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チャイコフスキーの墓と葬儀の模様 in アレキサンドルネフスキー墓地

2021年09月14日 04時57分18秒 | バーチャル探訪

2021年9月13日、NHK BSプレミアム プレミアムカフェ 選 「サンクトペテルブルク

音楽の都300年の物語」を視聴しました。

この中で表題の「チャイコフスキーの墓 in アレキサンドルネフスキー墓地」が

紹介されていました。番組の映像を利用してチャイコフスキーの墓を紹介します。

上の3枚の写真がアレキサンドルネフスキー墓地内のチャイコフスキーの墓

墓の綺麗な写真は下記サイトで見ることができます。

  Category:Pyotr Ilyich Tchaikovsky grave - Wikimedia Commons

Pyotr Ilyich Tchaikovsky(ローマ字表記:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー)

          (露語表記: Пётр Ильич Чайковский)

チャイコフスキーは1840年5月7日、ウラル地方ヴォトキンスクで、鉱山技師(工場長)

イリヤ・ペトローヴィチ・チャイコフスキーの次男として生まれた。

死去:1893年11月6日(53歳)サンクトペテルブルクにて死去

死の直前の状況と葬儀についてWikipedia(チャイコフスキーの死)より引用紹介します。

1893年11月6日、サンクトペテルブルクでチャイコフスキーが53歳で亡くなった。交響曲第6番の初演から9日後の出来事だった。死因には諸説あるが、一般にはコレラ、並びに併発した肺水腫が原因だとされている。チャイコフスキーの死の直後にも死因に対して様々な議論があった。

コレラの発病の原因として、チャイコフスキーが周りの反対を聞かず生水を飲んだことが理由とされている。当時のロシアにはコレラが流行しており社会に多大な影響を与えていたが、それは主に衛生設備に恵まれない下層階級の人々の病気と考えられており、様々な噂を呼んだ。治療を担当した医師のカルテの正確性も疑問視されていた。後述するように、チャイコフスキーが同性愛者だったことも様々な噂を呼ぶ原因となった。チャイコフスキーは1894年の予定を決めていたことや、自殺説には決定的な証拠がないことから、現在ではコレラで死亡したという説が一般的である。


死の当日、皇帝アレクサンドル3世がカザン大聖堂での国葬と5000ルーブルの支出を決定。11月7日(ユリウス暦10月26日)には交響曲第6番がエドゥアルド・ナープラヴニークの指揮によって再演され、大きな反響を呼んだ。

葬儀は11月9日(ユリウス暦10月28日)に行われた。六頭立ての馬車に棺が乗せられ、最初にマリインスキー劇場へ運ばれた。その葬列は聖職者、遺族、各界代表者、法律学校の学生など長いものだった。道の両側には見送るファンなどの群衆が1万人にも達していた。葬列はマリインスキー劇場を引き返しカザン大聖堂に到着し、ここで葬儀が行われた。大聖堂には本来の収容人数を超えて、8000人以上の人々が参列した。そのなかには外国外交官や報道陣、そしてたくさんのファンがいた[5]。葬儀は2日かけて行われ、それが終わるとチャイコフスキーの生前の希望で、アレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフビン墓地に葬られた

上の写真はアレキサンドルネフスキー墓地 通称チフヴィン(Tikhvin)墓地

 

上の写真はチャイコフスキーの葬儀の模様 1893年11月9日-10日に実施

次にGoogleストリートビューでアレキサンドルネフスキー墓地の場所を確認しました。

住所はPloshchad’ Aleksandra Nevskogo, 1Б, Sankt-Peterburg

上の写真の右手がチフヴィン(Tikhvin)墓地、左手がラザレフ墓地、正面の奥は

アレクサンドルネフスキー修道院

上の写真はアレクサンドルネフスキー修道院

実際に行かれた方の詳しい訪問記にリンクさせていただきます。

 チャイコフスキーが眠る【チフヴィン墓地】と【ラザレフ墓地】サンクトペテルブルク (pianotohikouki.com)

 

番組ではチャイコフスキー以外に5人組と言われた作曲家の墓についても紹介されていました。

上の写真はバラキレフ(Mily Alekseyevich Balakirev, 1837年1月2日 - 1910年5月29日)の墓

上の写真はボロディン(Alexander Porfiryevich Borodin,1833年11月12日 - 1887年2月27日)の墓

上の写真はリムスキーコルサコフ(Nikolai Rimsky-Korsakov 1844~1908)の墓

上の写真はムソルグスキー(Modest Mussorgsky 1839~1881)の墓

 

5人組のもう1人グリンカ(Mikhail Glinka 1804~1857)の墓も番組で紹介されていましたが

写真を撮れませんでした。

写真を確認したい方は上記のサイトで確認してください。

 

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