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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

テレビゲームとは何か

2011-01-04 00:59:11 | 思索
ザッツ、エンターテインメント。
人はエンターテインメントを好む。それは、おもしろい、楽しい、心地よい、からであろう。わくわくする、興奮する、これも心地よさに通じるものとして、エンターテインメントが人に提供するものである。エンターテインメントとは具体的に何か。これは人が趣味とするもの、余暇に行うものすべてであり、非常に多種多様である。一般的なものを幾つか上げると、音楽、映画、小説、スポーツ等、細かく数えると切がない。本稿の主題であるテレビゲーム、これも近年、若者を中心に圧倒的支持を得ている堂々たるエンターテインメントである。古来より脈々と続くエンターテインメントの中でも、いま特にテレビゲームに注目するのは、これは古来よりではなく、近年突然に現れて急激に進化、普及し、圧倒的にエンターテインメントの世界を席巻したという現実への戸惑いがひとつにはある。この現実の有様を見ると、テレビゲームはもしかしたら遊びを好む人の本能、特に若年層の本能にアピールする最強のエンターテインメントなのかも知れないとも思えてくる。

しかしテレビゲームが登場した当初から、また全世界に広まった現在においてはなお、テレビゲームのある種の有害性について言及する声が少なくない。しかしそれは論理に基づくものというより、多くが感性に反応する類のものとしてである。実際、テレビゲームが何故悪いのか?という問いに対する明確な回答は今のところないだろう。少なからぬ遊びに存在する中毒性についてはテレビゲームも当てはまるように直感するが、テレビゲームを良からぬものとする見方は、特に中毒性を強調するものではない。もっとほかに、もっと本質的で重大なものがあるように感じられる。それはいったい何なのか。無心にゲームに興じる子供を見て、言うにいえぬ親の怖れはどこから来るのか。

テレビゲームを取り巻く周囲の客観的事実から押さえていこう。ゲーム好きの子供たちは非常に多くの時間をゲームに費やしている。もしゲームをしていないなら、その時間をほかの事に割り当てることになる。これが大人であれば、時間があるなら好きなことをすればよいと多くの人は納得するだろう。しかし、成長過程の子供にとっては不可欠な必要な時間が他にあるのではないだろうか、テレビゲームはその時間を阻害しているのではないだろうか、という感覚が漠然とあるものと思われる。少なくとも私自身にはある。

ある程度の年齢を経た大人の多くは、それぞれに「一人前の大人」についての観念、あるいは理想像を持っている。それは細部に個人差はあっても、多くの部分でオーバーラップするはずだ。子供がその一人前の大人に成長するためには、成長の過程においてどのようなものを吸収しなければならないのか。これについては人それぞれに、名作と言われる本をたくさん読むとか、武芸をたしなむとか、多くの自然に触れるとか、色々それらしきことを思いつくだろうが、はたしてそれが不可欠なものかどうかの断定は難しい。

次に、個々のエンターテインメントの奥深さについて考える。一例として映画を上げたが、すべての映画をエンターテインメントと定めるのは妥当ではない。「スターウォーズ」や「マトリックス」はエンターテインメントの代表的傑作であるが、「ディーパ」や「ピアノレッスン」は、これも共に名作ではあるが、これらをエンターテインメントと呼ぶのはふさわしくないだろう。

つまり、奥深さに大きな幅があるのである。小説も同様だが、例えて言えば流行小説と純文学と言われるものはやはり別物だろう。最近ではライトノベル(ex.アニメ感覚の読み物)というジャンルが現れ若者たちの間で流行しているが、これはエンターテインメントの意味を端的に説明していると思う。

さて、ここまできて少し自分なりの答えが見えてきたような気がする。人の理想像の一端を担うものとして、広い視野と深い洞察と豊かな感性が求められるであろう。これは世の有様やメカニズムをより正しく理解するためには欠くことができない。これらはどのようにして培われるのか。これはたぶん、リアルである現実に密接する表層部分と、人の心の奥深くにある深層部分との、生き生きとした還流によって形成され保たれるのではないだろうか。知覚された表層部の現象は、少しの時間を掛けて深層部で咀しゃくされなければならない。この還流はバランスを保って繰り返されることが好ましい。

テレビゲームは視覚に基づいて愉快や楽しさを提供するその属性として、表層部分に集中せざるを得ない。思考よりも感覚や本能にアプローチする。そしてそれはリアルである現実と、それを解釈する心との間に割って入りリアルとの接触を遮断する。表層部に展開するというこの特性故に、ゲームはしばしば疑似リアルと呼ばれるのであろう。この点については、エンターテインメントである映画や小説も近接する。

テレビゲームの麻薬的心地よさは、人を熱中させ長時間プレーヤを拘束する。そして麻薬的中毒性を持つ。人と外界との接点にあるべきものはクリエイトされた世界より、現実世界の割合が多い方が好ましいことは間違いないだろう。このバランスの問題において、エンターテインメントすべてを否定するものではない。人にとっての他の存在とは、人が必要としている対象である、と言い換えることができよう。

たまたまテレビで観たXBOXのCMには驚愕した。産まれ出た赤ん坊がビューンと空を飛んで行き、飛行しながら急速に成長して、最後には老人となり墓場の中に着地する。ここでキャッチコピー。「人生は短い。だから遊ぼう!」

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政治主導とは?

2011-01-04 00:07:38 | 思索
日本国の属性に限定して考えると、国家権力を有し、国民を支配する者は官僚である。政権交代時の民主党は、この官僚の権力を解体し、国民を主権者とすることを目指したが、官僚の成り振り構わぬ反撃に遭い、10ヶ月と持たず、前政権にも勝る官僚の傀儡政権へと変質した。

そもそも、一般国民は適度な暮らしと、適度な自由が得られていれば、政治などに関心はない。自分もまた、できれば政治のことなど考えたくもない。平均的暮らしをしつつ、政治に関心を持つ国民はよほどの物好きなのだ。

しかも、国民から吸い上げて得た官僚の収入が国民平均の10倍以上であると知ってもなお、多くの国民は不平を言わない。というより、やはり政治に関心がない。驚くべきことは、生活に困窮する者、明日の生活をも知れぬ者が、とりわけ政治に無関心であり、むしろ自らを卑下する傾向にあることだ。

これに対し、政治に非常に関心を持ち、中には積極的に政治に加わろうとする国民層がある。富裕層である。もちろん官僚もこれに含まれる。彼らは自らの富める暮らしや財を更に肥やすために、権力を増強し、平民や貧乏人から吸い上げる方法を考えることに余念がない。このような国民全体の意識構造に基づき、現在の官僚支配は、あるべくして在る。

小沢一郎が報われないのは、いくら官僚支配を解体して、国民主権を実現しようと努力しようとも、この国民全体の意識構造故に支持する者の絶対数が少な過ぎることだ。小沢一郎がもし神のような力を持つのであれば、政治に関心を持たない大多数の国民は、早晩、権力に対して怒りを持ち始めるだろう。さもなくば、小沢一郎の夢は夢に終わる。

「小沢一郎の夢」
私には夢があります。役所が企画した、まるで金太郎あめのような町ではなく、地域の特色にあった町作りの中で、お年寄りも小さな子供たちも近所の人も、お互いがきずなで結ばれて助け合う社会。青空や広い海、野山に囲まれた田園と大勢の人たちが集う都市が調和を保ち、どこでも一家だんらんの姿が見られる日本。その一方で個人個人が自らの意見を持ち、諸外国とも堂々と渡り合う自立した国家日本。そのような日本に作り直したいというのが、私の夢であります。
(2010年9月 民主党代表選 投票前演説より)

小沢一郎街頭演説2010/9/4新宿駅西口
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