プレート

昨日の強風のためか太平洋の地平線がくっきりと美しく、大型船が行き交う海は犬吠の雰囲気を思い出させてくれ、妙に懐かしい思いがしました。

灯台へ向かう途中(北方向)から

灯台から5~600m東側に潮岬観光タワーがあり、その向かい側に広い芝生広場があります。
かつて海軍の望楼(物見櫓)が置かれていたことから、今でも「望楼の芝」と呼ばれていています。

広場から潮岬灯台を望む
ここに車を停めて(無料)灯台まで歩いてみるのもいいかも知れません。


余談ですが、かつて大洋に面した大きな岬には船舶と通信をする海岸無線局が設置されている所がありました。
遠洋船舶と交信する短波海岸局は千葉県の犬吠崎(銚子無線局JCS)、長崎県の大瀬崎(長崎無線局JOS発祥地)がありますが、ここ潮岬も沿岸を航行する船舶と交信する中波海岸局(潮岬無線JSM)が設置されていて、無線屋にはなじみの深い所です。(現在は船舶通信は衛星通信を利用するようになったため、かつての海岸局は全て廃局になっています)


(※)条約灯台
1.観音埼灯台(初点灯1869年)
2.野島埼灯台(1870年)
3.樫野埼灯台(1870年)
4.神子元島灯台(1871年)
5.剱埼灯台(1871年)
6.伊王島灯台(1871年)
7.佐多岬灯台(1871年)
8.潮岬灯台(1873年)

私は何?

2013-08-26 20:55:58 | 家庭菜園
昨日の久し振りの雨のおかげで今日は秋のような爽やかなお天気になりました。
このまま秋に突入であればいいのですが、中々そうはいかないようです。
あと暫くの辛抱といったところでしょうか、でも秋はすぐそこまで来ているようで、いよいよ秋冬野菜の準備にかからねば・・・。


生ゴミ堆肥の中から発芽してきたものを植えたら、こんな物が成りました。
てっきりカボチャだと思って育てていたのですが、これは何なんでしょう?

こんな花が咲いていました、葉っぱは左側の葉のようです(右側は一緒に植えていたゴーヤの葉)。


年内に収穫できるように人参を植えました。
先週に耕して有機石灰をまいておいたおいた畝に、鶏糞(ひしゃく5杯分)をすき込んで播種。
昨日の大雨でちょうど良い湿り具合です。

人参の種は好光性なので覆土がわりに籾殻5ミリぐらいで覆ってみました。

たっぷり灌水してから乾燥防止のため新聞紙をかぶせ、更にその上からもう一度水やりをして湿らせておきました。
週一農業なので次の週まで水やりが出来ません。
これで上手く発芽してくれればいいのですが・・・。



ポットで播種して13日目のブロッコリー、昨年の白菜と同様にひょろひょろの徒長苗になっています。
ひと月ぐらい播種時期が遅れたのですが、上手く育ってくれるのでしょうか。


同じく3日目の白菜苗。
この時期はブロッコリーも白菜も播種後2日で発芽しましたが、なぜかブロッコリーのように徒長してしまいがちです。
昨年の反省から、ポットの畑土に播種しその上に種蒔き培土を覆土して、発芽と同時に覆っていた不織布を外したのですが、今年は果たしてどうなるのでしょうか?


今日は比較的作業しやすい天候だったので、大根用の畝を耕して有機石灰をまいておきました。
昨年の結果からは9月10日頃に播種したのが一番生長が良かったので、今年は出来るだけその頃に全部播種しようと思っています。
4畝くらい作りたいのですが、年のせいかすぐに腰が痛くなって今日は一畝だけにしておいてやりました(笑)。
あと2週間あるのでぼちぼちと準備するつもりです。


藤圭子さんが亡くなった

2013-08-23 20:44:57 | 日記
私らが20才の頃に一世を風靡した藤圭子さんが亡くなった。
「圭子の夢は夜ひらく」のアンニュイなメロディーと、美人なのに凍りついたように表情を変えずに唄う姿が特徴的な歌い手さんでした。

当時は田舎出の何も知らない若者がいきなり労働運動の盛んな職場に配属され、好きな仕事に憧れて入社したはずなのに、連日連夜左右両派からの洗脳攻撃にさらされる毎日でした。
そんな中で自分の生き方や立ち位置が定められずに悩み、暗鬱な青春を送っていた頃に流行っていた歌です。
カルメンマキの「時には母のない子のように」と「圭子の夢は夜ひらく」の暗さが、当時の自分の精神状態とマッチしていて、あまり好きな歌ではありませんが妙に心に残っています。

「歌は世につれ・・・」と言われよく当時の世相と関連付けられることがあります。
60年安保後の西田佐知子「アカシアの雨が止むとき」と同様に、「圭子の夢は夜ひらく」は70年安保の挫折感を背景にしているとも言われているようです。
(もっとも同じ頃に流行った「走れコータロー」は挫折感とは無縁のもののようで、全ては当時の世相を懐かしむ人が勝手にこじつけているようにも思えますが・・・)

江須埼灯台(和歌山県)

2013-08-22 20:01:04 | 灯台巡り
えすざき灯台
2013年5月7日(1440-1520)訪問

初点灯  昭和36(1961)年3月31日
和歌山県西牟婁郡すさみ町江住 152-59
(33.29.55N  135.35.33E)
高さ  地上~塔頂:10.5m  水面~灯火:32.6m
白色搭型(鼓形)コンクリート造り(総タイル貼り)

灯台基部
敷地が狭いので全体を撮影するのは困難でした。

太陽電池を利用してLED灯器を点灯しているようです。

初点プレート

すさみ町の江須崎半島の沖にある江須崎島にある灯台で、西の市江埼灯台、東の潮岬灯台とのちょうど中間に位置し、紀伊半島に沿って枯木灘を航行する船の安全を守り続けています。
周辺は、枯木灘県立自然公園に指定され、太平洋を望む風光明媚な所です。

江須崎島は周囲約3㎞の小さな島で(本土側からは橋でつながっている)、亜熱帯植物が生い茂る暖地性植物群落として国の天然記念物に指定されています。
(年間平均気温が17.4℃でこの辺りが亜熱帯の北限になるそうですが、最近の気候は日本全体が亜熱帯になったような気もしますね)

R42ですさみ市街を通過し潮岬方面へ向かう途中に「日本童謡の園」の看板がある交差点を「日本童謡の園」方面へ右折します。
(後でわかったのですが日本童謡の園の方へ行き、そこに駐車したほうが灯台までは楽に行けたのかもわかりません)

私は日本童謡の園の方へは行かずに右折してすぐに左側の細い道を走り江須崎島の手前の海岸に駐車しました。

このコンクリート橋を渡って島に渡ります。島の入口には春日神社の鳥居があり、神社までの参詣道が整備されています。

参詣道の途中から灯台への遊歩道に別れます。

灯台までは平坦で楽な道のりでした(駐車場所から約15分で灯台に到着です)。


やはりジンクスは生きていた

2013-08-16 21:22:43 | 日記

待望の甲子園2回戦は名門「木更津総合」が相手。
県予選のデータではほとんど木更津が上回っていました。
それでも木更津の一回戦での戦いぶりを見る限りでは、そこそこいい勝負になるのでは・・・と、久し振りに甲子園に行ってきました。

30代頃の約10年間、ここから神戸・大阪に通勤していた懐かしい阪神甲子園駅。
職種転換したての苦しかった頃がほろ苦く思い出されます。

試合は一試合目と同様に初回に1点先取され追いかける展開に。
いきなり交替した相手投手の落ちる球に翻弄され3回に1点返したもののなかなか追いつけず、9回裏に2死満塁まで追い上げるのが精一杯でした。
(甲子園へ出られただけでも満足と言いつつ、その場で応援しているとやはり欲が出てきます。)
エラーやまずい守備もあり、結果は残念ながら3対1のままでした。
木更津の三塁手がファウルを追ってカメラマン席へ突っ込むというガッツあふれるプレーに、西脇応援団からも惜しみない拍手が湧き起こりました。
両チームとも実力差はそんなにあるようには思えませんが、このプレーをはじめ一球に対する執念が木更津の方が勝っていたようです。

でも選手達は初出場でよくここまでやってくれました。

選手達や応援団をはじめ北播地方の人達みんなが楽しめた夏でした。
ありがとう。


西脇工業高校甲子園初勝利おめでとう

2013-08-11 18:45:33 | 日記
甲子園出場8回目という石見智翠館(旧江の川)高校相手に甲子園初勝利。
県大会優勝もまさかでしたが甲子園でもまさかの初勝利。
一回表、たったの4球であっという間に1点先取された時はこの先どうなることかと心配しましたがすぐに逆転し、後は予選と同様に自分たちの野球ができました。
翁田投手以外は華奢で豪快さはありませんが、バントの上手さがひかりました。
本当におめでとう。
大舞台で浮足立ってボロ負けするんじゃないかという心配も杞憂に終わりました。
(身近な学校には心配ばかりが先に立ってしまいますが、そんな不安を見事に裏切ってくれました。)

本当は甲子園に行って応援したかったのですが、多少縁があり応援に行った学校(銚子商、市立銚子、銚子西、鹿児島樟南)は全て負けていると言う悪しきジンクスがあるので、今日はTVで応援していました。

次は木更津総合が相手と決まりました。
今度はジンクスを無視して応援に行こうと思います。
もう勝ち負けはどうでもいいので、甲子園を充分楽しんで下さい。


♪みんなの期待 背に受けて
 力の限り 投げた球
 汗にまみれた ユニフォーム
 だけど敗れた 敗戦投手
 落ちる涙は 嘘じゃない♪
(舟木一夫「涙の敗戦投手」)

こんな経験が出来る若者たちが羨ましい。

市江埼灯台(和歌山県)

2013-08-09 19:19:10 | 灯台巡り
いちえさき灯台
2013年5月7日(1135-1240)訪問

初点灯  大正10(1921)年10月1日
和歌山県西牟婁郡白浜町市江
(33.35.04N  135.24.05E)
高さ  地上~塔頂:11.2m  水面~灯火:95m
白色搭型(八角形)コンクリート造り

白浜町の南部(旧日置川町)の市江崎にある8角形のレトロな鉄筋コンクリート灯台です。
「日本の近代土木遺産」Bランクに指定されています。

塔高はそんなに高くはないのですが、どっしりとして風格があります。

初点プレート、シンプルですが歴史を感じさせてくれます。


白浜市街からR42を南へ下り、道の駅「椿はなの湯」を過ぎ、市江崎トンネルを過ぎて(「市江崎荘」の看板がある所を)市江崎港方面へ右折、しばらく進むと集落があります。
小さなコンクリート橋を3つ渡ると4つ目に「市江一号橋」があります。

この付近には駐車しにくいので、少し先の漁港付近に駐車して歩きます。

この集落沿いに細いコンクリート道が灯台まで続いています。

約20分で灯台に到着です。
敷地も広く昭和52年まで灯台守がいたという予想外に立派な灯台。
地元の人か海上保安庁かわかりませんが、周囲もきれいに整備されていて気持ちのいい灯台です。
無名なのであまり期待せずに訪れた灯台でしたが、予想外にいい灯台で、何だか得をしたような気分になりました。


写真(写心)とマナー

2013-08-06 20:00:03 | 日記
20代の頃に勤めていた職場にはカメラ部があり、暗室も持っていて、モノクロですがフィルム現像から焼付けまで楽しんでいました。
先輩には「写真は俳句だよ」とか「写真は何に感動したのか、その感動した心を写すものだよ」とか禅問答のようなことをよく言われたものです。
せっかくきれいな風景写真が撮れたと思うのに、絵葉書的だとか言われてよく馬鹿にされたものでした。
未だにそんな写真の真髄を理解はできておりませんが、完全リタイヤになればまたそんな写真の心を求めて彷徨ってみようかなと思っています。

フィルム現像用品一式
昔は高価(?)なフィルム使用だったため、じっくりと構えてシャッターを切ったものですが、現在はディジカメ全盛でとにかく写しておいて後でいいのを選べばいいとばかり、安易にシャッターを切り過ぎてしまいます。
光線の具合や構図、シャッターチャンスをじっくり考えて貴重な一枚のシャッターを切り、フィルム現像→焼付けと現像バットの中でじわじわと現われてくる絵を待つワクワク感もなくなってしまいました。
これが写真撮影に対する心構えを安易にしてしまっているのではないかと自省。


また先日も感じたのですが、ついつい被写体に夢中になって他人の迷惑を顧みないカメラマンの多いこと。
無断で他人の肖像権を侵したり、他のカメラマンの邪魔になるのもお構いなしに被写体に接近するようなマナー違反が目立ちます。
被写体に近寄って広角で撮れば迫力のあるいい写真が撮れるのですが、それがどれほど他の多くのカメラマンの邪魔になっているかも考えてほしいものです。

いい写真を撮りたいという欲望とマナーの葛藤に負けないように心しておきたい。



篠山波々伯部神社例祭

2013-08-05 20:45:10 | 日記
篠山市は兵庫県にありながら京都府に隣接していることもあって、京都文化の影響を色濃く受けているように思えます。
街並みもそうですし、祭りもそのように思えます。(同じ地方紙でも神戸新聞よりも京都新聞を購読している人も多い)
その篠山市の東方、京都府に近い宮ノ前にある「波々伯部神社(丹波の祇園さん)」の例祭が8月の3、4日に行われました。

波々伯部神社の創建に関しては諸説があるようですが、承徳二年(1098)波々伯部村の田堵(有力農民)十三名が二十五町八反余の田地を八坂神社に寄進し、荘園・波々伯部保となり、祇園社を勧請した(京都八坂神社の古文書)のが始まりと言われています。



室町時代末期の延徳2年(1490年)に建てられたと言う珍しい青銅製の鳥居。篠山市の有形文化財に指定されている。


参詣道、氏子の各集落から8基のだんじりが午後1時にここを通って宮入します。

それぞれ地元の子供(男女)が乗り込んで笛、太鼓、鉦で囃子ます。


神社です。ここで8基のだんじりが集合して神事が行われます。



だんじりの大きさはそうでもないのですが、周囲の見送り幕が豪華で歴史を感じさせます。

舟形のだんじりも2基あります。


御旅所(オトシモリ)への巡行を先導するお稚児さん

境内で神事を執り行ったあと2時半に約600m西方にある小さな大歳森神社へ巡行します。

猿田彦を先頭にホラ貝、獅子頭、踊り子、お稚児さんなどが8基のだんじりの先導役を務めます。





のどかな田園風景の中を行く渡御行列、素朴な風景が魅力的でした。


三年に一回奉納される「おやま(キウリヤマ)」、2基あります。
今年は上手い具合にちょうど3年に一回の年にあたりました、偶然ですがラッキーでした。

波々伯部神社が天正7年(1579年)に明智光秀の丹波攻めで焼失し、天正17年に豊臣氏の命により再建されたのを祝って、当時華やかな京・祇園祭の鉾山を参考に手持ちの材料で「おやま」を建造し、手作りの神事芸能を奉納したのが起源だそうです。
キウリヤマの上部は青竹で組まれた枠組みに青と白の幕が張られ、デコ(木偶)ノボウと呼ばれる操り人形による人形戯を奉納する舞台となる。
デコノボウは六体一組で二組十二体あり、頭と胴串だけの素朴な作りですが、文楽の元型となる大変貴重なもので県の無形民俗文化財に指定されています。

本場の祇園祭のような派手な賑やかさはありませんが、素朴で地元に密着した本来の祭り行事のように思えました。
田舎のことなので観客よりも素人カメラマンの数ばかりが目立ちました。
それにしてもどこへ行ってもカメラを持った元気なお年寄りが多いですね(エッ、お前もその一人だろうが・・・って)

日本人の特質

2013-08-01 21:46:53 | 日記
JRの南浦和駅で電車とホームの間に両足を挟まれた女性を駅員と乗客が協力して助けたというニュースに世界が感嘆しているという。
女性が足を挟まれたのを見て乗客が非常停止ボタンを押し、かけつけた駅員が隙間を広げるために電車を押そうとすると、近くにいた乗客が一斉に手伝って助けたということです。
「うちの国だったら、乗客は眺めるだけで何もしなかったかもしれない」「おそらく、日本だけで起こりうること」等とアメリカ、イギリス、イタリア、ロシア、タイ、中国、韓国のメディアが称賛しているようです。

日本人だったら誰でもが同じように行動すると思いますが、世界の常識では不思議なことのようです(我々からすればその事のほうが不思議ですが)。
また救助された女性が素直に感謝しているのですが、外国だったら鉄道会社相手の訴訟沙汰に発展したかも知れないという、これも我々の感覚には相容れないことです。

こんな事を称賛されるのはなんか面映ゆい気がしますが、一方他人を押しのけて我先にと座席を確保する人や、車内で肩が触れたといって他人を刺したりするのも日本人です。
このギャップをどういうふうに理解したらいいのかわかりませんが、どうやら我々は平常時には我が強く出るが、非常時や緊急時には一致団結しやすいと言う特性があるのかも知れません。
これが日本人の美徳なのかも知れませんが、この特質を軍部が上手く利用して破滅的な戦争に突き進んでいったのが先の大戦だったのではと思うとやや複雑でもあります。