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2014年に発見された医学書「針薬方」と明智光秀

2020年11月18日 04時36分50秒 | Weblog

2020年1月8日に放送されたNHKTV「歴史秘話ヒストリア」で明智光秀に関して

謎の多い光秀の前半生について解説がありました。(再放送2020-11-4)

本日はこの内容について記載します。

特記していないもの以外はすべてこの番組からの写真です。

上の写真は判明した事実を纏めたものです。

以前に纏めた明智光秀に関する28歳から41歳の年譜を添付しておきます。

1556年(弘治2年):28歳
    長良川の戦いが起こり、斎藤義龍が明智城を攻める。
   おじの光安は戦死。
   一族は離れ離れとなり、光秀は浪人となり各地を転々とする。

1557年(弘治3年):29歳 越前 称念寺門前へ
  最近の研究で医者としての知識を持ちここで約10年過ごす
  その後、越前の大名、朝倉義景に仕える

1565年(永禄8年):37歳 三好三人衆と松永久秀が13代将軍の足利義輝を襲い
             足利義輝は自害
  足利義輝の弟の覚慶(のちの足利義昭)が5月に奈良を脱出
  10月に近江の矢島御所へ移る

1566年(永禄9年):38歳 近江の田中城に籠る
  針薬方を伝える(足利義昭の家臣に口伝したもの)
  これが縁でのちに足利義昭の家臣(足軽)となる

1567年(永禄10年):39歳
  朝倉義景の家臣として足利義昭、細川幽斎(藤孝)と出会う
  足利義昭の家臣として幽斎とともに信長と折衝

1568年(永禄11年):40歳
  足利義昭と織田信長の両方に仕える(二重雇用状態)
  信長と義昭の間を仲介、信長が義昭を奉じて京都へ上る(光秀も同行)

1569年(永禄12年):41歳 
  足利義昭が三好三人衆から襲撃されるが
  光秀、幽斎が防戦し義昭を無事脱出させる(本圀寺の変=六条合戦)


針葉方

2014年に熊本市内で「発見」された中世の医術書「針薬方」。
当時は、裏面に記された文面が織田信長の「幻の上洛計画」の存在を示しているとして、
話題になりましたが、近年は、明智光秀の若いころの動静、越前朝倉氏との関係、
医療的知識に対する造詣の深さを物語る、たいへん貴重な古文書として、
改めて注目を集めています。

上記「針薬方」は現在、熊本県立美術館寄託となっており、大河ドラマ「麒麟がくる」
の放映にあわせて、2020年1月8日から2月9日まで特別展示されました。

上の写真は2019年、NHKTVの取材に対応した熊本県立美術館学芸員の山田貴司さんと針葉方

上の写真は永禄9年(1566)明智光秀が高島市の田中城に籠城の時に医術について

口伝したことが判る部分。

「明智十兵衛尉」が近江高嶋田中城で口伝した、と記されています。

光秀が武士でありながら医者としての知識もあったこと、
朝倉家の秘伝の薬である「せゐそ散」の材料や作り方のコツまで詳細に伝えていたこと、
永禄9年の時点で光秀と朝倉家との間に医学を通じて接点があったこと、
前年に将軍の足利義輝が三好三人衆に殺されて、近江にいる弟の義昭が自分を助けるよう
諸将に要請し、光秀はこれに呼応して田中城に入ったと思われることなど。

針薬方の発見により上述のことが判明。

明智光秀は外科の医術の他に産科の医術にも通じていたと番組で解説されていました。

(上の2枚の写真)

上の2枚の写真は滋賀県高島市の田中城跡(堀切、土塁が残る山城)と城跡からの

琵琶湖方面(東側)の景観

 

 

上の2枚の写真は石川美咲さんの解説

 

 

上の2枚の写真はNHK出版「麒麟がくる 明智光秀とその時代」(2020)のPage50~55

石川美咲(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館 学芸員)さんの記載記事からで

針薬方の該当部分で口語訳も添付されています。

針薬方は足利義昭に仕えた米田貞能(こめださだよし)が永禄9年(1566)に書写した

医学書である。本書の奥書によればその元の本は明智光秀が田中城に籠城していた時に

口伝したものだという。

セイソ酸のあとに「越州朝倉家之薬」の文字を確認できます。

明智光秀と朝倉家との関わりを示す文章である。

上の写真は上述のNHK出版の「麒麟がくる 明智光秀とその時代」の表紙

上の写真は針薬方で明智光秀が田中城で口伝した頃の情勢を表したイラスト

遊行三十一祖京畿御修行記

上の写真は同じく上述の本からの抜粋で「遊行三十一祖京畿御修行記」の該当部分

出典:上述のNHK出版の「麒麟がくる 明智光秀とその時代」の表紙

この文書により明智光秀が時宗の称念寺(現在の福井県坂井市丸岡町長崎)の門前に

10年住んだことが判ります。

この文書は遊行上人(時宗の総本山游行寺の住職)の31代目である同念上人が天正6年

(1578)7月から翌年の3月までの間に東海・関西各地を游行した際の状況を記録

したものである。

上の写真は称念寺(現在の福井県坂井市丸岡町長崎)の門と門までの遠景

上の写真は明智光秀が10年間住んでいた場所と推定される場所で解説される

称念寺の住職、高尾察誠さん


現在、明智光秀に関する文書は約170点確認できるものの、ほぼすべてが
永禄11年(1568)9月の織田信長・足利義昭の上洛以降である。

謎の多い明智光秀の半生であるが「針薬方」と「遊行三十一祖京畿御修行記」は

部分的ではあるが謎を解明する上で貴重な文書である。

 

Vtuber明智光秀による歴史資料解説②『針薬方』

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