その一つが「選好」。ソヌホ。
「複数の選択肢の中で,一つのものを好む」といった意味です。漢字を見ても意味がわかりやすいし,日本語にもあるような気がして,よく使ってしまっていたのですが,改めて日本の辞書を引いてみると,ウェブの大辞泉にも,新明解国語辞典にも出ていない。かろうじて大辞林にはありましたが,一般には使われない言葉のようです。
韓国人特有の日本語の誤りを「コパニーズ」と言いますが,これもその一つかもしれません。「選好」,韓国語では,たとえばこんなふうに使う(→リンク)。
韓国社会の「男児選好」、減少傾向に
韓国社会の根強い「男児選好」の価値観が、時代の流れとともに急速に衰えていることが分かった。
韓国保健社会研究院が29日に発表した「2006年全国家族保健福祉実態調査」の報告書によると、15-44歳の既婚女性を対象に「息子が必要かどうか」について調査した結果、「息子は必ず必要」という回答が1991年の40.5%から97年24.8%、2000年16.2%、そして06年には10.1%へと急減していることが分かった。一方、「息子がいなくても構わない」という回答は、91年の28.0%から97年39.4%、2000年39.5%、06年49.8%へと増加傾向を見せている。
男児を選好する回答者は、都市地域より邑・面地域(農村地域)で多く、その割合は教育水準が低いほど高かった。息子が必要だと答えた理由(複数回答)としては、「心理的な満足」(67.1%)を挙げた人が最も多く、以下「家庭の幸せ」(51.2%)、「家門の維持」(19.0%)、「祭祀」(5.0%)が続いた。一方、「老後の生活」や「経済的な支え」と回答した人は、それぞれ2.6%、1.0%にとどまった。
同研究院のキム・スングォン研究委員は、「人々の考え方が、“息子は必ず必要”から“いなくても構わない”という方向へと変わりつつある。しかし、“息子がいると良い”と考える人も依然として多く、男児選好の価値観が今なお残っていることが分かる」と語った。
上の記事にある「必ず必要」というのも,うっかりすると使ってしまう表現。日本語では冗語ですね。
しかし,「教育水準が低いほど」などと,平気で書いちゃうのが,韓国の新聞だなあ。
ところで記事内容ですが,韓国における男児選好について調べたことがあります。
以下は韓国の出生性比。
年度 全体 第1子 第2子 第3子
1990 116.5 108.5 117.1 193.0
1993 115.4 106.5 114.7 208.1
1995 113.3 105.8 111.7 181.0
1997 108.4 105.3 106.4 136.1
「出生性比」とは,出生児の男女比で,自然状態では105~106。男の子とは女の子に比べて虚弱で乳児死亡率が高いぶん少し多めに生まれ,数年後に男女が同数になるという神の摂理(?)のようです。日本は,例年,そのあたりを推移しています。
韓国では,男児を選好する儒教の伝統のせいで,女児の中絶/堕胎率が異常に高い。とくに,第2子、第3子となるとすさまじいばかりです。
この数字は10年後の今も変わりません。(→記事)
[時評] 息子はいらないって?
2007年11月1日中央日報
歌手イ・チョクの母としても有名な女性学者パク・ヘランさんの話だ。30年前,三歳の息子を連れて出掛けると,一様にこんなことを言われた。「ご飯を食べなくても満腹だね」。ところがそのような羨みの言葉は,10年ぐらい前から徐々に変わり始め,最近は田舎のおばあさんたちでさえ,こんなふうに言う。「おやまあ,お気の毒さま…,老後が寂しくてたまらないよ。」
主婦の半数が「息子はいなくても良い」と答えたアンケート調査が話題になっている。息子が必要だと答えたのは,10人中1人だけだった。実際,「XXXシリーズ」と言う名前で流行ったジョークは,かねてからこうした世相を予言していた。「できのよい息子は国家の息子,稼ぎのよい息子は親戚の息子,不出来な息子は私の息子」「息子は生む時は2親等,大学生になると8親等,結婚すれば親戚の8親等!」「嫁の亭主を息子だと思うやつは頭がおかしい」…。
調査結果は意外なものではない。それでも一目瞭然の統計は,ジョークとは重みが違う。伝統的家族制度の根幹が揺らいでいるという確かな兆候を前に,いっそう強く押し寄せる世の中の変化を感じて,薄ら寒い気持ちになっている人たちも多いようだ。
意識が現実をそのまま反映しているわけではない。今春の統計庁の発表を見れば,2006年の出生性比(女児100人当たりの男児数)は第一子が105・6人,第二子が106・0人で正常な範囲(103~107人)に入っている。しかし,第三子(121・8人),第四子(121・6人)に目を移せば,女児堕胎の疑いが明らかだ。息子でも娘でもよいと声高に言いながらも,正月やお盆になれば夫の家で茶礼(儒教の祭祀)を執り行い,お客さんが一段落したあとでなければ実家に訪問できないのが現実だ。
それでもずいぶん変わった。妻の実家は,以前と比べものにならないほど近しいものになった。旅先で目にする和気藹々とした大家族は,ほとんどが妻のほうの親族の集まりだ。父方のおばあさんより母方のおばあさんのほうが,父方のおばより母方のおばのほうが気楽で,家庭内のこまごまとしたことは,実家の親と相談するのがふつうだ。「新母系社会」が到来したという主張も,あながち的外れではなさそうだ。
「跡継ぎは息子」という考え方は,息子でも娘でもどちらでもいいから一人だけ産もうと考えるようになった時から,力が衰え始めた。一部の人々は,息子には祭祀をまかせ,老後の面倒をみてもらう「老後保険」くらいにしか思っていない。けれども親たちは,まもなく自分たちの甘さを思い知った。百歩譲って,頼りになるつっかえ棒になってくれさえすればいいのに,それさえも期待はずれになるのがおちだ。ある母親は,息子と家事について言い合いをしていて,「嫁さんに聞かなくちゃ」と言われ,「結婚した息子というのは,はかない昔日の恋の影」であることを切実に感じたそうだ。娘は気立てさえよければいいが,息子はどっちにころんでも役立たずだという考えがしきりにする。
妻の実家べったりの一方で,夫の家にたいしては「指名試合」(最小限しなければならないこと)しかしない息子と嫁を見て,息子無用論は勢いづきつつある。ソウルの鴨鴎亭洞には,住民たちが俗に「舅姑ホテル」と呼んでいるホテルがあるという。たまたま故郷から舅姑が上京すると,面倒臭いといって,ここに泊めるそうだ。ショッキングだが,あらためて考えると,程度の差こそあれ,わが国の親族関係は,ひたすら実利を追い求める寄生的な親子関係が定着したようだ。与えず,受け取らずの西欧的親子関係とも違う。手に入るとなれば実家からか嫁ぎ先からかはおかまいなしに自分の利益を図り,義務と責任にはそっぽを向くのが一般だ。
だからといって,また昔の家族に帰ろうということではない。はっきりしているのは,親族関係の変化の序曲が始まったという点だ。家族とは,困っている者,非力な者の面倒をみてやる「お世話共同体」だ。娘か息子かということに意味がなくなったように,舅姑か,実の親かで差をつけるのもまた愚かなことだ。父系と母系が一緒になった両系的家族,親子が愛し合い,面倒を見る世代統合的家族は,21世紀を生きる私たちが作り上げるべき新しい家族モデルだ。実利と責任,成熟した姿,バランス感覚,他人に対する思いやりなどが,うまく一つになれば,自ずと美しい家族になるだろう。
ムン・キュンラン女性専門記者兼論説委員
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