![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/40/77d321237e4959ddee4c21cfc2041dcc.jpg)
GWは、この人と、おばあちゃんに会いに。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/98/0c92f0a8181206a3f15fbf58a0164fce.jpg)
倉敷美観地区入口のまねき犬さん。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/14/556eaf43ba0bd701929f3b4a372af20d.jpg)
おばあちゃんは、97歳。倉敷の老人保健施設に居る。
もう歩く事は出来ない。
記憶も直近記憶は、2分程しかない。
しかし、それ以外あばあちゃんは、私の知っている30年前のおばあちゃんのままだ。
”こんにちは、始めまして。お元気ですか?”
”はい、おかげさまで元気にしております”
私だって、気付いてくれないかと期待を込めて声を掛けるが、帰ってくる第一声は
こんな感じ。でも、私の後ろに視線を向けたおばあちゃんの顔はぱぁーと明るくなる。
”さち!!、来てくれたんかぁ、ありがたい、ありがたい。”
両手を合わせて、拝み始める。
眼を上げて私に向きなおり
”いちこかぁ?”
さちの娘はいちこと繋がる。
でも、車いすを押して、お部屋に入る5分後には私達の存在は又、ごあいさつから。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/43/0d650d0d724dd2e6fd299b583c9cfefb.jpg)
話しかければ、きちんと答えてくれるが、おばあちゃんから人に話しかける
事はもう出来ないようだ。
車いすから降ろして、車に座ってもらうと、もう運転手のよしおさんの事は、
忘れてしまっている。
自分の年齢も全く分らない。
しかし、私にとって、この人以上に私の疑問に答えられる人は居ない。
たまに、すごく心が弱っている時、"何の為に自分は生きているのだろう?"と
10年に一度くらい人は自分に問いかける事があるのではないだろうか?
おばあちゃんから出てくる言葉は、ありがとう。ありがたい。
美味しい!!嬉しい!!この言葉が大多数だ。
”ここ(老健)に居て幸せ?”
”うん、先生方(ヘルパーさん)が親切にしてくださるし、自分で作らなくても
三度三度美味しいごはんを頂ける。そのおかげでこんな長生きさせて頂いて
幸せだ”
”こんな遠い所まで会いに来させて、可哀そうに・・・申し訳ない。ありがとうなぁ”
”あーこんなに沢山お金を使わせたら、お前たちが困るだろうに、いいよ。
いいよ。お前たちが食べなさい。”
”これ、頂いてもいいの?あー美味しい。美味しいわぁ。幸せだ”
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/fa/d9a0caac88fe96e0d7b0c93288063b9a.jpg)
今の彼女を形成しているのは、永い歴史の中培った、習慣だけ。
人をなじることなく、いつも感謝の心を忘れず、足るを知り、喜びを大きく表現する。
彼女の生きてきた姿、それだけだ。
よしおさんは、”おばあちゃん、かわいい”と言ってくれる。
私にも、彼女は”とてもかわいい”。
生きてきた証は、残した財産でも、実績でも無く、生きてきた本人そのもの。
年齢を重ね、体も不自由になり、考える力、物事を判断する力を失った時、
おばあちゃんに残ったのは、人間としての品性。
欲を残す人。
豪を残す人。
何を残せるかは、人の生きてきた姿次第なのではないか?
私の生きる意味、もしくは課題は、おばあちゃんのようになれるかだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/02/af6763ff6fdd8f065a2c834459a4676f.jpg)
”おばあちゃん、おじいちゃんどんな男だった?”
”えー男じゃった。男前じゃったし、賢い人だった”
”おじいちゃん、戦争の時何してたん?”
”陸軍上等兵で馬に乗っとた。綺麗じゃったよ”
”おじいちゃんとお見合いで結婚したん?”
”違うよ~。恋愛じゃぁ。おじいさんが、演劇場で私を見染めたんじゃ”
”おじいちゃんに会いたい?”
”会いたくても、死んだんじゃけ、会えんやろ。だけど、おじいさん私が
生活に困らないようにしてくれてるから、ずっと守ってもらってる”