夢中人

sura@cosmic_a

小傘

2008年12月11日 | 狂言
「小傘」

田舎者が村に草堂を建立したのだが、堂守がいないので街道に出て探していると、
僧と新発意(しんぼち・出家して間もない修行中の僧)がやって来たのですぐに連れて帰る。
しかしこの二人、実は博奕で食いつめた主従であった。
法事が始まると、僧は場賭場で聞き覚えた傘の小歌をお経のように唱えて参詣人たちをごまかし、
皆が法悦に浸っている内に新発意に施物を盗ませようとするのだが、なかなかうまくいかない。
そうしているうちに念仏は益々高揚していき・・・。
中世ののどかな様子がうかがい知れる曲です。
にわか坊主と新発意は、施物を盗むことができるのでしょうか。

パンフレットそのまま丸写しですが、そういうお話でした。
私、このお話を観て、「日本文化って。。。」というのを感じたんです。

この「小傘」を観るちょっと以前に「彦市ばなし」というのを観ました。
出演は、(彦市)野村萬斎・ (天狗の子)月崎晴夫・ (殿様)・石田幸雄 
という方々だったんです。
で、この「小傘」。他の方も出演されていたのですが、「彦市ばなし」の方々も
出ていらっしゃったんです。
なんていうか、役者さんに、あの「彦市ばなし」の印象はまったくないんですね。
当たり前なんだろうけど、まったく感じないんですよ。
お面という道具が使われていたにせよまったくなんです。
「彦市ばなし」で天狗の子を演じていた月崎晴夫さんは、この「小傘」では
法事に集まってきた人を演じられていました。
確かに「彦市ばなし」での子天狗役ではお面を付けられていたけど、
動きは子天狗だからして子供なんですよ。さらに天狗という精霊系だから、
それも入ってるわけで。
二本足でぴょんぴょんぴょんと飛んで立ち去っていったりするんですよ。
でも今回は普通の一般男性。あの時の印象はなにもなくなんです。
そしてまた、「彦市ばなし」で殿様役だった石田幸雄さんは、今回はなんと
「老婆」なんですよ。
石田さんは、結構体格がいいほうじゃないかなぁ。
それがあんなおばあちゃんになれちゃうんですよ。
おばあちゃん役ではお面を使われていたけど、どこからどうみてもおばあちゃんなんですよ。
黙っていればあれが男性だなんてわからないんじゃないかな。
解説の時に萬斎様が「小さく見える方法があるんですよ」と言われていたけど、
それにしてもって感じなんです。

その「小さく見える方法」というのは、よく萬斎様が言われている「型」というやつなのかな。
だとしたらその「型」ってすごくないです。いろんな技術も入っているんだろうけど
その役者さんに印象がつかないんでしょうね。
役者さんに印象が付かないということは、いろんな役がこなせるということかな。
現代の常識からしていうと、大体役者さんにはイメージが付いてますよね。
だからして、大体イメージ範囲内の役をこなされているような気がするんです。
(そうじゃない方ももちろんいらしゃいますよ。良い人から悪い人までこなされるか方もいらしゃいます。
でも、大体そうじゃないかな)
でも狂言ではイメージが付かない。。。ということは、役者さんがいろんな役がこなせる。。。
ということは、一つの曲で役者さんの配役が変わることで何通りもの見方ができるということなんですね。
「型」があって印象がつかないといっても、配役がかわることで何かは違うでしょうね。
それって、同じ曲でもフレッシュな気持ちで何度も観れるということでしょうね。
ムム~これって、なにか「合理的」じゃないです?私はここに「合理的」さを感じました。

この考えに繋がったのが「着物」。
なんだかね同じ考えじゃないかなぁと感じたんですよ。
だってですよ、着物は着物だけじゃなくて帯とかその他もろもろの付属品で着ちゃうわけなんですよ。
私はまったく着物は着ないんですけど、確か、付属品の変化によって着物の表情が変わると聞きました。
付属品によってその着物がいつまでもフレッシュに感じちゃうんですね。
まぁ、現代の洋服の着方でも女性のファッション雑誌を観れば「1ヶ月コーディネイト」の
コーナーも多く、決められた洋服の組み合わせで1ヶ月着まわしていきましょうと言ってますよね。
これも組み合わせによって、その洋服の印象が違ってみえてくるんですよ。
でも洋服には、あきちゃうんですよね。それはやっぱり流行があったりするからですよ。
つまり洋服には、着物のような「型」がないんですね。一応、ベーシックなものはあるんだけど、着方に「型」がない。
別の言い方をすれば、洋服の着方は無限に広がっているんですよ。
新しいデザインを見つけてそれが流行した。でもそれは終わっていくんです。
別の新しい何かが出てくるんです。
つまり現代の考え方は「使い棄て」なんですね。使っては棄て使っては棄て。
それはなぜかというと、その素材の印象が強いからでしょうね。
印象が強いって、もしかしたらその物にすでに「気」が吹き込まれているということかなぁ。。。
だとしたらすぐに飽きちゃいますよね。
だって、その物に「気」を吹き込むのは使い手であるべきなんですよ。
使い手がその物に「気」を吹き込み生かしていくんだと思う。

日本文化ってもしかしたら「素材」なのかなと思ってきています。
「素材」としての「型」があって、それに「気」を吹き込むのは使い手。
だからしていつまでもフレッシュ。合理的。
狂言もそうじゃないかな。狂言のお話に「気」を吹き込むのは「観客」なのかもね。
それぞれがそれぞれに「気」を吹き込めるんだ。
提供側の押し付けは少なく、提供される側の入り込む隙間があるということかな。
それはつまり、提供される側のイマジネーションを大切にしてきたのが日本文化なのかな。。。
。。。ちなみの日本はいったい何千年の歴史があるの?
そういえば先日、奈良県橿原市で土偶が発見されたというニュースをみたなぁ。
その土偶は縄文時代晩期のもので約3000年前のものだとあった。
。。。3000年前。。。
晩期で3000年前なんだからその前があるというこなんですね。
日本の歴史って長っ!
そんな歴史のある日本。
みんなで「素材」を大事にして今の日本を創り上げてきたのかなぁ。。。
コメント
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