海鳴記

歴史一般

西南戦争・拾遺(46)

2010-08-10 11:49:33 | 歴史
 今回は、赤塚源太郎に関する資料を4点、他に『谷山市誌』(昭和42年刊)と『松山町郷土誌』の2点を送ってもらったが、後者はともかく、前者はいろいろな意味で読みこなすのがたいへんだった。今でもすっきり整理したはいえないので、まずは、『谷山市誌』と 『松山町郷土誌』について触れておこう。
 以前、『志布志町誌』を取り上げていたとき、6月12日、人吉から撤退中の大畑(おおこば)という地で、西郷軍200名の投降者のうち、志布志郷出身者では10数名の投降者を出したことが書かれてあった。その武装解除後、2人は「正直に」帰郷したため、同郷の者に処刑され、また、酒匂亀五郎と菊田源五郎の2人は、16日、本隊に戻ろうとして小林本営に辿り着いたところ、官軍の「スパイ」と疑われ、かれらも処刑されたことも触れた。
これらを記述している中に、谷山郷士族31名、松山郷士族3名も降伏したとも書いていたのである。だから、それが掲載されているかどうか確認したかったのであるが、結論から先にいえば、案の定、何の記述もなかった。
 とくに『谷山市誌』などは、圧巻だった。他の郷土史に見られるような、戦争の通史的な記述はほとんどなく、ほぼ官軍が鹿児島に入ってからのことを記録している『鹿児島県庁丁丑日誌』と「丁丑役出旅要記」という項目を設けて、同郷出征者の日記を掲げているだけなのである。
 後者は確かに戦争の状況をリアルに伝えるという意味では、へたなまとめ方をしてもらうよりずっと有難い。だが、ほとんどこちらが欲しい情報などない場にいた人物の記録なのである。投降の事実を隠すため、まるでそういう場面のない記録を選び、掲載したかのように。
 これでは逆に、谷山郷出征者たち全般の動向を記述してもらっていたほうが有難かったが、今さらどうしようもない。
 『松山町郷土誌』にいたっても、『谷山市誌』同様、西南戦争に関する限り何の収穫もなかったが、一つだけ気になるところがあった。戦犯者の「除族」のことである。「除族」というのは、もちろん士族籍を剥奪されることだが、それは本人だけのことで、すぐ跡継ぎをたてれば、その家としては士族を継いだことになる、と書いてあったのである。もし、これが本当のことなら、私は少し認識を変えなければならない。私は、士族籍を剥奪されるということは、その家の者も平民になると思っていたのである。
 今のところ、これらの二誌で収穫だったのはこれくらいのことだろうか。

西南戦争史料・拾遺(45)

2010-08-09 11:14:15 | 歴史
 とにかく、明白なことは、4月の3日か4日に上場に連行された12人全員が殺害されていたことだけだ。しかしながら、なかなか一筋縄にはいかない願書の内容であった。ただ、この出水事件の真相に関しては、この願書も『丁丑乱概』や『市来四郎君自序伝』と並んで重要な史料になってくるから、今後も触れることになるだろうが、この事件記述以後は、やや長々と改葬願いの理由を述べて終わっている。
 さて、この願書が出されたのは「明治十年七月」とだけなっており、日付はない。おそらく、黒江らが官軍に投降した7月3日以降だろう。おまけに6月22日には官軍が重冨に上陸し、そこから薩軍が撤退したあとは、政府軍が戸長役場を占拠していたのだから、もはや私学校徒たちに遠慮はいらない。
 もっとも、この地域の状況はそう単純に沈静化したわけではなかった。8月17日の深夜、可愛岳を突破し、鹿児島に戻ろうとした西郷軍は、28日には小林に入り、そこで一波乱を巻き起こしたことは以前述べた。その2日後の夜、溝辺(みぞべ)を経て、姶良の山田郷という地区に着いている。それから、翌日の8月31日、一行は山田を発って蒲生に向ったが、途中、自宅を政府側巡査に提供していたという理由で福重福右衛門という人物を捕らえ、蒲生まで連行し、そこで殺害したという。こういう報復行動は、かれらが小林を去った翌日の29日の夜、飯野(えびの市)でも行われている。政府軍に懇請されて戸長を務めていた松形祐高という人物の例だ。松形は、琉球生まれともいわれ、鹿児島城下から飯野郷の松形家に養子に入った人物で、農民たちの間では人望も高かった。しかし、地元士族の間では「よそもの」という意識が強く、妬みの対象でもあったらしい。いわば、その士族の誰かの告げ口によって、かれが仕事で出向いていた先の家で酒宴中に襲われている。そしてそこから連れ出されると、川内川の河原で斬首されているこ。
 この斬首を執行したのは、鹿児島城下出身の16歳の少年だったといわれている。このことを感じとった、すでに54歳の松形は、かれが後ろに回ると「しばらく」と一言し、「髪の毛が乱れている。それでは斬りにくかろう」とそれを手で撫であげ「もうよかろう」と静かに目を閉じたという(『えびの市史』平成6年刊)。
 なお、山田郷の福重福右衛門を斬ったのは、帖佐の小城隊に属していた帖佐士族だった。この帖佐隊の小城宗一郎については、のちのち触れることにするので、今回は詳述を避ける。次回は、いよいよ最初に薩軍から脱落した赤塚源太郎隊について述べることにしよう。

西南戦争史料・拾遺(44)

2010-08-08 11:33:36 | 歴史
 ところが、もし殺害された重冨郷士族の遺族が出した願書の内容が正しいとすれば、また、土岐半介が大口本営にいる辺見十郎太に直接情実を訴えていたとしたら、私の訳はずれていることになる。
 そういうズレが生じたのは、私は、始めから辺見はそこにいなかったと考えていたので、「辺見十郎太ヨリ」という表現を主語と見なさなかったからだ。つまり、土岐が11人の情実を訴えたのは辺見ではなく、辺見の意を受けた誰かに訴え出て、それを拒まれたと解釈したからなのである。
 だが、「辺見十郎太ヨリ」というのを主語と捉えれば、本営の誰かを主語とした私の解釈はズレてしまう。そのため私は自信がない、と言ったのである。

 私自身ここまで整理してきて、先入観なしにもう一度読んでみた。その結果、辺見が実際に大口にいたかどうかはともかく、「辺見十郎太ヨリ」を主語と考えて解釈すべきだったのではないかと考え直している。
その理由として、ここでは、平和泉村に連れて来られた12人のうち、1人春山文平だけが先に殺されたことになっているが、こういう決定を下せるのは誰だろうかと考えたからである。
 春山文平は、城下士族の中で一番の大物である。その一番の大物を最初に、それも単独で殺す決定を下せるのは誰かとなれば、辺見ぐらいしか思い当らない。それに、もし仮に、辺見の意を受けた責任者のような者がいたとすれば、その人物の名前が主語として登場してもおかしくないはずではないか。
どちらにしても、この願書の内容が正しいかどうかもよくわからないのだから、何とも言いようがない。
 ところで、ここでは、殺された12名の中に、帖佐士族出身の岩爪隆助が出てくる。『姶良町郷土誌』では、詳細はわからないとして、殺害された者の中に入れていなかった。ということは、この願書の内容を正しいと認めていない、ということになる。
逆に、上場出身の養鶏農家が建てた墓にかれの名前があるということは、出水の郷土史家であるT氏が、この史料も読んでいたということなる。そうだったのだろうか

西南戦争史料・拾遺(43)

2010-08-07 17:08:07 | 歴史
 これは重大なことのように思われる。なぜなら、もし土岐が大口本営の誰かではなく、直接辺見へ訴え出て、情実はできないと断られているとしたら、辺見が直接12人に手を下さなかったとしても、4月3日、4日頃には大口周辺にいたということになる。だとすると、『薩南血涙史』で言っていたことは嘘になってしまうのである。では、その部分の詳細を私の『西南之役異聞』から引用して説明しよう。

・・・『薩南血涙史』によれば、辺見十郎太や別府晋介らは、3月25日に大口に本営を設け、それ以前から集めた兵士1,500名をそこに収容し、一大隊として編制し直し、指揮長を別府晋介、辺見十郎太の二人としている。そして、3月31日、かれらはその兵を引き連れて熊本の人吉に移動しているのである。今度はそこに本営を築き、翌日は、一日休息して、人馬の英気を養ったと記している。それというのも、これより以前、官軍が八代(やつしろ)に上陸し、そこから熊本城の鎮台に武器弾薬食料を運びこもうとするのを、熊本の薩軍と辺見らの新しい部隊が挟み撃ちをして、かれらを殲滅しようという作戦を立てていたのである。そこで、休養明けの4月2日には、官軍のいる八代まで部隊を進めようと、人吉を出発して球磨(くま)川沿いの湯治村というところまで来て、その日はそこに宿陣した。翌日の3日には、そこを出て、中村というところまで軍を進めたが、敵状を偵察させると、官軍は八代より少し球磨川を上った坂本というところに陣を敷いていることがわかった。そうとわかると、別府は熊本本営の桐野利秋へ、辺見は宇土(うと)本営の永山弥一郎にそれぞれ書状を出し、明日4日の坂本攻撃を知らせたという。『薩南血涙史』は、その書状も掲載している。・・・

 これは、出水市教育委員会が現場に建てた案内板の内容が違うのではないかと論証したものなのだが、ついでだから、案内板の一部も引用してみる。

・・・十二人は、四月三日、辺見の前に引き出され、再度従軍を勧められたが、頑として節を曲げず屈しなかった。辺見らは士気高揚のために、仕方なく、この十二人を、大口平出水を通り、クマザサにおおわれたここ上場に連行し、山桜が薫風にのって散る四月四日、斬首に処した。・・・

 私は、『薩南血涙史』に引用されている辺見の手紙を実際に確認したわけではない。しかしながら、著者がわざわざ捏造までして、辺見のアリバイ工作をする必要も認められないので、辺見は大口周辺にはいなかったと考えていたのである。今までのところは。

西南戦争史料・拾遺(42)

2010-08-06 09:21:34 | 歴史
 同3日。その日の午後一時ごろ、鹿児島居住士族である春山文平が、平和泉村の六ヶ所という場所で殺害された。これについて、我々(予輩)11人は、まったく罪を犯した覚えもなく、おまけに審理(糾弾)も経ず、罪を犯したかどうかも明らかにしないで殺されるのは道理(条理)に合わない。だから、審理をしてもらいたい、と隊長・土岐半介に申し入れたところ、まったくその通りだと同情して我々の意を汲み、すぐに本営に出向き、赦免のことを熱心(頻り)に訴えた。ところが、辺見十郎太から(ヨリ)、この件については決してそれはできない(と言われているので)もし土岐が部下をすべて殺害するなら、11人は助けてもよい、と固く拒否するので、ついに審理(糾弾)することもなく、同4日午前10時ごろ、平和泉村六ヶ所において、帖佐居住士族岩爪隆助より、鹿児島居住士族池田某(周平)、徳尾源七郎(政高)、弟徳尾直治(?)、ほかに2名(姓名不詳)、重冨居住士族中村兼武、高山一角、山口一斉、別府量輔、重冨松村平民黒石川二助(仁助)まで、順々に殺害し、そこに埋(仮埋)めた。
 検使(死?)人は、半隊長佐土原居住士族である某で、これは、牛山郷居住士族の松元市之進が見聞したことを、家族や親類の者が聞いたことである。

 どうも途中から主語が変わったのは、この松元市之進の見聞をいわば直接話法で語らせていたことによるようだ。
ところで、途中一ヶ所、訳に自信がない部分があったので、その前後を抜き出してみる。私の解釈は違うという方がおられたら、ご指導願いたい。

・ ・・(土岐半介が)直ニ本営ヘ出頭情実訴出、赦免ノ儀半介ヨリ頻(しき)リニ為申出由(申しいでさせよし)候得共、辺見十郎太ヨリ、此儀ニ於テハ決テ不相成、「土岐兵隊惣而(そうじて)致殺害候ハバ十一名の命ハ可助(たすくべく)ト堅ク相拒(あいこば)ミ」、終(つい)ニ糾弾不致、同四日午前十時比(ごろ)平和泉村・・・

 上記引用の「 」の部分である。この部分だけとって訳せば、「土岐(半介)の兵隊」を主語として解釈するか、土岐が主語で兵隊を目的語にするかだが、前者はまったく意味をなさない。だから、後者のように解釈して訳したのだが、どうだろうか。「辺見十郎太ヨリ」とあるので、本営(大口のことだろう)に辺見はおらず、ほかの誰か(主語)が言ったことなのだろうが、ここの文章では誰が主語なのかはっきりしないのだ。


西南戦争史料・拾遺(41)

2010-08-05 11:29:10 | 歴史
 では、願書の内容に移っていこう。逐語訳的な文章になって、わかりにくいところも出てくるかもしれないが、お許し願いたい。
 前回言ったように、願人は、別府量輔、山口一斉、高山一角、中村兼武の遺族なのだから、平民・黒石川仁助を除く、4人の名前が並んで最初に挙げられている。それから、本文が始まり、3月27日、かれら4名に、重冨郷出張仮役所にいる戸長名で、出頭命令が出された、とある。そこで、4人がそこに出向くと、加治木の警察第四分署へ差し回されることになった。そしてそれは、それぞれの家族に、毛布一枚を持って来るようにと連絡が入ったことでわかった。が、家族は何の「御用」でそんなことになったのか皆目わからない。どうしようもないので、とりあえずそれぞれの家族・親類は、毛布と弁当(飯食)などを用意して、加治木に向った。すると、その途中で、4人を加治木の警察署へ連れて行った重冨の副戸長が戻って来るのに出遭う。
 家族たちは、早速かれに4人の様子を尋ねると、かれらはそこで捕縛され、かれらが携行品を預かってきたという。ともかく、家族・親類は急ぎ警察署に出向いた。だが、そこに至って、毛布等を渡したいからと面会を申し込んでも、巡査に拒否される。仕方なく、その巡査に毛布等を4人に渡してくれるように頼んで、家族たちは家に帰った。
翌日の29日朝、4人を心配している家族は、家僕に弁当を持たせて、再度、加治木の警察署へ向わせたが、4人はすでに大口郷の牛山というところに差し回されていたという。そこで、また家僕を牛山に送ったが、面会もままならず、4人も戻らなかった。
 4月1日。4人の家族は、食事はもちろん、旅費などにも困っているのではないかと、またこの日に家僕を牛山に遣わした。家僕がそこに至ると、牛山の牢(禁固)番人に、昨日、肥後のほうへ連れて行かれたといわれ、どうすることも出来ずに戻って来た。
 4月2日。(ここから主語が家族ではなく、殺害された側の人間が書いているような文章になっている)
十ノ五番隊、佐土原(薩摩藩の支藩)、綾・高原・野尻・高崎(以上日向)合併隊長土岐半介(鹿児島城下士族)、半隊長何某(佐土原士族)らに囲まれて、捕縛人12名が牛山平和泉(ひらいずみ)村の平民新助のところに連れて行かれる。

西南戦争史料・拾遺(40)

2010-08-04 11:22:59 | 歴史
 くどいようだが、平成版『姶良町郷土誌』によれば、帖佐郷からは、415名という多数の従軍者があり、そのうち戦死者64名、戦病死者3名を数えている。だから、当時このすべてが把握できていないとしても、日清・日露の殉難者などおよびもつかない頁数を割かなければならいはずだったのだ。
 ところが、印刷屋へ出す前の最終稿でそれらの人名だけを消し去ってしまったかのように、突然次の項目に移っているのである。何らかの後難を恐れた編集委員たちの手によって。ただそれでは、帖佐士族の末裔である自分たちの名がすたる。その結果、あの「遠野物語」の一挿話に匹敵する「恐怖譚」を掲げ、それを唯一の帖佐村における西南戦争記録としたのではなかろうか。若干ユーモラスな文体で、謎かけでもするかのように。

 どうも話が青駕籠のようにあっちこっちに飛んで申し訳ない。今回も、以前頼んでいた『蒲生町郷土誌』などは数日前に届いているのだが、今度は平成版『姶良町郷土誌』を読み返していると、またまた忘れていたり、読み飛ばしていた部分が見つかったりした。それを語っておかないと、次にまた変なところで挿入することになりそうなので、ここで先にそれを述べておこう。
 一つ目。忘れていたというのは、黒江豊彦の行動記録だ。これは昭和版『姶良町郷土誌』で気づき、平成版にはなかったかのように書いてしまった。が、これは、昭和版を基により具体的な記述があったこと。二つ目。読み飛ばしていたというのは、出水事件のことに関して、である。前者は謝るしかないが、後者は、私自身の収穫でもあったので、『蒲生町郷土誌』の赤塚源太郎らの話に移る前に、これを紹介しておかなければなるまい。
 
 まず、出水上場で斬殺された重冨郷出身者として、別府量輔、中村兼武、山口一斉、高山一角、それに山口一斉の助手である平民の黒石川仁助の5人を平成版『姶良町郷土誌』で認定している。ただ、考証に厳密な同郷土史は、帖佐郷出身の岩爪隆助のことは詳細がわからないとして、公的には認めていない。このことは前にも触れた。
 さて、平民黒石川仁助を除く、別府、中村、山口、高山らの遺族が、出水の上場で仮埋葬されたかれらの遺骸を、すでに政府軍が管轄していた大口の牛山郷警察署(注)を通じて地元の寺に葬るための改葬願書を出した。そして、その願書の草稿と思われるものが残っていて、それを出水事件の一部がわかるものとして、掲げている。言い訳がましくいえば、この文字が小さいので、すでに老眼の私は敬遠していたのである。

(注)・・・現在の上場は、出水市区域になるが、当時は大口郷内になっていたのだろう。

西南戦争史料・拾遺(39)

2010-08-03 11:46:14 | 歴史
 ところで、黒江らの隊のその後はというと、6月29日、官軍の一隊が帖佐の松原という地区に進撃したので、行進十番中隊も出撃したが、地の利を得ず、退却した、とある。それから、運命の7月3日、黒江豊彦および川崎吉兵衛、川崎助左衛門以下226名は、夜半ひそかに帖佐平安城を下り、重冨にあった官軍本営に投降した。その後は、重冨戸長役場に3日間留置され、以後自宅謹慎となった。そして黒江以下の士官(川崎たちもだろう)は、官軍の教導となって延岡方面まで官軍に従軍したので、その功で罪を免除された、と書いて終わっている。

 ここで、『帖佐村郷土誌』の「恐怖譚」に関する考察はここまでにして、最後に、以前途中で切ったという「西南戦争殉難者」の部分を抜き出してみようと思う。「恐怖譚」のように全章の最後の「無題録」に収められている。

(四十五)帖佐村の表彰
    表彰状(写)         鹿児島縣姶良郡帖佐村
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  昭和二年十二月十四日
            熊本税務監督局長従四位勲三等 篠崎 昇
 このような表彰状の写しが、このあと頁を変えて3つ並び、そのあとは次のようになっている。

    帖佐村の殉難者        (次第不同)
明治二十七八年(日清戦争・・・私注)戦役死者
        海軍二等水兵     ・・・・・
        同          ・・・・・
        陸軍歩兵上等兵    ・・・・・
明治三十七八年(日露戦争・・・私注)戦役死者
        上記と同じように、だが14名の戦死者名が続く。その後は、
明治十年戦役戦死者 と大見出しはあるのだが、誰の名前もなく、
(四十六)帖佐中津野の大力者 という見出しになり頁が変わっているのである。

西南戦争史料・拾遺(38)

2010-08-02 11:11:04 | 歴史
 それでは、この旧暦の5月12日(6月22日)というのはどういう日だったのかという前に、まず黒江らの行動記録を見てみよう。
 前々回触れたように、黒江は、別府晋介の前衛連合大隊・第七大隊二番小隊長として、また、のちに黒江と行動をともにする川崎吉兵衛、川崎助左衛門らは、それぞれ第七大隊五番、七番小隊の隊長として先発していた。それが、4月末に人吉へ退却したあと、隊の全面的編制替のため、黒江は行進十番中隊の中隊長、両川崎は、その隊の小隊長となっている。そして、かれらは薩軍人吉撤退前の5月初めに鹿児島に入り、5月8日から、帖佐、重冨を守備していた。
 それから6月22日まで、昭和版『姶良町郷土誌』には具体的な行動記録は何も書かれていないが、この日、官軍の第四旅団、別働第一および第三旅団が、艦船で海側から重冨に上陸し、そこで薩軍と戦闘を交えたとあるのである。そして、行進十番中隊を率いていた黒江豊彦らもこれに出撃したが、「利あらず」と退却している。
だから、重冨に住んでいた女の子にとって、まだまだ地方では当たり前だった旧暦表示の5月12日が、生涯忘れられない日となったのである。戦争の恐ろしさを象徴する日として。
その結果、本当は3月の半ばに辺見や淵辺らによって募兵され、4月3日に出水の上場で斬殺された岩爪隆助(注)もすべてこの日に集約されて記憶されたのだろう。だが、他の青駕籠に乗せられたと思われる別府量輔、中村兼武、山口一斉、高山一角、黒石川仁助らはどうしたのだろう。なぜ岩爪隆助だけが記憶され、他の被斬殺者は記憶されなかったのだろう。
 実際、本当のところはよくわからない。ただ、岩爪隆助の名前だけが記憶に残っていたとすれば、かれは医師として娘の家だった溝口藤十郎家に出入りしていたのではないか、と考えられるだけだ。つまり、溝口家では、この医師の名前が頻繁に語られ、のちのちまでこの女の子の記憶に強烈に焼きついたのではないか、と。
 もっとも、この女の子自身は、父親が殺されず、その代わり岩爪隆助ドンが殺されたことに「まあ、よかったわ」と言っているようなのだが、養女として貰われた隣村の山田家でも何度も耳にしていた可能性はある。

(注)・・・平成版『姶良町郷土誌』では、詳細はわからないとして公的には認めていない。だが、あの出水上場に建てられた墓にはかれの名前はしっかり刻まれている。

西南戦争史料・拾遺(37)

2010-08-01 11:09:56 | 歴史
 西郷の出発時期云々はこれぐらいにして次に進むと、この話を語った女の子、のちの山田芳子刀自が登場する。いわば前振りとしてかの女がどんな性格の女の子かを紹介しているのだ。好奇心旺盛で、物怖じしない、男の子のように描かれているが、この書き手にはそう思われたのだろう。
 「偉な体格の上から金色燦然たる陸軍大将の服を」着た男の顔などまじまじと見つめられるのは、無邪気で無辜な子供くらいだろうから。
 これに対して西郷がどう反応したかは、何も書かれていない。おそらく、西郷もあのギョロ目でしばらくじっと見つめ、それから笑って何か言葉を発したかもしれない。いや、その前に周囲にいた誰かが女の子をそこから去らせようとしただろう。しかし、女の子は「毫(ごう)も臆する色なく、やつぱりまたたきもせず一心に西郷大将の容子(ようす)を眺めて居つた」と綴られている。が、実際は何も耳に入らず、金縛りにあったようにじっとしていたに違いない。というのは、この郷土史の書き手とは違って、恐怖や不安感から、いわば怖いもの見たさで西郷の前に進み出ていたのだから。
 女の子は、父親や周囲の者から、西郷の話は聞いていた。もちろん、父親はよく言わなかっただろう。島津家の忠実な家臣だったのだから。それゆえ、不安だったのだ。父親もこの男に連れさられて戦争に行ってしまうのではないか、と。

 さて、時が進んで、それから5ヶ月後の5月12日。これは新暦では6月22日に当る。そして、この日付は、計3度繰り返されている。だから、よほど記憶に残る日だったのだろうと思われるが、今まではよくわからなかった。というより、ほとんど正確に記しているとはいえない数字が多いのでそれほど気に留めなかったというほうが当っているかもしれない。ところが、昭和43年版の『姶良町郷土誌』に何気なく目を通していたとき、意外な項目があるのを知り、その中に、6月22日は、この地域にとってもっとも記憶に残る日だったということがわかってきたのである。
 この昭和版『姶良町郷土誌』は、ほぼ完璧な平成版のそれを強調するあまり、私自身もあまり注視していなかった。というより、戦前版の写しが欲しかったのにそれが含まれていなかったので、ほぼ等閑にしていたのである。頁をざっとめくるだけで。
だから、今回、黒江豊彦らの行動が概略記されているのを見て私自身が驚いてしまったのである。