
写真:Amazonより
韓国で数年前から小確幸という言葉がよく使われています。
韓国で数年前から小確幸という言葉がよく使われています。
村上春樹が最初に使い始めた言葉だそうです。
次期大統領候補で「反日」的言動で知られる李在明(イ・ジェミョン)も自身のFacebookで、身近な事柄に関する公約を小確幸公約として発表し続けています(リンク)。
ハ・ワンという韓国人のエッセイ『今日も言い訳しながら生きています』(岡崎暢子訳、2021年ダイヤモンド社、原著は2020年刊)には、「幸せは「大きさ」じゃない。「頻度」だ」というタイトルの文章があります。
村上春樹から広まった、小さいけれど確実な幸せ。略して「小確幸」。
…小確幸がブームとなり、あちこちで目にするようになってから、小確幸をよくないものとする意見も出てきた。…
ハ・ワンさんは韓国のイラストレーター。2018年に出したエッセイ『あやうく一生懸命生きるところだった』は日韓で合わせて40万部売れたベストセラーで、『今日も…』は第二作目。
韓国語で小確幸(소확행、ソファッケン)を検索すると、2018年以降に書かれた記事がゾロゾロ出てきます。
最も古そうなのは、KBSニュースの2017年11月8日の記事(リンク、韓国語)でした。
「小さいけれども確実な幸福」…小確幸
「焼きたての温かいパンを手でちぎって食べること、午後の日差しが作る葉の影を眺めながらブラームスの室内楽を聴くこと、引出しの中にきちんと畳まれた下着がたくさん詰まっていること、買ったばかりの清潔な綿の香りのする白いシャツを頭からかぶるときの気分…」
忙しい日常の中で瞬間瞬間に感じる小さな喜びがある。作家村上春樹はエッセイ『ランゲルハンス島の午後』でこれを「ソファッケン(小確幸・小さいけれども確実な幸せ)」と表現した。1970~80年代、バブル経済崩壊で経済が沈滞し、つらい時代を過ごした経験をもとに、小さい幸福を追求する心理がこめられた言葉だ。
冒頭の、「 」で囲まれた一節は、村上春樹のエッセイ『ランゲルハンス島の午後』からの引用のように読み取れますが、調べてみると、エッセイ集『ランゲルハンス島の午後』の中の「小確幸」というエッセイに出てくるのは、後半部分だけです。
…ところで僕はその「アンダーパンツ」の方を集めるのが――もちろん男性用のものです――わりに好きである。ときどき自分でデパートなんかに行って「あれにしようかな、これにしようかな」などと迷いながら5、6枚まとめて買ってくる。おかげでタンスの引出しにはかなり沢山のパンツがたまっている。
引出しの中にきちんと折ってくるくる丸められた綺麗なパンツが沢山詰まっているというのは人生における小さくはあるが確固とした幸せの一つ(略して小確幸)ではないかと思うのだが、これはあるいは僕だけの特殊な考え方かもしれない。
下着のTシャツというのもかなり好きである。おろしたてのコットンの匂いのする白いTシャツを頭からかぶるときのあの気持もやはり小確幸のひとつである。…
(村上春樹/安西水丸『ランゲルハンス島の午後』新潮文庫版82~83ページ)
前半の、
「焼きたての温かいパンを手でちぎって食べること」
は、村上春樹の別のエッセイ集『うずまき猫のみつけかた』に出てきます。
(ボストンは犯罪が多く危険だという話のあとで)、でもそれにもかかわらず、「おいしいパン屋があるのってやっぱりいいよな」とつい考えてしまう。とくにのんびりと散歩がてら近所のパン屋に買い物に行って、ついでにそこでちょっとコーヒーを飲みながら(アメリカのベイカリーには椅子が置いてあって、そこでコーヒーを飲めるところが多い)焼きたての温かいパンを手でちぎってかりかりと齧るのは、僕にとっての「小確幸」の一つである。
(村上春樹『うずまき猫のみつけかた』新潮文庫版、165ページ)
もう一つの、
「午後の日差しが作る葉の影を眺めながらブラームスの室内楽を聴くこと」
の出典は不明。
『ランゲルハンス島…』には、「ブラームスとフランス料理」というエッセイがありますが、これはブラームスが自身の指揮で交響曲第4番を初演したときのエピソードなので、小確幸とは関係がない。
『うずまき猫…』にも、32ページにブラームスの話が出てきますが、ボストンでベルナルト・ハイティンク指揮の交響曲第1番を聴いたときの話で、これまた小確幸とは無関係。
村上春樹のエッセイをすべて読んだわけではないので断定はできませんが、「木陰でブラームスの室内楽」というのは、他の例に比べて陳腐で村上春樹らしいセンス、個性が感じられないように思います。
村上春樹のエッセイをすべて読んだわけではないので断定はできませんが、「木陰でブラームスの室内楽」というのは、他の例に比べて陳腐で村上春樹らしいセンス、個性が感じられないように思います。
先に紹介した韓国語の記事に「引用」された村上春樹の文章は、異なる時期に書かれた別々のエッセイの内容を組み合わせたもので、さらにはこの「引用」を最初に書いた人の想像の産物も混じっているのではないかと思われます。
もし小確幸を原典に忠実に説明するなら、『うずまき猫…』の126ページにある、ほしかったレコードをすごく安く手に入れたときの「小確幸」は欠かせないし、その直後に出てくる「小確幸の醍醐味」も紹介すべきでしょう。
(ある中古レコードを、34ドルは高いと思って買わないでいたら売れてしまった、という話の後に)その3年後に僕は、ボストンのとある中古店で同じレコードをなんと2ドル99セントで見つけたのである。…これを手にしたときはほんとうに嬉しかったですね。手が震えるというほどではないけれど、思わずにこにこしてしまった。じっと我慢して待ったかいがあった。
結局ケチなんじゃないかと言われそうだけど、決してそういうのではない。生活の中に個人的な「小確幸」(小さいけれども、確かな幸福)を見出すためには、多かれ少なかれ自己規制みたいなものが必要とされる。たとえば我慢して激しく運動した後に飲むきりきりに冷えたビールみたいなもので、「うーん、そうだ、これだ」と一人で目を閉じて思わずつぶやいてしまうような感興、それがなんといっても「小確幸」の醍醐味である。そしてそういった「小確幸」がない人生なんて、かすかすの砂漠のようなものにすぎないと僕は思うのだけれど。(『うずまき猫のみつけかた』126ページ)
そして、2017年のKBSの記事にある「引用」は、2018年以降に書かれた「小確幸」に関するたくさんの記事で、一字一句たがわずコピペされ続けています。
韓国人はあまり本を読まない人が多く、原典を確かめずにコピペする傾向があります。それに、村上春樹の小説は韓国でもベストセラーですが、エッセイを読む人はそんなに多くないでしょう。KBSの記者も、自分で読んであの引用をまとめたというわけではなく、どこかから引用してきたんじゃないでしょうか。
記事の中の、小確幸の説明にも疑問が残ります。
1970~80年代、バブル経済崩壊で経済が沈滞し、つらい時代を過ごした経験をもとに、小さい幸福を追求する心理がこめられた言葉だ。
日本のバブル景気は1986年12月から1991年2月までとされ、それが崩壊した時期は1991年3月から1993年10月までとされています。
そして、『ランゲルハンス島…』が書かれたのは1984年6月からの2年間(雑誌クラッシーに連載)で、バブル経済が始まる前。『うずまき猫…』が書かれたのは1994年春から1995年秋です。
KBSの記者は、小確幸という言葉が『うずまき猫…』で初めて使われたのだと誤解したんでしょうね。
しかも『うずまき猫…』が書かれた時期、村上春樹はすでに『ノルウェイの森』(1987年刊、上下巻400万部以上売れる)などベストセラーを連発する流行作家になっており、バブル崩壊後に「つらい時代を過ごした経験」をしたとは到底思えません。
さらに言えば、村上春樹がエッセイで繰り返し書いた「小確幸」という言葉は、日本でさして話題になることはなく、流行語にもなりませんでした。
KBSの記事は、2017年頃に小確幸という言葉が韓国で流行った背景を以下のように分析します。
人々が幸福を探す方式が新たな局面を迎えている。勉強も、お金儲けも、子供を育てることも、どれ一つとしてたやすくない人々が、富と成功より、コーヒー、自転車、散歩、動物など、小さな日常的なものを大切にみなし始めた。日常で経験する小さな幸せを見逃すまいという動きが表れたのだ。「小確幸」現象の裏には、生きにくい社会の雰囲気が反映されている。
この分析は、その後韓国にあらわれた様々な「小確幸論」と似たり寄ったりです。
上の分析が正しいかどうかはよくわかりませんが、たぶん正しいのでしょう。
でも、「小確幸という言葉が日本で生まれた背景も、タイムラグはあるにせよ韓国と同じだ」という論理は、まったく説得力がありません。
なお、このブログ記事のタイトルにある「小不確考」という言葉は、「小さくて不確実な考察」の略語で、犬鍋の造語です。