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古美術商「濱田篤三郎」と須磨寺に奉納の経塚の石碑

2019年08月02日 04時41分25秒 | 神戸情報

明治時代の神戸の実業家で古美術商として居留地貿易の外国人を介した輸出入から直輸出入の

制度を打ち立てた濱田篤三郎(はまだとくさぶろう)(1848-1927)について国立国会図書館の

デジタルアーカイブ、河合寿造著 「日本新立志編」のPage89-98 「濱田篤三郎君」

よりその経歴を纏めることを試みました。

尚、濱田篤三郎については神戸市須磨在住の井上勇氏が詳しく調査されていますので

その関連の情報も整理しておきました。

井上勇氏は神戸史談311(2014)Page28-35の中で濱田篤三郎の人物像を次のように

纏められています。

  • 明治初期の神戸を代表する古美術商
  • 日本人最初の国際人
  • 人生は修行僧のごとく
  • 近代貿易の礎「丸越組」で海外直輸入を実施
  • 「ラムネ」の製造販売
濱田篤三郎の幼少期

濱田篤三郎は嘉永元年(1848)正月、和歌山市湊東長町に生まれる。父親は徳右衛門

家が貧しかった為、濱田篤三郎は11歳(1859年)で大阪に奉公に出されます。

大坂の奉公先で約5年間奉公した後、そこで貯めた金を持って郷里に帰り商売のタネを

探していたところ、郷里(和歌山)や大和の材木を阿波(徳島)に売却する商売を始めたら

300両の利益を得ることが出来た。

時は明治維新の4年前の1864年(濱田篤三郎16歳)であった。

翌年(1865年)軍艦「明光丸」の藩用で横浜へ竹馬の友で会計係の川口武定と共に出かけた。

横浜の居留地で見かけたのは珍しい船来品の数々であった。濱田篤三郎は早速これらの船来品

を購入し和歌山に持ち帰り商売をして多大な利益をあげた。18歳の時(1866年)廃藩置県の

噂が広まって士族が将来、農民になったり商人になるための資金を得るために士族の所有物が

骨董屋や古道具屋に多く流れていた。そこに目をつけた濱田篤三郎は骨董屋や古道具から

仕入れをするとともに和歌山藩の有力士族邸にも出入りし買い取りそれらを売り捌き利益を得た。

若干、18歳ではあったが骨董品の目利きの腕は相当なもので藩主の不用品の処分にあたっては

鑑定方に命ぜられるほどであった。

22歳の時(明治2年1869)紀州藩が東京へ引っ越すことになり、その時の財産処分の3人の

世話人の1人となり一生かかっても目に出来ない骨董品と人間模様を体験しています。

結局、紀州藩の財産は地元でですべてを処分できず、残った高価な骨董品を処分するのに、

既に外国人が居た開港直後の神戸港へ行くことになります。

 

神戸での商売のきっかけ

士族が不用品を供出することが少なくなった頃、濱田篤三郎は大坂で商況を観た上で商売を

始めようと大坂や堺の街を歩き探索している時期に同じ和歌山出身の池田清作と巡り合った。

 池田清作は神戸港に出入りして多くの利益をあげていた人物である。

池田清作はこれまでの濱田篤三郎の経歴を聴き今後の商売の資金として5,000円を貸して

います。また同じく和歌山出身の岩橋萬蔵は郵便汽船会社を創立した人物であるが、濱田は

この会社の社員となり北海の航路を支配すべく約1年間、白藤為造と共に尽力したが

岩崎弥太郎が率いる三菱会社に圧倒され郵便汽船会社を辞めざるを得なくなった。

インターネットで調べた結果、郵便汽船会社正式名「日本国郵便蒸気船会社」は明治4年

(1871)に設立されたが経営に行き詰まり、明治8(1875)年1月10日に岩崎弥太郎の

「三菱汽船会社」が継承することになった。現在の日本郵船に繋がっています。

そのため池田清作のもとに戻ることとなった。

明治7年(1874)か明治年8年(1875)頃か・・・

 

神戸時代の濱田篤三郎

 明治9年(1876)から明治10年(1877)、ロンドン美術協会会長のクリストファー・ドレッサー

日本訪問に自費で同行し、欧米との人脈と彼らの好みを知り、日本美術の輸出を行った。

(公式の同行者は国立博物館長の坂田春雄と石田為武)

さらにすすみ、金工彫や木工の工場をつくり、西洋人好みの精緻な作品をここで製作して輸出した。

この人なら外国人好みの題材、構成を画家に指示して輸出用の作品を作ったとも考えられる。

 英語版のWikipediaによればクリストファー ドレッサー博士は(Dr. Chiristopher Dresser)

1834年スコットランドのGlasgowに生まれた著名なデザイナーで日本に訪問時に300種の欧州の

装飾品をお土産として持参し国立博物館に寄贈されています。没年は1904年11月24日。

 濱田篤三郎は雑貨類のイギリスへの輸出の為に明治14年(1881)11月1日丸越組を設置しています。

発起人は濱田篤三郎の他に池田清助、英国に駐在の池田清左衛門(池田清助の子息)、堀内信。

 丸越組には内国貿易店と海外直売店を設置し元町3丁目に国内貿易の店を元町4丁目には海外貿易を

手がける店を出した。

丸越組の資本金は5万円で農商務省大書記官&商務局長の前田正名の斡旋も有り正金銀行からの

融資金で賄われた。英国ロンドンに現地支店を開設、英国人1名と日本人2名が駐在さらに2年前の

明治12年(1879)よりロンドンに留学中の池田清左衛門(池田清助の子息)が貿易事務を担う体制

を整えていった。

しかしながら、イギリスへの輸出事業は明治15年(1882)4月に一大変事が起きる。政府が保護金

の5万円の返済を求めてきたのである。これによりロンドン支店は閉鎖に追い込まれる。

さらにこの時期に濱田篤三郎の父親の徳右衛門が危篤となり和歌山に戻り看病したが

間もなく死去。

濱田篤三郎は盟友池田清助と協議して外国のエージェントとして事業を継続さらに

家計回復のために山手の土地を売却。池田清助は京都に商店を開き事業の回復を諮った。

明治22年(1889)エージェントを完全に辞め、余った資金で元町4丁目に美術品の

商店を開くために工事を開始した。

明治23年(1890)濱田美術館を元町4丁目に開館

(参考)

明治7年(1874)時点の輸出入は日本に来航する外国商人に大半を依存、日本商人の取り扱い比率は

輸出で0.6%、輸入で0.3%。明治10年(1877)の時点でも輸出3.6%、輸入1.6%程度であった。

この屈辱的な状況を打破するために「商権回復運動」が起こっています。その一例を示す。

明治6年(1873)大倉喜八郎による大倉組商会、明治7年(1874)起立工商会社、明治9年(1876)

に広業商会、森村組、三井物産、明治13年(1880)に同伸会社、貿易商会などの日本商社が次々と

設けられた。これらの商社はいずれも横浜又は東京に本店をおく関東系の商社である。

 

明治24年(1891)神戸貿易雑貨商組合の組合長に就任

明治25年(1892)濱田篤三郎は44歳で引退し、神戸市須磨(須磨寺の近く)で暮らすように

     なって文化事業や鉄道敷設の運動にも傾注した。

    仏教の経典や戒律、論書の集大成である「大蔵経」の復刻事業に取り組み4年がかりで
   全36巻計347冊を完成。親交のある寺院に寄贈した。
 
前田正名と丸越組
 丸越組は明治14年(1871)から明治17年(1884)にかけて果敢に直輸出の可能性を
 探り続けた。
 国会図書館所蔵の「前田正名文書」には「丸越組内国貿易商」を名乗る池田清助ほかにより
 直輸出に関する嘆願書のリストが掲載されています。
 詳細のリストを添付(下の写真)
上の写真は「豪商神兵 湊の魁」復刻版で「丸越組海外直売店」が掲載(元町通4丁目48)
 神戸史談会企画 大国正美、楠本利夫編
 
 

濱田篤三郎の写真

明治の後期(推定)に写された濱田篤三郎の写真 出典:2)

 

濱田篤三郎の手記発見

 ・2011年12月6日、神戸新聞 夕刊1面に表題の記事

  見出しは「港の大立者 功績に光/芦屋の子孫宅で手記発見/文化事業にも尽力

  濱田篤三郎/明治の神戸、近代貿易の礎築く」

   須磨の郷土史家の井上勇さんと潮音寺住職の牛尾真堂さんが解読及び史実と照合

 

 ・2011年12月10日、神戸新聞朝刊19面(文化)

   「近代貿易の礎築く 濱田篤三郎の手記発見」で下記内容の記事が報道されています

   a)手記は嘉永元年(1848)から79歳で亡くなる6年前の大正10年(1921)まで1年毎

   b)美術商になるまでの地元和歌山での商売実績

   c)明治14年(1881)神戸港の貿易業者の組合「丸越組」の創設

   d)仏典「大蔵経」を復刻

   e)須磨で結核療養中の日本画家「大橋翠石」を支える

 

神戸電気鉄道(株)敷設許可願い

明治26年(1893)9月26日付けで内務大臣宛てに神戸市電の敷設願いを神戸電気鉄道(株)の

初代社長の村野山人や池田貫兵衛、鹿島秀麿、沢野定七らとともに発起人として名を連ねています。

日本最初の電気鉄道(チンチン電車)は明治28年(1895)、京都の岡崎公園一帯で
開かれた博覧会への客輸送のため、明治28年(1895)2月1日に伏見(油掛通)と
京都駅の間の6Kmの区間で開通しています。その2年前にこのような申請が出されていたことには

先見性を感じます。 

実際に神戸で市電が開業したのは明治43年(1910)4月5日となった。 参照資料:6)

 関連ブログ:電気鉄道事業発祥地の碑 in JR京都駅前 on 2012-3-21

 

明治43年紳士録に記載の所得税と営業税

 濱田商店雑貨商(元町通3丁目128)として所得税86円 営業税151円を納付

 参照資料:7)page11

摂津電気鉄道株式会社設立の発起人

 明治26年(1893)12月7日、摂津電気鉄道株式会社設立及び電気鉄道敷設の発起人

 として濱田篤三郎は小西新右衛門、辰馬タキ、小曽根喜一郎、村野山人、鹿嶋秀麿、

 谷新太郎、藤田松太郎、神田兵右衛門、直木政之介らとともに名を連ねています。

 摂津電気鉄道株式会社は阪神電気鉄道株式会社の前身の会社です。

 参照資料:8)Page454-457

須磨寺に奉納の経塚の石碑

 

上の写真は須磨寺宝物殿の近くにある経塚です。 撮影:2019-7-8
Wikipediaによれば「経塚(きょうづか)とは、経典が土中に埋納された遺跡である。
仏教的な作善行為の一種で、経塚を造営する供養のことを埋経という。」

この経塚は明治39年(1906)に濱田篤三郎(竹坡)翁が建立したものです。
右下に濱田篤三郎の雅号である竹坡の建立という文字が書かれています。

 

濱田篤三郎の著書

・伏見桃山乃木将軍旧邸の記 初版 大正5年(1916)

・濱田篤三郎 著『千里一走』 (高嘯会、1914年)

  虎の画家として著名な日本画家「大橋翠石(1865-1945)」の前半生を描く

・仏典「大蔵経」の復刻出版

 

 

参照資料

 1)井上勇著 神戸史談311(2014)Page28-35 題目:港の大立者「濱田篤三郎竹坡翁」の手記発見

 2)河合寿造著 国立国会図書館デジタルアーカイブ、日本新立志編(1893) Page89-98「濱田篤三郎君」

 3)神戸新聞社編 ひと萌ゆる : 知られざる近代兵庫の先覚者たち(2001)

 4)2011年12月6日、神戸新聞 夕刊1面

 5)2011年12月10日、神戸新聞朝刊19面

 6)神戸市交通局60年史(1989)

 7)神戸人名録

 8)阪神電気鉄道80年史

 9)神戸市史 歴史編Ⅳ 近代・現代

 

おわりに

 やっと纏めることができましたが内容は不十分で今後、誤記も含めて修正追記する必要が

 あると考えています。

 濱田篤三郎は東の渋沢栄一、西の濱田篤三郎と言われるくらいの大物の実業家であるが、

 一般的にほとんど知られていません。

 今後も未読の資料を読み込んでまとめていきたいと考えています。

コメント (2)
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