神戸市中央区の北野・工房のまちが本日(12月28日)で閉館されます。
リニューアルによる閉館に先立ち12月26日に写真を撮ってきましたのでその一部を紹介します。
「北野工房のまち」は廃校になった旧北野小学校を活用して1998年に誕生した体験型観光スポットです。
2023年に25周年を迎えています。
リニューアル工事は令和6年(2024)2月から同年9月の予定。
北野工房のまちの運営会社は2024年2月からは株式会社ジーライオン 代表取締役 菊地秀武
(神戸市中央区新港町11番1号 GLION Awa-s BuildinG 9階)に変わります。
契約内容は定期建物賃貸借契約及び土地賃貸借(15年) 賃料月額:105万円
契約内容は定期建物賃貸借契約及び土地賃貸借(15年) 賃料月額:105万円
リニュアル後の計画は
1階
・神戸の地元食材を使ったオリジナルスイーツの開発・販売(スイーツショップ)
・日本酒などの神戸特産品を集めた地場産品ショップ
・神戸のスイーツ史と神戸紅茶の歴史が学べる展示
・カフェ
・日本酒などの神戸特産品を集めた地場産品ショップ
・神戸のスイーツ史と神戸紅茶の歴史が学べる展示
・カフェ
2階
・神戸が世界に誇る食材(肉、野菜、酒など)を使ったレストラン
3階
・貸室(イベント会場)
・地域活動スペース
・地域活動スペース
さらに詳細については下記サイトで確認できます。
現在までの北野工房のまちの基本情報
住所:神戸市中央区中山手通3丁目17番地1号 TEL:078-221-6868
営業時間:10:00~18:00 入館料:無料
休館日:不定休・年末年始
所在地のGoogleマップを添付しておきます。
前置きが長くなりましたが早速、写真紹介に移ります。
上の2枚の写真は「北野工房のまち」の建物外観
上の2枚の写真は1階と2階の工房案内
上の写真は「北野工房のまち」のリーフレットで紹介された工房案内
上の写真は1階から3階の平面図(避難経路の説明図)
1階校長室の展示
上の写真は1階の校長室の入口
上の写真は神戸市立北野小学校資料室の説明パネル
神戸出身の滝川クリステルさんは北野小学校に学んでいます。
滝川クリステルさんについては下記ブログで綴っています。
「水木しげる」さんも北野小学校で学んでいます。(下の写真)
上の2枚の写真は展示遠景
上の写真は北野小学校の閉校(平成8年(1996)3月25日)関連展示
上の写真は大正時代の北野小学校木造旧校舎
玄関
上の写真は玄関の遠景 北野小学校時代のなつかしの思い出の写真が掲示
廊下の遠景
上の写真は1階の廊下の遠景
上の写真は2階廊下の遠景
階段と手摺及びシャンデリア
ステンドグラス
二宮金次郎像
洋服の仕立
灘の酒蔵通り
靴
神戸の長く歩ける靴 アシオト(Asioto)
西洋家具
永田良介商店のブース
マッチ
上の写真はマッチ棒のブース
上の3枚の写真はマッチに関する説明パネル
上の写真は神戸開港150年記念の燐寸
明治時代中期の日本の輸出品の中で燐寸は重要な位置を占めていました。
輸出先の最大市場は中国であった。
麦少彭と呉錦堂はマッチ王の滝川辨三・滝川儀作親子とタッグを組み中国への
輸出を拡大させていきました。当時、マッチ生産高の80%が中国、インド、
ペルシャ向け輸出で、スウェーデン、アメリカ、日本が三大マッチ生産国であった。
下の文章は小生の下記ブログから再掲載したものです。
マッチは文政10年(1827)イギリスの薬剤師J.ウォーカーが摩擦マッチ、ウォーカーマッチ
(Friction Lights )を発明し、販売したのが始まりで、その後1855年スウェーデンの
イェンシェピング社のJ.E.ルンドストレームが安全性を改良した「安全マッチ」を発明
特許も取得し普及していった。
日本ではマッチは明治の初め早附木(はやつけぎ)とか摺附木(すりつけぎ)と呼ばれ
最大の輸入品であった。
国産のマッチ製造に貢献したのは燐寸の開祖、清水 誠(まこと)(1845-1899)です。
彼は明治8年(1875)東京霞ヶ関の吉井友実卿私邸において黄りんマッチの試作に成功
その後改良を加え明治9年(1876)4月に東京三田四国町に「新燧社(しんすいしゃ)」を
設立、同年9月に東京本所柳原町に移転し、安全マッチの本格的製造を開始した。
(Friction Lights )を発明し、販売したのが始まりで、その後1855年スウェーデンの
イェンシェピング社のJ.E.ルンドストレームが安全性を改良した「安全マッチ」を発明
特許も取得し普及していった。
日本ではマッチは明治の初め早附木(はやつけぎ)とか摺附木(すりつけぎ)と呼ばれ
最大の輸入品であった。
国産のマッチ製造に貢献したのは燐寸の開祖、清水 誠(まこと)(1845-1899)です。
彼は明治8年(1875)東京霞ヶ関の吉井友実卿私邸において黄りんマッチの試作に成功
その後改良を加え明治9年(1876)4月に東京三田四国町に「新燧社(しんすいしゃ)」を
設立、同年9月に東京本所柳原町に移転し、安全マッチの本格的製造を開始した。
神戸では明治10年(1877)神戸監獄使役場での生産が初めてと言われている。
その後荒田町、湊町、琴ノ緒町、大開町などで民間のマッチ生産が行われました。
明治12年(1879)本田義知が明治社、明治13年(1880)滝川辨三が清燧社を設立
操業を始めた。明治18年(1885)播磨幸七が鳴行社を、明治20年(1887)には
直木政之助が奨拡社。滝川辨三の養子の瀧川(梶岡)儀作は良燧社を設立した。
直木政之介は燐寸輸出の覇者として知られています。
これらの人物の内、滝川辨三は「日本のマッチ王」と呼ばれている。彼は燐寸工場を合併して
大同マッチを設立、一時期1社でシェア70%を占めるまで成長させた。
最盛期の大正8年(1919)には神戸のマッチ生産額シェアは80%を占めていた。
また、同年の輸出においては神戸港が全国の79%を占めていた。
昭和に入ってからは生産地の中心地が姫路、淡路などに移るようになって神戸における
マッチ生産量シェアも減少しています。
その後荒田町、湊町、琴ノ緒町、大開町などで民間のマッチ生産が行われました。
明治12年(1879)本田義知が明治社、明治13年(1880)滝川辨三が清燧社を設立
操業を始めた。明治18年(1885)播磨幸七が鳴行社を、明治20年(1887)には
直木政之助が奨拡社。滝川辨三の養子の瀧川(梶岡)儀作は良燧社を設立した。
直木政之介は燐寸輸出の覇者として知られています。
これらの人物の内、滝川辨三は「日本のマッチ王」と呼ばれている。彼は燐寸工場を合併して
大同マッチを設立、一時期1社でシェア70%を占めるまで成長させた。
最盛期の大正8年(1919)には神戸のマッチ生産額シェアは80%を占めていた。
また、同年の輸出においては神戸港が全国の79%を占めていた。
昭和に入ってからは生産地の中心地が姫路、淡路などに移るようになって神戸における
マッチ生産量シェアも減少しています。
神戸牛
神戸北野 旭屋精肉店
神戸佃煮
上の写真は大黒屋のブース
南京町中華
上の写真は南京町 皇蘭のブース
チョコレート
上の写真は神戸フランツのブース
真珠
上の写真はパールA&Sのブース
帽子
上の写真は帽子工房 イフティアートのブース
オリーブ
北野工房のまちの駐車場の片隅に「神戸オリーブ園」説明パネルがあります
神戸オリーブ園に関する詳細は下記ブログで書いています。
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