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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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岡崎城跡の岡崎公園 散策記 on 2025-3-11 その7 本多平八郎忠勝公銅像

2025年04月17日 05時24分13秒 | 愛知県
2025年3月11日、岡崎城跡の岡崎公園を散策してきました。
見所が沢山あるのでシリーズとして書いていきます。
本日はその第7回として本多平八郎忠勝公銅像をお届けします。

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上の写真が本多平八郎忠勝公の銅像です。
名槍「蜻蛉切」を携えています。
本多忠勝(1548-1610)は酒井忠次 、榊原康政 、井伊直政 と共に「徳川四天王」の一人。
徳川家康に過ぎたるもの「天下無双の勇士」と称賛された武将である。
「蜻蛉切」の名槍を操り、生涯57回の出陣で傷ひとつ負わなかった。

天正18年(1590年)、家康の関東移封の際に、忠勝に上総国大多喜5万石が与えられ、
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦功で、翌慶長6年(1601年)1月、忠勝に
伊勢国桑名藩10万石が与えられ、忠勝の長男本多忠政の代に姫路藩15万石を領した。
本多忠孝の代に越後国村上藩に転封されたが、宝永6年(1709年)に幼少で急死し、
無嗣改易となるところ、忠勝の功により3分の1に所領を減らした5万石で
忠良への家名存続が許された。その後も転封が繰り返されたが、1769年以降は
三河国岡崎藩で固定され廃藩置県を迎えた(→岡崎本多子爵家)。
他にも複数の分家が存在した。


上の写真は本丸にあった映世神社の名残。
映世神社は本多忠勝公を祭神とする神社で明和3年(1766)岡崎藩主本多忠粛が創設。


本多忠勝は1560年、12歳で初陣、1601年領地替えで江戸から遠ざけられる。
1610年、62歳で死去。
墓所は 浄土寺(三重県桑名市)、圓教寺(兵庫県姫路市)、良玄寺(千葉県夷隅郡大多喜町)
上の写真は圓教寺(姫路市)にある本多家の墓所です。
中央部が本多忠勝公の廟屋です。戒名は西岸院殿長誉良信大居士。
慶長15年(1610)10月18日 享年63歳。
その左手には、廟屋に入っていないが、本多忠刻公(本多忠政の長男で千姫の婿殿
である)と忠刻公と千姫長男 幸千代君(享年 3歳)の五輪塔があります。
本多忠刻公の戒名は 円泰院殿黄山蒼雄大居士。 寛永3年(1626)5月7日 享年31歳。
忠刻の伴には宮本三木之助=宮本武蔵の養子、宮田角兵衛(三木之助の伴)、
岩原牛之助(忠刻の伴)の切腹殉死者の墓碑がある。

上の写真は本多忠勝の息子の本多忠政を中心とした系図です。
本多忠勝ー忠政の子孫としてWukipediaでは次のように解説しています。
水戸藩主徳川斉昭、15代将軍徳川慶喜らは忠政の末裔に当たり、経済学者の三木谷良一や、その次男である楽天グループ創業者の三木谷浩史も子孫にあたる(それぞれ本多忠明の曾孫、玄孫)

本多忠明についてWikipediaでは次のように解説しています。
本多 忠明(ほんだ ただあき)は、播磨国山崎藩第9代(最後)の藩主。官位は従五位下、正四位、肥前守。政信系本多家10代。
第8代藩主・本多忠鄰の次男として誕生(1833年)。幼名は鑑三郎。
明治2年(1869年)正月晦日、父の隠居で家督を継ぐ。同年の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。同年9月、東京に移った。1876年(明治9年)11月13日に隠居し、家督は弟の忠禎が継承した。明治34年(1901年)12月17日、69歳で死去した。法号は実想院殿真誉義山大居士。墓所は兵庫県宍粟市山崎町上寺の大雲寺


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