つれづれ日記

チェリスト秋津のつれづれな日記です。

バッハに思いをはせる

2013年03月06日 09時00分00秒 | コンサート
今週末の3/9のコンサートは、ただのコンサートではなく、「震災のことを忘れないで!」というメッセージを込めたバッハ無伴奏組曲の演奏になる。

選んだのは組曲第5番。
そもそも原発事故からの逃避行を手記に残した浪江町のお婆ちゃんのことをラジオドラマにする構想の中で僕のチェロを弾いてくれませんか? ということから始まったのです。

元のドラマの部分を聞いて、すぐに「バッハの無伴奏組曲が使える!」と思った。
特に第5番のプレリュードやアルマンド等は、今までに演奏した時のイメージのものと、今回のような悲惨な状況を目の当たりにした時のイメージとがピッタリときた。

これまでに、自分の中のある思いを語る時「バッハの音楽を借りて自分の心を語る」というフレーズを使ったが(自称)、今回このラジオドラマコンサートの練習をしていた時、ふと思った。

バッハの音楽を借りて語るのではなく、自分が語ったもの=そのものが無伴奏の音楽ということ。

バロック時代の演奏スタイルやバッハに関する常識的解釈等について理解を出来たとして、楽器を持って楽譜を見ても、なかなかすぐに様にならないことは、自分の経験からも解っていることで、聴衆のかたが演奏に聞き入って聴いて下さる形になるまでの道のりは簡単ではないのがバッハかも知れない。

でも、このところ、特定のイメージを持って組曲第5番の練習をしていると、ある状況下の人間の感情の中にある「不幸」「苦悩」「悲しみ」「葛藤」などの表現=音楽の可能性を追い求めているバッハと自分が一体化しているような気がしてしまうのです。

その音楽は、和音を音階がリードし、リズムが感情の高ぶりを示すようなところがある。和音も、ドミナントとトニックの関係=カデンツ(終始のかたち)をどのように捉えるか=解決なのか、勝利なのか、成就なのか。それは強引に持って行ったのか、それとも自然に解決したのか。等々、話は尽きなくなる。

続きはまた。




バッハに思いをはせる(その2)

2013年03月06日 05時35分53秒 | コンサート
そういえば想い出すことがある。

大学2年の時に受けたチェロコンクールの課題曲が、この組曲第5番のプレリュードだった。当時19歳の若さで、この難曲に向かわなくてはいけなかった。

巨匠の演奏もいろいろ聴き、ピアノで何度もアナリーゼしてみたが解からない。

その「解からない」とは、随所に出てくるカデンツ(終止形)の解決の形が、なぜか予想通りの解決をしないこと=意味不明=算数的発想しかないため、何とか理解しようとするも、1+1=2以外の答えに対しての何故?に答えを見出すことが出来ないことに悩みました。

このことは何を意味するのかというと、人生経験の乏しさからくるところであって、何ら不思議はないのです。いわゆる定石通りに運びたい、順風に乗って行きたくてもそうはならないことのほうが、むしろ多いかもしれませんよね。

まだまだ続きを書きたいのですが、タイムアップです

今日のコンサート、この新たな試みを是非聴きににいらして下さい。
 

ではでは