犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

日帝時代の検証~食料収奪②

2007-06-16 05:18:24 | 近現代史
(3)歴史教科書はなぜ歪曲されたのか?

 李丙先生と震檀学会の韓国史研究における位置は,先に説明した。では,ここで二つ目のテーマである「なぜわれらの誇らしき大韓教科書株式会社発行の国史教科書が歪曲されざるをえなかったか」について語ろう。

 現代の韓国史学会において,李丙先生の評価は朴統(朴大統領)同様両極端にわかれている。斗渓李丙先生の学問上のお弟子さんたちは韓国史研究において絶対的な人物として評価する。しかし,民族主義史学者や社会主義史学者たちは,李丙先生を典型的な親日人士として描写している。しかし,歴史学をぜんぜん専攻しない筆者のような第三者の立場から見れば,李丙先生は,それなりにかなり立派な学者だったとしか評価のしようのない人物だ。実際,非専攻者のみなさんにしろ,筆者にしろ,李丙先生にいいかげんな評価をくだせないのは同じだ。実際,李丙先生でなかったら,われわれは韓国史の多くについて今なお答えを求めて迷走していたかもしれないほどに,李丙先生の業績はたいしたものだった。

 しかし,斗渓李丙先生の一生は,典型的な植民地知識人のそれであったことに間違いはない。簡単に彼の略歴をたどってみよう。

 李丙先生が生まれた1896年は、朝鮮国王高宗がロシア公使館に逃げ込んだ,かの有名な俄館播遷が起きた年であり、同時に徐載弼先生の独立協会が独立新聞を創刊した年でもある。彼が2歳だった1897年には大韓帝国が成立し、彼が3歳の年にわが国最初の鉄道,京仁鉄道が完工した。彼が9歳になった年に有名な乙巳保護条約が、彼が14歳なった年に韓日合邦が成立して国権を失った。すなわち、幼時の李丙は祖国が日本によって植民地に転落する過程をじかに見て体験した人だ。1915年、彼は高麗大の前身の宝城専門学校の法学部を卒業する。そして、日本に渡り,早稲田大学で史学を専攻する。1919年、3・1運動が盛り上がっているときに早稲田大学を卒業する(日本の大学は3月に卒業式を行う)。そして、すぐに帰国して教鞭を取る。彼が23歳のときのことだ。

 
以後、彼は29歳で朝鮮総督府朝鮮史編纂委員会の委員になる。そして出世街道をひた走る。1934年、38歳で震檀学会理事長に就任し、解放の年,1945年には49歳でソウル大学文理学部教授となる。解放後の彼の人生はいよいよ忙しくなる。1959年には解放後、最初の通史である『韓国史』を編纂し、1960年には文教部長官(現教育部長官)に就任した。1989年に亡くなるまでの彼の人生は、激動の歳月、弱小国に生まれ植民地時代に青春を送り、新生独立国の祖国のために余生を捧げた典型的な植民地知識人だったのだ。彼の親日行為その他はさておき,彼の人生略歴を見るだけで、彼がいかに熾烈な人生を送ったかは火を見るより明らかだ。

 ならば,このような彼の生きざまが,わが国の歴史教科書にどのように投影されているのか?

 先に述べたとおり,故斗渓李丙先生は29歳で朝鮮総督府朝鮮史編纂委員会の委員になった。ちなみに筆者は今年28歳になった。もし筆者が李丙先生なら,来年には朝鮮史編纂委員になるはずだ。今という時代ならどこかの大学でしがない時間講師をしていたであろう29歳の李丙先生が,いかなる学問的業績をあげていただろうか? 結局,彼がなぜ朝鮮史編纂委員になったかは,わかりきった話だ。青年李丙という人物は,言われたことをハイハイよく聞く純真な朝鮮知識人として,総督府にとって扱いやすい人物として選ばれたにすぎず,実質的にはいかなる影響力も彼にはなかったのだ。

 しかし,この肩書は,結局,一生涯彼に重い苦悩を課すことになる。青年李丙は29の歳に,出世と名誉のため,自らの高貴な魂を売ってしまった。彼には一生「親日派」というレッテルがつきまとうようになったのだ。ああ,この不憫な男よ…。

 親日派という宿命的なレッテルをぶらさげることになる李丙は,その後も実にうまくやった。日の出の勢いだった。頭もよく,学問的成果も出した。ところが突然,戦争で日本の奴らが米国の奴らに負けちゃった。たった2発の原爆でお手上げになったのだ!

 解放だ。

 解放されるやいなや,親日派への大々的粛清(現在では不徹底だったことが明らかになっている)が進められた。こんな熱風の中でも,親日派のレッテルが貼られていた李丙は生き残った。生き残ったどころではない。ソウル大学教授になり,震檀学会理事長になり,解放後最初の通史「韓国史」を著し,以後文教部長官にまでのぼりつめた。

 解放後の混乱期,李丙先生には,たいへん多くの敵(主に社会主義系列の史学者と民族主義史学者)が存在した。しかし,李丙先生はこれら多くの敵を押しやり,最後まで生き残ったのだ。

 どうやって? それは今現在の歴史教科書をみればわかる。

 ここまで来ればみなさんも,おおよそ見当がついてきたことと思う。こちこちの石頭でなければ,この次にははっきりわかるだろう。

 大韓民国の歴史教科書は,親日コンプレックスをもっている大韓民国の主流社會の弱点を覆い隠すために,植民地時代関係史を歪曲しているのだ!!!

(4)いったいどこが歪曲だというのか?

 ならば,いったいどこか歪曲だというのか,本格的な話に移るまえに,いったんここで,さわりだけ垣間見させてあげよう。

 3・1運動が時期的に,日本国内(植民地朝鮮を含む)の食糧不足騒動が全国的な騒擾になり日本全国でデモと騒擾が頻発した時期と一致するということを,わが国の若者たちは知らない。直接・間接的に,食糧不足に対する不安が万歳運動へつながったという事実を知れば,わが国の学生たちは韓国人の愛国心の不足を恨み嘆くだろうか? とんでもない。日本国内における不安は略奪と放火にいたったが,韓国においては独立を要求する肯定的な方向に向かっていった。なぜ3・1運動の原因を必ず愛国心の発露として表現しなければならないのか?

 いわゆる文化統治というものが愚民化政策だったと固く信じている学生たちに向かって,大正デモクラシーという日本の民主化政策の延長線上で朝鮮の文化統治が始まったということを,どのように説明したらいいだろう? 3・1運動以後,激烈な抵抗によって文化政策が生まれたというのは,少々歪曲ではないか?

 食糧を収奪したというところ,韓半島から食糧を略奪していったという記述において,ほとんど歪曲の極致を見ることができる。知ってのとおり,植民地朝鮮で民族資本が形成された時期は,日本へ大量の食糧を輸出した時期と一致する。朝鮮内の食糧が日本市場に売られたことが民族資本形成に大きく寄与したという事実を,なぜ否定するのか? 食糧の「輸出」を「収奪」と言うのは,まさに「侵略」を「進出」と言うのに匹敵する言語道断の物言いだ。

 たぶん今ごろ,ウサギのように目を真っ赤にしてモニターをひっくり返そうとしている読者が多いことと思う。ちょっと待ちたまえ。それは私のモニターじゃなくて君たちのモニターなんだから。そして誤解なきよう。日本の侵略が正当だったとか、美化しようというのではない。ただ、事実をありのままに見ようというのだ。行き過ぎた愛国心と自激之心のためにオーバーに言うのはよそうということだ。われわれがまず堂々としていなければ、他人の教科書歪曲や妄言に堂々と立ち向かうことができようか? 日本の極右が悪いと言いながら,われわれがあいつらそっくりに韓国の極右を演じることができようか?

 さっき要旨のみを書き並べたこと、そしてそのほかの事項については次号で詳しく述べることにする。

 乞ご期待。

日帝時代の検証~食料収奪①

コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日帝時代の検証~食料収奪① | トップ | 日帝時代の検証~食料収奪③ »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (hana)
2007-06-15 11:11:14
面白い!続きを待ちます。
この文章発表後に起きた反応なども知りたいです。
返信する
ワシントンポスト紙 (スンドゥプ)
2007-06-16 11:30:18
日本の議員たちがお金を出し合ってワシントンポスト紙に慰安婦問題についての広告を出したそうです。
http://www.asahi.com/politics/update/0615/TKY200706150143.html
もちろん韓国でも報道される。
http://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2007/06/15/0200000000AKR20070615001100071.HTML
でも何とかならないのか、韓国の新聞の誤植多すぎ!
河野洋平→河野晋三
返信する
反応 (犬鍋)
2007-06-17 07:39:50
韓国ではテロメールが殺到したようですね。

日本では、こういう記事がでるなら韓国の未来は明るいという感じのものが多かったように思います。
返信する
社説 (犬鍋)
2007-06-17 07:42:15
にも出ました。

http://www.chosunonline.com/article/20070616000006
返信する

コメントを投稿

近現代史」カテゴリの最新記事