犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

ユンボギのその後④

2024-06-30 23:25:55 | 

写真:『ユンボギの日記』出版を伝える新聞記事

 前の記事で、「ユンボギの日記」の単行本化に関わったのが、ユンボギの通っていた国民学校の教師の金東植と、知り合いの朴進錫という作家であるということ書きました。

 小学校4年生が書いた日記には、字の間違いや表現のつたなさがあったでしょうから、それを教師の金東植やその友人で小説家の朴進錫が多少の修正を施したことは容易に推察されます。

 しかし、それだけではなく、内容の修正(改竄?)も行われた疑いがあるのです。

『ユンボギの日記』には、金東植が登場しますが、どの描写も非常に情の深い先生として描かれています。そして、ユンボギは日記の中で、金東植に深い感謝と尊敬の念を表しています。

 ちょっと不自然なくらいに。

 極めつけが映画の中の金東植先生。

 『ユンボギが逝って―青年ユンボギと遺稿集』(許英燮著)によれば、映画の中の金東植は「どっしりとして豪放な俳優の申栄均(シン・ヨンギュン)がうまく演じ、献身的な「先生」のモデルとして尊敬を受けさえした」そうです。

 一方、ユンボギに日記を書くことを勧めた担任の柳英子先生は、映画の中では、当時の人気女優、趙美鈴(チョ・ミリョン)が演じましたが、実際の先生や日記の内容とは違い、冷たく恐い先生として描かれていたため、ユンボギは続編の日記の中で次のように書きました。

 「趙美鈴おばさんは柳英子先生とはあまり似ていません。柳英子先生より何倍も恐い顔をしたし、話し方も冷たすぎました。柳英子先生がこの映画をごらんになったらどう思うだろうか。柳英子先生はこんなに悪い先生では絶対にありません。どうしてこうなったんだろうか。金洙容監督さんに手紙を書かなくては」

 金東植は、日記の記述に手を加えるとともに、映画の脚本や演出にも介入して、自分をよく見せるようにしたのではないか、という疑いがわきます。

 本がベストセラーになり、映画もヒットしたあと、金東植は二匹目のどじょうをねらって、『あの空にも悲しみが』の続編を企画します。

 それが『あの空にこの便りを』です。これは、1964年12月から1966年11月までの日記。ユンボギが5年生から中学1年生の時期にあたります。

 前掲書には、続編の出版に、「金東植の友人の作家、朴進錫が全面的に力を貸した」とあります。

 『ユンボギが逝って』に再掲されている第二作(抜粋)は、第一作に比べ、文章のレベルが格段に上がっています。ユンボギの学年が上がり、文章力がついたということも考えられますが、大人の文章、さらにいえば作家の文章であるように思います。

 ところで、第二作『あの空にこの便りを』については、印税支払いの記録が残っていないというのです。

 私は、第一作の印税を、一部だけユンボギに渡し、残りは金東植と朴進錫が山分けしたと疑っているのですが、第二作のほうは、朴進錫が「実質的な著者」として、全額持って行ったのではないか推測します。

 金東植は、映画公開の後、国民学校(小学校)の教師から、中学・高校の教官として栄転。国民学校の教師が中学、高校の教師になることは普通ないので、特別な待遇を受けたことになります。なお、韓国では、国民学校の教師と中学・高校の教師は、給料も相当に違います。

 ユンボギは、日記の書籍化・映画化を実現してくれた恩師について、悪く言ったり書いたりすることはありませんでしたが、友人は「最初は優しかった金先生がユンボギに対し強圧的になり、何かにつけてよく叱りつけた」と証言しているそうです。

 金東植は、MRA(道徳再武装運動)の幹部が大邱を巡回したときにMRAに参加するようになり、映画での知名度を利用して大邱地域の総責任者にまで昇りつめました。その過程で、ユンボギもその運動に引き込みました。

 これについてユンボギは、「金先生がぼくとMRAを利用して自分の立身出世を促そうとした」ようだと、珍しく先生への批判を口にしたそうです。

 やがて、金東植はユンボギと疎遠な関係になっていきました。

 また、ユンボギの国民学校時代の恩師、柳英子先生は、自身が映画の中で非常に悪く描かれたことに対して、金東植と対立。一時は名誉棄損で訴えようとしたほどだったといいます。

 さらに金東植は、友人で小説家の朴進錫とも仲たがいしたとのこと。もしかしたら、二冊の本と映画の収益をめぐる対立だったかもしれません。

 結局、金東植は国内にいたたまれなくなり、最後は米国に移民。関係者の誰とも連絡がとれなくなったということです。

 一方、『ユンボギの日記』は日本でも翻訳出版され、ベストセラーになりました。

 韓国で『ユンボギの日記』が話題になると、北朝鮮の機関誌が「南朝鮮の貧困」として報道。

 それを見た総連系の出版社である太平出版社から、1965年に翻訳出版されました。太平出版社は、会社を創立した直後で、最初の出版物の企画が別にあったのですが、その予定を変更し、急遽『ユンボギの日記』を社の「処女出版」として刊行しました。

 太平出版社の編集部は、『ユンボギの日記』の巻末に次のように書いています。

 「『ユンボギの日記』は、何千、何万にもおよぶ不幸な韓国の少年少女、不幸な家庭の姿が、なんのいつわりもなくつづられている。…朝鮮戦争のさなかに生まれたユンボギが、分断された祖国で、まだ戦争の惨禍からぬけきれないでいることが、ユンボギの悲しみと不幸の原因であろう」

 北朝鮮は、自らが引き起こした侵略戦争の後、「北朝鮮は地上の楽園」というプロパガンダを流し、それを真に受けた朝日新聞をはじめとするマスコミの支援の下、「帰還運動(北送事業)」を行なって、在日コリアンとその家族(日本人を含む)計約10万人が北朝鮮に渡りました。

 太平出版社は、北朝鮮に比べて遅れていて、貧困のどん底にあえぐ韓国のイメージを日本に広めるために、『ユンボギの日記』の翻訳出版を進めたのだと思われます。

 『ユンボギの日記』は、文部省指定図書にも選定され、挿絵を多くした児童版、漫画版なども出て、1992年には100刷を重ねるほどのロングセラーになりました。

 では、ユンボギは、この日本語版の印税を受け取ることができたのかというと、受け取っていないようです。

 その理由は、韓国の著作権法にあります。

 『ユンボギの日記』が刊行された当時、韓国には1957年発効の「著作権法」がありましたが、その法律では外国の著作物の権利は保護されていませんでした。著作権保護は相互主義でしたので、日本でも韓国の著作者の権利は保護されない。

 したがって、1965年に発行された日本語翻訳版は、現著作者の許諾も著作権使用料の支払いも法的に必要なかったのです。

 その後、韓国は1986年に「万国著作権条約」に加盟しました。

 これを機に、日本版の『ユンボギの日記』も原著者であるユンボギに著作権料を払い始めます。

 『ユンボギが逝って』によれば、日本の出版社とユンボギの間の正式な契約は、1980年代後半、毎日新聞ソウル特派員の重村記者と許英燮氏の取り計らいで結ばれ、契約後に売れる部数について、ユンボギが印税を受け取れるようになったということです。

 しかし、契約は過去に遡及しないので、本がいちばん売れた時期(1965年~70年代)の部数については、印税は受け取っていないのでしょう。

 なお、『ユンボギの日記』は日本でも大島渚監督によって映画化されましたが、その際にユンボギに何らかの原作使用料が払われたかどうかについての情報はありませんでした。

 このように見てくると、「ガム売り少年ユンボギ」は周辺の多くの人々に利用されたことがわかります。

 以下は、『ユンボギが逝って』から引用

 しかし彼は、成長過程ではもちろん、家庭を築いてこの世を去る時までも、自分がこれほどまで有名になったことをさほどうれしく思わなかった。

 いっそのこと、あの時にあんなに有名にならなかったら、成長後、人の目を気にせず、もう少し自由な立場で自ら望む人生を生きることができただろうにと、かえって悔やむようなことを告白する時が多かった。


 ユンボギは本が刊行された後、読者からたくさんの手紙を受け取り、その多くに返信していたそうです。死んだあとには1000通を超える手紙を保管してあった段ボール箱が残っていたそうです。

 『ユンボギが逝って』の第四部には、そんな手紙の中から30通ほどが転載されています。

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