CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

最初の日系ハワイ移民とヴァン・リード

2021年09月10日 03時30分30秒 | Weblog

日本最初の集団での海外移民は、慶応4年4月25日(新暦換算1868年5月17日)に

イギリス帆船「サイオト号(Scioto)」で5人の女性、2人の子供を含む日本人153名を

横浜港から無許可でハワイに移住させたのがはじまりである。

このハワイへの移民は、後に「元年者」と呼ばれる最初の日系ハワイ移民となった。

主にサトウキビ畑の農業従事者を必要としたハワイ王国(1898年にアメリカに併合)の

求めに応じて奔走し実現させたのは横浜駐在のハワイ駐日総領事ヴァン・リード(1835-1873)

(Eugene M. Van Reed)であった。

ヴァン・リードは移住民局を設置し、幕府から渡航許可を得て、ハワイ移民を募集した。

幕府の瓦解で、渡航許可は宙に浮いたが日本人の集団移住を敢行した。

このことで明治政府と未条約国のハワイ王国との間で国際紛争となり翌明治2年(1869)

に日本から使節が派遣されて43人が帰国し、残った移民者は後に「元年者(がんねんもの)」

と呼ばれるようになりました。

移民者が帰国に至ったのは農場に入った後、不慣れな気候の下での過酷な労働と、物価高

による生活の困窮に苦しんだことで、明治2年(1869)12月に移民元締の牧野富三郎らが

明治の日本政府に救出を求める嘆願書を寄せたことによる。

ハワイ移民者は主に京浜地区で集められた人達で、職人が中心であったが農民や武士も含まれていた。

 

ヴァン・リードは日本における新聞の父として知られるジョセフ・ヒコの親友で

1859年に香港からミシシッピ号でジョセフ・ヒコやアメリカ公使のタウゼント・ハリス

らと共に神奈川のアメリカ領事館に書記官として着任しています。

上の写真はヴァン・リードの正面写真。

彼は榎本武揚に亡命の話をもちかけたことでも知られています。

神奈川のアメリカ領事館に初めてジョセフ・ヒコ、ハリス、ヴァン・リードが到着した時の

様子をジョセフ・ヒコは自伝で次のよう綴っています。

ジョセフ・ヒコの日誌(アメリカ彦蔵自伝 東洋文庫)に下記のように綴られている。

「1859年7月4日。この日は、いよいよ上陸して、わが公館を収め、正式に貿易港を開くと
決められた日である。夜は快晴に明けそめた。早朝、湾内に林立するすべてのマストに、
にぎにぎしく旗が掲げられていた。十時ごろ、われわれは神奈川側に上陸し、本覺寺まで歩いていった。
寺の墓地に大木があったので、そのてっぺんに枝に棒を結び付けて旗竿にした。正午少し前にアメリカ
公使ハリス、領事ドール、ミシシッピー号艦長ならびに士官、ヴァン・リードと私は、どっとこの墓地
に乗り込んだ。12時ちょうど、この旗竿にアメリカの国旗を高く掲げた。
そしてシャンペンを抜き「合衆国国歌を合唱して「われわれの繁栄のために、星条旗よ永遠なれ」と
乾杯した。この地に外国の国旗がひるがえったのは、史上はじめてのことであった。」




上の写真は右側のジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)とヴァン・リードがサンフランシスコ

で撮ったガラス板写真。神奈川に訪ねてきた義兄に帰国記念に渡したもの。

1858年に撮影

 

日系移民の統計データ

 1884年   116人

 1890年  12,610人

 1900年  61,111人

 1910年  79,675人

 1920年  109,274人

 1930年  139,631人

 1940年  157,905人

 1950年  184,598人

 1960年  203,455人

 1970年  217,669人

  ハワイのKalakaua王は1981年(明治14年)に来日、明治天皇と会ってハワイと

  日本の関係が良好になっており、ハワイ移民の増加に繋がった。

 

 

関連サイト

 ヴァン・リード、元年者移民、Japan-US Encounters 日米交流 (japanusencounters.net)

 

 第1章 前史 ブラジル移民がはじまるまで(1) | ブラジル移民の100年 (ndl.go.jp)

 

 ヴァンリード宅 横浜開港資料館 (city.yokohama.jp)

 

 ヴァン・リード論評 (jst.go.jp)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする