還暦過ぎの阿乱怒論

家庭菜園や工作好きの爺父が日々感じたことを綴る独り言

有馬富士公園散策(「ツクツクホーシ」か「ホーシツクツク」か?)

2011-08-28 23:45:49 | 日記
昨日は週一の農作業で疲れたので今日はのんびりと家で過ごしたかったのだが、妻に誘われて県立有馬富士公園へ行ってきました。
夏休み最後の日曜日を惜しむかのような暑さの中、汗だくになりながら2時間あまり175haの公園内を歩き廻ってきた。


園内に周囲1.8kmの福島大池と標高374mの有馬富士(富士と言う名をつけるにはちょっとおこがましいような山ですが)を配し、水辺や草地、林に生息する生物を自然のままに観察できるようになっていて子供達に人気があります。また野鳥も豊富で野鳥カメラマンにも人気があるようです。




池のほとりには、かまどのある土間や囲炉裏を再現した茅葺き民家があり、すぐ脇には棚田もある。



池の西側を半周すると有馬富士登山口に通じる林の道がある。

「虎は死して皮を残し、全ての生物は死して他の生物の肥やしになる」を地でいくように枯木から他の樹木が成長している。
子供達にはこういう自然の営みをも学べる場所である。

林の中を歩いていると夏の名残りを惜しむように「ツクツクボウシ」の鳴き声が喧しい。
名前からツクツクホーシ、ツクツクホーシと鳴くものと思えるが、ホーシツクツク、ホーシツクツクとも聞こえる。
別にどうでもいいことですが、どちらが正解かと今日は耳をすましてよーく聞いてみました。
背筋を伸ばして(?)深く息を吸ってから鳴き始めるようで、鳴き始めは「ホーシツクツク、ホーシツクツク、・・・」、そして鳴き終りは「ツクヒーヨス、ツクヒーヨス、ツクヒーヨス」と必ず3回繰り返して終わりました。
一生懸命恋文を出すけれどもいっこうに返事がこなくて、「もう諦~めた」と言っているようで何だか同情してしまいます。

聞く方にとってみれば、別にツクツクホーシでもホーシツクツクでもどっちでもいいですよね。

丸で今の民主党の代表選挙みたいなもので、誰がなっても我々にとってみれば何も変わらないように思えてしまいます。
マスコミ報道では海江田氏が優勢のようですが、経産省に取り込まれてしまったような人ではどこまでやれるのでしょう?
かたや財務省内候補の野田氏や前原氏でも同じことでしょう。
唯一馬淵氏が何となく期待が持てそうな気がしますが、鹿野氏や馬淵氏では党内をまとめていくことができるのか?

それにしても最大の不幸は、マスコミを総動員しての(裏で官僚が動かしているのは間違いない)洗脳で小沢一郎を封じ込めてしまったことだろう。
剛腕というイメージに幻影を見ているのかも知れないが、この危機的な状況に対応できるのは小沢一郎以外にはいないのではないだろうか?

小沢一郎以外の民主党にはもう何も期待することはない。
そして自民党にもこの難局をまかせられるような人材が見つからない。

いきおい大阪府の橋本知事のようなヒトラー的な政治家が人気を博すようになり、またいつか来た道を歩み出すようにならないかと心配の種は尽きない。
夏の終わりのツクツクボウシが鳴きやむと、民主主義の終わりが来るということのないように願いたいものだ。




5球スーパー

2011-08-24 21:46:33 | 日記
ニュータウンに引っ越してきた時にフリーマーケットで購入した懐かしの5球スーパーラジオ

スピーカーが大きいせいもありますが、真空管独特の延びのある柔らかい音に何とも言えない味があります。


6WC5(周波数変換) 6D6(中間周波増幅) 6Z-DH3A(検波&低周波増幅) UZ-42(電力増幅) 80K(全波整流) 6E5(同調指示)のST管5球スーパーです。


木製キャビネットから取り出したシャーシー。
自分の無線の世界への原点となった風景。
いくら眺めていても少しも飽きない、初恋の彼女にも似てほのぼのと懐かしい気持ちになる。


まだ小さかった頃に電灯以外の唯一の電化製品であったラジオは貴重品扱いで、神棚と同じ高さの棚に置いてあって子供は触ることもできなかった。
あの箱の中では小人がしゃべっているのだと信じていたものだった。
何回も父親の肩車に乗って中を覗いてはポーッと点ったフィラメントの明かりを眺めていた。

当時の理科少年達は鉱石ラジオと並3ラジオ、5球スーパー、現代の少年達はゲーム機やパソコンと興味の対象が変わってしまった。
最大の相違は昔はただ使うだけでなく、分解して再び組み立てたりまた新しく作ったりと機械と双方向の付き合い方をしていた事だと思う。

また中学の職業科の授業ではメッキやブリキ工作、ラジオ工作、木工工作、エンジンの分解等の物作りを大切にしていた。
それが世界に冠たる日本の物作りを生んだのは間違いないだろう。
今の子供達が大人になった時、この日本の技術はどうなっているのだろう。



子供の感性

2011-08-20 00:02:28 | 日記
ディジタル一眼レフを手に入れてから、今まで使っていたコンパクトディジカメを孫に使わせている。
この孫が時折ハッとするようないい写真を撮って爺父を悔しがらせてくれる。

大人は他人に良く見せようと考えたりいろんな邪念が入るのか、出来上がった写真を見ると中々満足できるものが少ない。
(単に自分が下手なだけかも知れませんが・・・)

その点、子供は見たまま直観的に撮っているので不出来なものも多いが、中には素晴らしい写真がある。
大人が見落としてしまうようなものでも子供の感覚で写真にしてみると、意外と面白くて真似をしてみたくなったりする。

孫も誉められるのが嬉しいのか、最近ではどこへ行くにもカメラ持参である。
まあ、何にでも自信がつくというのはこれからの成長にとって悪いことではないだろう。

我子が初めて何かをする度に天才かと勘違いする親のようだが、いつまでもこの感性を失わずに持ち続けてくれたら、行く末は有名女流写真家まちがいなしだ・・・!?


盆送り

2011-08-16 19:39:45 | 日記
今日もまだお盆休みのところが多いようで、通勤電車はガラガラ状態であった。
職場でも「今日出勤してるのは有休の残り少ない人か、家にいても邪魔になる人だけだな」という冗談が飛び出すぐらいだ。

昨日は現世へお帰りになっているご先祖様の霊を慰めに実家へ行ってきた。
本当は盆の入りである13日にお墓へ先祖様を迎えに行かなければならないのだろうが、美容院をやっている親戚の都合で月曜日の昨日になった。
というわけでお墓参りはせずに仏壇の前でみんなで般若心経と光明真言を唱える。


そして夕方にみんなで近くの川原で線香とお経をあげてご先祖様をお見送りする「盆送り」。
現世へお帰りになる時に乗ってこられた「きゅうりの馬」とあの世へお帰りになる際に乗られる「茄子の牛」をお供え物と一緒に川へ流す。
(もっとも最近は川の環境保全のため、流す格好をするだけだが)

こちらへ帰ってこられる時は早く来れるように「キュウリにオガラの足をつけた馬」で、そしてお別れする時はゆっくりと名残を惜しんで行ってもらうように「茄子にオガラの足をつけた牛」でという意味があり、少しでもご先祖様と長く一緒にいたいという気持ちが込められている。

こういうお盆の風習は日本独自のもので、先祖の霊や仏様の存在を通じて子供達にもてなしや思いやりの心を教える教育の意味もあったらしい。

一神教の他民族と違って我々日本人は古くから万物に神が宿るというふうに考えてきたが、同時に先祖の霊や魂の存在を常に身近に感じてきた。
そして春秋のお彼岸やお盆の行事を通じて、先祖の霊との交流を図ってきた。
死者との会話の橋渡しをする「イタコ」の存在や、死者との交流を描いた小説が多いのも日本独特のものではないかと思う。

死期が迫る父親のもとへ幼子の時に亡くした娘が現れて次々と成長する姿を見せてくれる浅田次郎の「鉄道員」や、離婚して一人暮らしになった中年男と幼い頃に亡くなった両親との交流を描いた山田太一の「異人たちとの夏」をはじめ数多くの小説がある。
両親がいなくなってから親の有難さや親への感謝の気持ちが出てくるように、それは死者への罪滅ぼしの気持ちを抱いている生者に対する、死者の最後の寛大な愛情を現しているようにも思う。

お盆にはお墓参りをしお経を唱える。
親の愛情に比べて何一つ恩返しが出来なかった反省と感謝の心をささげるいい機会である。
こうして今まで生きてこられたのはあなた達のおかげです。
(生きているうちには照れくさくて言えなかったことも今では素直に言えます。ありがとうございました)



青ジソで「メシ泥棒」

2011-08-13 23:06:29 | グルメ
今夏は比較的過ごしやすいと思っていたら、今日は最高気温が38度にもなり畑作業は収穫をするだけで精一杯。
昨年のこぼれ種から生長した青ジソがたくさん採れたので、同僚に聞いた簡単な料理(?)を作ってみました。

お酒の好きな人には絶好のツマミに、またご飯のオカズに「メシ泥棒」になります。


柔らか目の葉を水洗いし、キッチンペーパーで水気を吸い取ります。
その葉の片面に桃屋の「キムチの素」を塗りつけます。
(別に桃屋のまわし者ではありませんが、桃屋以外のキムチの素では味が今一つです)
それを密閉容器に重ねて入れて一晩ぐらい冷蔵庫に入れておきます。
たったこれだけです。
興味のある方は一度お試しあれ。

今日は「キムチの素」がきれたので、醤油とみりんを混ぜ合わせたものを使用してみました。
好みにあわせていろいろ試してみるのもいいと思います。


ひまわり

2011-08-08 21:36:30 | 日記
立秋とは言えうだるような暑さの中、小野市にある「ひまわりの丘公園」に行って来た。


50万本のヒマワリが一面にわたりほぼ満開であった(昨年は天候不順で開花が遅くお盆頃が見頃ということだったが)。
この風景を見ると必ず、映画「ひまわり」でソフィアローレンが夫を探してソ連のひまわり畑を悲しげに歩くシーンが、哀切なメロディーと共に浮かんでくる。
「自転車泥棒」「鉄道員」と同様に私の好きなイタリア映画の一つである。


高い所から眺めるとファインダー内すべてヒマワリだけ。


孫が写したひまわりの花、日本語よりも英語の「sun flower」のほうがピッタリくる姿だ。



ひまわり畑の北側にある「ひまわりの丘公園」には特産館他の売店があり新鮮な野菜をお手頃な値段で購入することができる。
その上の西洋風庭園がきれいに整備されている。


小さな子供達には遊具広場もあって家族連れで楽しめる。



気温は高いが風が気持ち良く、秋の到来が近いと感じさせる空である。


畑はいろんな虫の宝庫

2011-08-07 10:32:18 | 家庭菜園
無農薬・完全有機栽培の畑では今頃になるといろんな虫が現れてくる。
作物を食害してくれるにっくき害虫達や、それを餌とする益虫達。

真夏の作業で汗だくになり疲れた身体を縁側(子供のころはエンゲと言っていた記憶がある)で休めながら、食物連鎖を構成するこれらの虫達の動きを何もせずにじっと眺めていると、気分は完全に開放感あふれる夏休みの子供時代になってくる。
ラジオ体操が終わって9時頃までに「夏休みの友」を済ませると、後は網と昆虫採集セットを持って昆虫採集。

定番だった懐かしい昆虫採集セット(ネットより拝借)



イチジクの木にいたゴマダラカミキリ


足元にふいに現れたバッタ


ししとうの葉についていたセミの抜け殻


蟻の巣に引き込まれるダンゴ虫の死骸


何となくユーモラスなアゲハの幼虫(昨年10月撮影)

他に獅子唐の害虫・ホオズキカメムシやトカゲ、バッタ、マイマイカブリ、カマキリ、クモ、テントウムシ、テントウムシダマシ・・・他、名前も知らない虫達。
家庭菜園の悩みの種の害虫は退治するが、益虫は頼もしい友達に見えてくる。

昨日はスイカの跡を整理し除草を兼ねて耕しただけで、後は虫達を眺めながらのんびりと子供時代の気分に浸った一日でした。


夜は当地の夏祭りの花火見学。





今年は東北で作られた花火が打ち上げられた。




心の叫び?

2011-08-03 20:37:40 | 日記
一昨日は久しぶりの独身気分を楽しんだ一日だったが、その心を知ってか知らずか、妻が帰ってきて「一日何してたん?寂しかったやろ! 私が死んだら毎日が今日みたいになるんやで!」と押し付けがましく言う。

確かに俺一人では料理はできないし、要る物がどこにあるかもわからない。
でも俺がいなくなれば車にも乗れないし、自分で何でも修理ができない、TVの録画ができない、パソコンも使えなくなるんだぞ。
うーん、でもやっぱり相方がいなくなるほうが大変なのか・・・。

お互いに自分が先に死ぬと思っているが、平均寿命から考えても実年令から考えても間違いなく先に死ぬのは俺の方なんやで。
もっと俺を大事に取り扱ってくれと心の中で(心の中でしか言えないところに悲しいものがあるが)叫んでみる。


久しぶりの独身気分

2011-08-02 20:24:24 | 日記
昨日は妻が小4の孫を連れて、両親の面倒を見に実家へ行ってきた。
いつも大人だけの生活の両親にとっては、たまに小さな子供がいるだけで随分と癒しになるようだ。

子供も小4くらいになると自我が芽生えて幼い頃の無邪気さはだんだん影を潜めてくるが、大人の潤滑油の役目は十分に果たしてくれる。
そういう意味でもやはり「子供は宝」である。

たまに我が子が「親孝行をしない」と嘆く親がいても、全ての子供は「3才までにすでに親孝行を済ませているのだよ」とよく言われる。
幼児の疑うことなき親への信頼の瞳、何にも変えがたい無邪気な笑顔、仕草一つ一つが大人に与えてくれる微笑ましく暖かい気持ち・・・・。
子供は成長するに連れていろいろと心配の種を与えてくれるが、確かにあの頃が親子共に一番幸せを感じた時間であったと思う。

孫が近くに住んでいると、あの幸福感を2回も味わうことができる、これ以上の幸せはないのであろう。
その孫は夏休みの課題で大ジイジ、大バアバの絵を描くんだとバアバと二人で張り切って電車に乗って行った。

おかげでのんびりと独身気分を味わうことができる。
冷蔵庫に冷やしたスイカを好きな時に好きなだけ食べ、甘党なので好きな菓子も誰に遠慮することなく口に入れられる。
そして時間ができたら整理しようと思って溜めていた新聞や雑誌を切り抜いて整理をする。

妻が出産で帰省した時以来の、誰に気兼ねすることもない(普段誰に気兼ねしてるねん?)久しぶりの独身気分を満喫した一日だった。