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北野ホテル前の「国営神戸阿利襪園跡」説明パネルと北野工房のまち「神戸オリーブ園」説明パネル on 2018-3-6

2018年03月12日 15時42分53秒 | 神戸情報
2018年3月6日、北野ホテル前の「国営神戸阿利襪園跡」説明パネルと
北野工房のまち「神戸オリーブ園」説明パネルの写真を撮ってきましたので
関連写真と共に紹介します。


北野ホテル前の「国営神戸阿利襪園跡」説明パネル



上の2枚の写真は北野ホテル前の「国営神戸阿利襪園跡」説明パネルです。
説明パネルはインターナショナルオリーブアカデミー神戸が中心となって
2015年6月2日にかって「国営神戸阿利襪園」があったこの地に設置されました。

明治12年(1879)、パリ万国博覧会にて、事務官長の前田正名がフランスのヴィルモラン
商会よりオリーブの苗木2000本を導入しました。
神戸山本通に歓農局三田育種場神戸支園(約1町歩)を設け、オリーブ550本を植えました。
他に1,000本は和歌山県田辺市、他の地にも残りの内規が試植されました。
この時、三田育種場神戸支園にはユーカリの木とゴムの木も植栽。
福羽逸人(ふくばはやと)の尽力でオリーブは実り、明治15年(1882)搾油に成功しました。
明治17年(1884)神戸阿利襪園と改称して、オリーブ園を拡張しましたが、西南戦争の
戦費によりインフレで明治21年(1888)に前田正名に払下げられて閉園して宅地になった。
前田正名は明治19年より2年間、この地に家族と共に住んでいます。
同年、前田正名は山梨県知事に任用されその送別会が行われたことが湊川神社の宮司
折田年秀の日記に記載されています。
明治22年(1889)にはオリーブの苗木の販売があったと記録されています。
山本通りのオリーブ園はその後、九州へ移転が計画されたが実現せず、オリーブ樹を
林山の苗木場に移し、土地は川崎正蔵に売却されました。
明治37年(1904)日露戦争後、北方の漁獲による缶詰生産が奨励され需要が高まり
明治38年(1905)神戸農会は農商務省の勧めにより林山苗木場に残っていた100本余
のオリーブ樹を管理しオリーブ園の再興を計ります。しかし市街地の発展で農地が
減少すると、農会組織も存続が困難となり明治41年(1908)に事業は中止となりました。
神戸でのオリーブ事業中止を受けて農商務省は米国からオリーブ苗木を導入し鹿児島、
香川、三重の3県に試作を依頼しました。このうち栽培に成功したのが香川県の小豆島で
以来100年いじょうとなります。大正3年(1914)福羽逸人は宮内省のトップ大膳頭に就任
小豆島にもオリーブ油搾油の技術を伝達しています。
福羽逸人は武庫離宮の庭園の設計もしています。
福羽逸人の略歴と武庫離宮(現在の須磨離宮公園)の庭園に関する資料を下に
添付しておきます。(須磨離宮公園の説明パネル 下の4枚の写真 2014-11-17撮影)









神戸オリーブ園の苗木から移植されたオリーブの木は兵庫県加古川市の宝蔵寺と
神戸市の湊川神社に今でも1本ずつ残っています。
明治19年(1886)頃、多木化学の創業者多木久米次郎が苗木として譲り受け
菩提寺の宝蔵寺に植えられました。約130年の樹齢を誇り日本最古のオリーブの木
とされています。

前田正名についてWikipediaより引用紹介します。

前田 正名(まえだ まさな、嘉永3年3月12日(1850年4月23日) -
大正10年(1921年)8月11日)は、明治の官僚。男爵。
北海道阿寒町(現在の釧路市阿寒町)に財団法人前田一歩園の基を設立し、
阿寒湖畔3,859ha、富士朝霧高原300ha、宮崎200haを明治政府から払い下げを受け
植林事業を行うほか保護を図るほかに、木材の原料を活かして釧路市に北海道最初の
製紙パルプ工場を誘致設置するなど、自然保全と日本の殖産に貢献した。
父は薩摩藩医前田善安の6男。兄に前田正穀(献吉)がいる。明治期における殖産興業政策の
実践者としてしられ、「布衣の農相」とも呼ばれた。
妻は大久保利通の姪・いち(利通の妹・石原みねの次女)。
次男の正次の妻の前田光子は、元宝塚歌劇団の文屋秀子(ふみや ひでこ、17期生)。
後に「阿寒の母」と呼ばれた。


略歴

鹿児島に生まれる。内務省勧農局に出仕し、1869年(明治2年)には
在フランス総領事モンブラン伯爵に随行してパリへ留学。
しばらくは総領事館となったモンブラン邸に寄宿した。1876年(明治9年)に帰国し、
内務省御用掛、翌年には三田育種場を開設。1878年(明治11年)にはパリ万国博覧会事務館長、
1881年(明治14年)大蔵省・農商務省の大書記官になって理事官に進む。
在職中に国内産業の実情を調査して、殖産興業のために報告書を作り、
「興業意見」全30巻とまとめて提出。明治21年6月、山崎直胤の後任で山梨県知事として赴任。
在職期間が短いため目立った政策は見られないが、栗原信近らと殖産興業を推進し、
道路整備や河川改修、甲州葡萄の普及などを行っている(後任は中島錫胤)。
翌1889年(明治22年)10月には農商務省農務局長と東京農林学校長を兼任し、
1890年(明治23年)農商務次官となるが、農商務相陸奥宗光と対立して下野。
同年9月に貴族院勅選議員。その後、元老院議官を務め、五二会など興した。
1898年(明治31年)宮崎県の開田事業とともに、北海道・釧路で最初のパルプメーカー
前田製紙合資会社を設立。1904年(明治37年)8月22日に二度目の貴族院勅選議員となる。
1907年(明治40年)阿寒湖畔に居を構え、同年、武富善吉とともに釧路銀行を設立、
北海道東部の開発に貢献した。死の同日、男爵を授けられた。


前田正名の系図はこちら
 http://episode.kingendaikeizu.net/48.htm

前田正名に関する本
 (神戸市立図書館蔵)
 https://www.lib.city.kobe.jp/opac/opacs/find_detailbook?kobeid=CT%3A0301043194&mode=one_line&pvolid=PV%3A0006010716&type=PvolBook


北野工房のまち「神戸オリーブ園」説明パネル






上の3枚の写真は北野工房のまちにある「神戸オリーブ園」説明パネル

神戸オリーブ園のQ&Aの説明パネルは下記のサイト
  (インターナショナルオリーブアカデミー神戸)で見れます。
 http://www.olive-academy.jp/history10.html


日本最古のオリーブの木 in 湊川神社










上の5枚の写真は湊川神社の日本最古のオリーブの木と現地説明板(撮影:2017-10-14)
現在、オリーブアナアキ ゾームシの虫害で治療処理中です。

ふたば学舎での神戸オリーブ園の説明パネル

上の写真はふたば学舎での神戸オリーブ園の説明パネル(撮影:2017-12-17)

インフィオラータ北野坂での神戸オリーブ園の説明パネル

上の写真はインフィオラータ北野坂での神戸オリーブ園の説明パネル(撮影:2017-5-3)

神戸オリーブ園のあった場所


上の写真は明治13年(1880)旧居留地13番館からパノラマ写真作成のために
撮影された8枚の写真の1枚です。
出典:神戸オリーブissue Vol3 page10(2017年10月)
   原典は長崎大学附属図書館蔵






上の3枚の写真は北野工房のまちの説明パネルより
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