1592年壬辰倭乱によって全焼
273年間 廃墟となる
1867年 高宗の時代に再建される
1895年 高宗の皇后 明成皇后が日本人によって殺害される
王様が居所を移し、主人を失った王宮となる
1910年 国権を失い、日本に正殿の前に総監府庁舎を建てられるなどして、多くの建物が破損、昔の姿をほぼ失ってしまう。
大部分の建物は無くなったが、、正殿・楼閣などの主要な建築物は残っている。
”教育って怖いね”
朴さんはそう呟いた。
今から14年ほど前、卒業をまじかに控えたあの日、彼女はしんみりそう言った。
私が彼女と最後に食事をした夜だった。
彼女と出会ったのは、大学での新入生オリエンテーションの日だった。
白磁の肌を持つ、美しい女性が私の横に座った。
不思議なことに、その日から私の級友は中国人・韓国人・台湾人ばかりとなった。
2浪・3浪が当たり前の当時。
田舎者まるだしで、附属高校からそのまま進級してきた私は、とても幼く見えたのだろう。そして、人畜無害にも。
外国人留学生達は、自国の大学を卒業後、入学した人。
日本語学校を卒業後、入学した人。
私から見ると、おそろしく大人に見えた。
留学生達の中でもとりわけ仲良くしてくれた、朴さん。
”日本に来る時、日本人は野蛮で怖い。気をつけなければと身構えて、来たのよ。私達、そう言う教育受けてきたの。でも、日本で6年暮らして、日本人は優しいって解った。”
彼女は、私と出会って4年間、私にそんな話をしてくれたのは最後の最後の日だった。彼女の日本人に対する恐怖はいつ消えたのだろう。
6年も日本に暮らした彼女ですら、私に口のすることの出来ない言葉を持っていた。
留学生の人達はみんな優しかった。
しかし、ぽつりぽつりと私が学校の授業では習わなかった日本の歴史を、彼らから聞いた。
決して、私を苦しめる為ではなく、知識の一つとして教えてくれた。
実際、私は大人達に庇われる、小さな子供のように甘やかされた学生生活だった。
しかし、私は彼らの国に足を踏み入れる事が拒まれた。怖かったのだ。
自分達の先人たちが行った行為の残虐さに、恐れをなしたのだ。
留学生達はみんな裕福な家庭のご子息たちで、何度も遊びに来るように誘ってくれた。
お金が無いと言い訳すると、航空チケットを買ってやると言ってくれる人までいた。
しかし、私はどこにも行かなかった。
彼らのご家族に、不快な思いをさせる事を恐れたのだ。
私は、韓国から帰ってきて、韓国の人はなんて、素晴らしい人達なんだろうと尊敬の念を覚えている。
王宮の日本語ガイドさんは、火災に遭った。殺害されたと簡単に述べ。
日本人のせいだとは説明しない。
私達が、歩きながら地図を見ていると必ず誰かが声を掛けてくれた。
日本語・英語・韓国語どれかの言葉で私達を助けてくれた。(厳密には韓国語の場合は身振り手振り)
電車に乗ると、68歳の叔母は1分も立っていた事が無かった。すぐ誰かが席を譲ってくれる。
礼儀正しくて、真面目で、優しくて、感情表現が豊か。
暮らしてみると、別の側面も兼ね備えているのだろうが、
今度は身構えず。 かといって、無礼にならないように、この地に足を運びたいと思った。
そして、無知とは本当に人生を狭くするとつくづく感じだ。