現実と夢!!

今日は曇り

クラウド

2010-07-10 00:06:41 | Weblog
少し前になるがマッキンゼーからクラウドは必ずしも、良い側面ばかりではないという
リポートが発表されている。

中小企業においてはクラウドはメリットが多いという側面が強いが
大企業においてはそうではないということだ。
主な点としては、
・データセンターを保有すると税務上の観点から、減価償却の計上からメリットがある
・またクラウド化に取り組むことで、従来平均的な稼働率が10%程度のものが
 35%程度の達してしまう
・ソフト面についてはも、ケアやユーザ支援など依然として労働コストが
 かかってしまう

ということだ。


そして、一般的に企業データセンタをクラウドに移行してしまうと
コストが2倍以上になってしまうということも言及している。
また
1CPUあたり、月150$のものが366$に達してしまうのだそうだ。


要は、大企業においては、あまりメリットがないということを述べている。


勿論メーカは大反論だ。
それは、全てをクラウドに移行するというわけではないという点が
このレポートに抜けているという点だ。
何をクラウドにするか、何をクラウドにするべきではないか等は
ビジネス形態や業務フローなどによって個々に異なるという面を考えれば
デメリット一辺倒ではないとう点だ。
IBMによれば、クラウドにすれば、オフィススペースを最大80%有効に
利用することは可能で、消費電力を最大60%コストカットすることが
可能になるということだ。


さて、どちらが的を得ているのか?
これは答えるまでもなく、IBMのほうが的を得ている。

マッキンゼーは全てをクラウドにすればという点においては
適切な議論が進めれているとは思われるが、
そういった前提がなりたつことはまずありえないだろう。
ありえない前提で議論を進めるのは、マッキンゼーらしくはないと
言わざるをえない。

そして、本リポートついてはやや斜めで見る人が多いだろう。


今年のインタロップの展示では、データセンタの効率化がテーマであるかのように
それに関連する展示が多かった。
クラウドは今やバズワードになってしまった側面が否めないが、
この技術は魔法ではないことは十分に肝に銘じておく必要はあろう。

歴史の変換点

2010-07-03 15:26:12 | Weblog
人はどうも目の前の事実を捉える傾向がある。
しかし長期的に物事をとらえることも時には必要だ。
例えば歴史の視点でものをみるということだ。

日本は戦後GDP2位になった。中国を大きく抜いたが
残念ながらに抜き返されたであろう。
しかし歴史に目を向けてほしい。日本が中国より巨大になったのは
4000年の歴史の中で、最近のたった50年程度のことにすぎないのだ。

そんな日本にも何回か変換点というのがあった。
例えば1867年の明治維新。これには坂本竜馬や勝海舟などの突出した人材に
よってなされた。
そして1945年以降の戦後復興。これは本田宗一郎や井深大によってなされた側面が
大きい。これも突出した人材によって行われた。

これらに共通するのは、司馬さんの言葉をかりるなら坂の上の雲があったからこそだ。
日本には今それがないとよく言われる。
しかし、明治維新前や戦後時も同じように絶望していた人が圧倒的に多かったはずで
それは今と何も変わらない。
そこで、変えるんだという強い心と行動力を持った人材が変えてきたのだ。

ということは、今も同じことが言える。
おかしくなった日本を変えるんだという突出した人材が輩出されるのを待つばかりだ。

他力本願かもしれないが、これは世界の歴史においてもそうで
誰か突出した人材が世界を作ってきたのだ。
今もそれはそうだ。アップルを始めGoogleやマイクロソフト、サムスンやLG、ノキアなど
最近世界での話題がことかかない企業は、突出した人材ありきの話である。

しかしながら今の日本でそういった人材を輩出できる環境があるかと言えば
それは疑問に思わざるを得ない。
飢餓感を教育で盛り込めていないのだ。

今後日本は余りにも遅れている国際的な要素を盛り込んだ教育と
世界で通用する人材教育の両面を行う必要がある。特に大学ではそれが求められる。

今色々な人と話していてもニュースにある表面的な事実を知る人はまだいいものの
世界で起きていることすら知らない人が多い。
ましてその本質に気づいてる人なんてほとんどお目にかかれない。


そういった人が親になって、子供はいったいどうなるのか。
これから求められる突出した人材の輩出がそういった親から生まれるのだろうか。


少なくとも親が変わらなければならないのではないか。それは賢くなれというのではなく
しっかり事実を捉えて暗くならず明るく上を向いて歩くようになるべきではないかという話だ。