売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

『幻影2 荒原の墓標』第21回

2014-06-06 12:18:37 | 小説
 東海地方は一昨日梅雨入りしました。
 朝のうち、少し晴れ間が覗いたので、短時間でも布団に日を当てようと思い、布団を干しました。
 西の空が暗くなってきたので、すぐに布団をしまいましたが、1時間足らずでも布団を干せれば、気持ちいいですね
 今、ごろごろいっています
 今回は『幻影2 荒原の墓標』21回目の掲載です。
       


            

 八月一〇日は千尋の誕生日だ。美奈は心の中で、 「千尋さん、誕生日おめでとうございます」 と千尋に語りかけた。もし生きていれば、千尋は二八歳で、葵と同じ年齢だ。トヨは同じ年の一一月の生まれだ。姉の真美の生年は一年早く、まもなく二九歳になる。
「美奈さん、覚えていてくれたのですね。ありがとうございます。でも、今の私には、肉体を持っていたころの誕生日は無意味なのです。むしろ、死んで霊界に誕生した三年前の一〇月一〇日こそ、新たな私の誕生日といえます。霊界入りして、ずっと地獄のような境界(きょうがい)で苦しんできましたが、美奈さんに救われ、今は霊界でも多少高いところに向上することができました。これも美奈さんのおかげです。私は美奈さんを守護しながら、神界、霊界よりもさらに上の、神の世界ですが、その高い境界に進めるよう、精進したいと思っています」
「こちらこそ、千尋さんには護っていただき、本当に感謝しています。今度の事件についても、いろいろヒントをいただいていますし」
「でも、事件については、私にもよくわからないことが多いのです。これが人間が起こした事件なら、私にも真相があらかたわかるのですが、強力な怨念を持った霊が介在しているので、私でもどう展開するのかわかりません。だから、美奈さんも決して危険なことはしないでくださいね。いくら私が守護しても、絶対ではありませんから。特に強い物理的な力に対しては、私の念動では歯が立たないこともあります」
「はい。事件については、興味半分で首を突っ込んだりはしないで、三浦さんや鳥居さんに任せるようにします」
 美奈は無茶な行動を慎むことを千尋に約束した。

 北村は執筆を主に深夜にしている。完全な夜型の生活リズムになっている。深夜のほうが静かで、能率が上がるからだ。今は暑い盛りなので、夜中の方が、多少涼しくもある。明け方五時頃に就寝し、昼頃起きる。大岩は何日か北村を見張っていた。市街地で、あまり目につくのを避けるため、一回の張り込みであまり長い時間をかけることを避けていた。
 何回めかの張り込みのとき、夕方、目深(まぶか)な帽子やサングラスで顔をわからないようにした北村が出てきた。大岩は、これは何かあると思い、こっそりと北村をつけた。北村は御器所駅から地下鉄に乗った。北村はユリカという、名古屋市交通局が発行したプリペイド式乗車カードを使った。どこまで行くのかわからなかったが、大岩もユリカで自動改札機を通った。
 北村は鶴舞線で伏見まで行き、東山線に乗り換えた。そして中村日赤で下車した。大岩はピンと来た。帽子やサングラスで変装したのは、ソープ街に行くためなのかと思った。大岩自身も、尾行のために変装している。バカバカしい、帰ろうかと思ったが、たまには自分も遊んでいこうと気持ちを切り替えた。そういえば、最近は姿なき殺人者に怯えるばかりで、しばらく女を抱いていない。
 北村はオアシスという店に入った。大岩は少し時間をおいて店に入った。フロントで入泉料を払うとき、ご指名はありますか? と訊かれたので、 「初めてだから、特にない」 と応えた。
「タトゥーがある娘(こ)でもいいですか? その娘ならすぐ行けます。タトゥーをしているけど、素朴でいい娘ですよ」
「タトゥーね。どんな図柄だい?」
「左腕にバラと蝶、腰に鯉と牡丹ですけど」
 そう言いながら、フロントの沢村はアルバムの写真を見せた。
「いいね。その娘にしよう」
 大岩は背中に鳳凰を彫っていた久美を思い出した。久美は秋田と仲がよかった。久美は仲間から抜けたいと言った秋田に、 「女の私でも背中にいれずみをするほどの覚悟を決めてやってるんだから、あんたも弱音を吐かないでよ」 と励ましていた。仲間から抜けようとすれば、制裁に遭うことを心配してのことだということが、大岩にはわかっていた。しかし下手をすれば、久美も秋田と手を取り合って、逃げてしまうのではないかということが懸念された。乱暴な佐藤が 「二人で逃げ出す前に、考えが変わるよう、ちょっと痛めつけてやる」 と秋田に制裁を加え、結局は死なせてしまった。そんな思いが大岩の頭をよぎった。
 待合室には他に三人、客が待っていた。北村もその一人だ。客はそれぞれ顔が合わないように、うつむいていた。しばらくして、男性スタッフが 「お客様、どうぞ」 と言って、北村をコンパニオンのところに案内した。大岩が上目遣いで相手の女性を見ると、制服からはみ出した腕や脚に、華麗なタトゥーがあるのが見えた。
「あの野郎もタトゥーの女がお目当てだったんか」
 大岩は周りに聞こえないような小声で呟いた。しばらく待つと、今度は大岩が案内された。案内係の男性の前に、左前腕部に赤と紫のバラ、そして黒っぽいアゲハチョウを入れた女性が、にこやかに微笑んで立っていた。長い髪を明るい茶色に染めた、やや面長のなかなかかわいい顔をした女性だ。
「こんばんは。リサです。どうかよろしくお願いします」 とリサが挨拶をした。最近は指名してくれる客が増えたが、今回は振りの客だ。
 リサは大岩の手を取って、自分が主に使用している個室に案内した。
「ここには作家の北村弘樹が来てるんだね」
 個室に入った大岩は、北村のことで探りを入れてみた。
「え、作家の北村先生ですか? 私は知りませんが」
「さっき見かけたよ。腕や脚にきれいないれずみした女の子と一緒に歩いて行ったよ」
「そうなんですか。でも、私たち、お客様のプライバシーには一切立ち入らないようにしているので、ほかのコンパニオンのお客様のことはあまり知らないんです。私たちにも、一種の守秘義務のようなものがありますから。義務というより、モラルですが」
 リサは、ミクさんのお客さんにそんな有名な人がいたのかと初めて知った。しかし、客のプライバシーに関することは、お互い詮索しないようにするのがコンパニオンとしてのマナーだった。外部には客のプライバシーを漏らさなくても、仲がいいコンパニオン同士の会話では、客のことを肴(さかな)にしておもしろおかしく話すことはある。だがオアシスでは、客のプライバシーを尊重することを、コンパニオンに徹底していた。大岩はそんなもんだろうなと思った。自分のことも、ベラベラ他のソープ嬢にしゃべられてはたまらない。
「あんたもすごいいれずみだな」
 リサの裸体を見て、大岩は驚いた。リサはさくらに、右側の腰から太股にかけて、大きく鯉と牡丹の花、波や水しぶきの模様を入れてもらっていた。つい最近完成し、やっとかさぶたも取れ、傷がきれいに治癒したところだ。鯉は黒だが、添えてある牡丹の花が赤やピンク、オレンジ、青、紫とカラフルだ。
「なんで墨なんか入れたんだ? あんたみたいなかわいい娘(こ)が」
 大岩も服を脱ぎながら、リサに尋ねた。
「私、高校生のころ、鬱病になって、手首にリストカットしたんです。深く切りすぎて、出血多量で病院に担ぎ込まれたこともありました。忌まわしい傷痕を目立たなくするために、手首にタトゥーを入れてもらったんです」
 リサは左手首を大岩に見せた。
「なるほど。よく見ると、傷があるな」
「でも、タトゥーを入れたおかげで、ちょっと見ただけでは、傷痕がわからなくなりました。それで、私も過去を吹っ切ることができたんです」
(高校のころ、リストカットをして病院に担ぎ込まれただと? どこかで聞いたことがある話だな)
 大岩はふと思った。そして、先日、いなべ市で秋田のことを探っていたときに聞いた話だと思い出した。
「俺の知ってる子も、リストカットしていたそうだがな。三重県のいなべに住んでいた子だけど」
 大岩はマットの上で身体を洗ってもらっているとき、先日聞いたことを、何の気なしに言った。すると、リサは一瞬硬直した。大岩はリサの変化を見逃さなかった。
「あんた、ひょっとして、秋田裕子か?」
 大岩も、まさかそんな偶然があるはずないと思った。しかし、そう思って見ると、顔つきに何となく秋田の面影がある。リサの表情はますますこわばった。これは間違いないと、大岩は直感した。
「お客様、私のこと、ご存じなんですか?」
「それじゃあ、やっぱり秋田の妹か?」
「兄のお知り合いなのですね?」
 リサは驚いて客に確認した。まさか兄を知っている人に会えるとは思わなかった。そして、無性に兄に会いたかった。大岩は秋田のことを言ってしまったのはまずかったかと反省した。しかし、妹から何か情報を得られるかもしれない。
「もし、兄のこと知ってたら、ぜひ教えてください。二年前に行方不明になって、とても心配してるんです」
 勤務中にもかかわらず、リサは大岩にすがった。
「いや、俺も学生時代のちょっとした知り合いで、会ったのは何年も前だから、今はどうしているか、知らないんだ。卒業してから、ずっと会っていないんでね」
 大岩は適当にごまかしておくことにした。もう死んだとは言えない。死んだと言えば、なぜ死んだのかと問われることになる。
「ご存じないのですね。ごめんなさい。今はお客様にサービスしなければならないのに、こんなことを言ってしまって。すみませんでした」
 リサは気持ちを切り替え、接待を続けた。最近リサも明るく積極的になり、精神的にも成長した。だから、意志の力で動揺を抑え、仕事を続けることができた。以前のリサなら、ここで仕事を放棄してしまいかねなかった。これもタトゥーで忌まわしい傷を目立たなくしたことにより、気持ちを吹っ切ることができたからだった。
 リサは無事五〇分のサービスを終えることができた。
 大岩に名刺を渡すと、 「兄貴のことで力になれず、すまなかった。でも、これからときどき会いに来る」 と言ってくれた。実際大岩はリサを気に入っていた。リサもそつなく、 「今日はありがとうございました。こんな私でもよろしかったら、以後ごひいきにお願いします」 と対応した。
客は力になれないと言ったが、ひょっとしたら兄の消息を知る手がかりをつかめるかもしれない。また来てくれたら、少しずつでも話を引き出そう、とリサは考えた。

「先日、鈴鹿の竜ヶ岳に登ってきました」

  

 ミクは山が好きな北村に竜ヶ岳の話をした。
「へえ、竜ですか。どんなルートで行ったのかい?」
「宇賀渓からホタガ谷を通り、登頂して、石榑峠(いしぐれとうげ)へ下りました」
「なるほど。僕もそのルートで登ったことがある。けっこうきつかったのですが。竜は展望がいいから、その苦労は頂上で報われましたけどね」
「はい。でも、その日は天気がいまいちで、下山時には雷雨に遭って、怖かったです」
 その日は天気予報でも午後に雷雨があると言っていたが、三浦が非番だったので、強行した。この機を逃すと、なかなか三浦は休みを取れない。二人とも山は十分経験を積んでおり、雷雨にも落ち着いて対処できた。雷の気配を感じたのは下山の途中、深い笹の草原から灌木帯に入ったころだった。雷が鳴った場合、少しでも低いところに避難しなければならない。二人は石榑峠から小峠への舗装道を下へ下へと急いだ。雷鳴はだんだんと近づいてきた。途中で雨が降り始めたので、レインスーツを羽織った。樹林帯に入り、一安心はしたものの、もし近くの木に落雷すれば、側撃を受ける恐れがある。二人は高い木から十分な距離をとり、姿勢を低くした。しかし、耳元でつんざくような雷鳴に、美奈は肝を冷やした。
「それで彼氏の胸元に飛びついたのですか?」
「そんな。彼氏なんていえる人、いませんわ」
「そんなことないでしょう。女性一人で山に行くだなんて。正直に白状しなさい」
「実は、怖いお兄さんが一緒だったんです」
 ミクはぺろりと舌を出した。三浦のことを怖いと言ったのは申し訳ないが、ある意味刑事なら、犯罪者にとっては、怖いお兄さんと言えるかもしれない。
「怖いお兄さんか。それじゃあ、僕なんか下手にミクさんに手出しできませんね。やはりミクさんとは、ここだけの関係にしといたほうがよさそうです」
 北村は愉快そうに笑った。ミクは 「怖いお兄さん」 と表現したが、交際相手が暴力団員とはとても思えなかった。事の真偽はわからないが、やくざは登山をしないと聞いたことがある。見栄を重んじるやくざは、汗だくになる登山よりも、ゴルフなど、もっとスマートなスポーツを好みそうだ。倶利伽羅紋紋(くりからもんもん)を入れたお兄さん方が、パーティーを組んで登山をしている場面を想像すると、いかにも恐ろしかった。
 北村としては、店の外でもミクと個人的に付き合ってみたいという気持ちは強いものの、マスコミ等に見つかった場合が怖かった。北村も我が身がかわいいのだ。しかし北村はさばさばしていて、客としてミクは好意を抱いていた。ミクにとっても楽しい九〇分だった。今回北村は初めて、ダブルで九〇分の時間をとった。

 美奈は今日の裕子の様子が少しおかしいと感じていた。北村を接待する前はそんなことはなかったので、そのあとの客と何かあったのではないかと思った。その日は恵と美貴は盆休みを取っていたので、二人だけで話をしようと思い、勤務終了後、美奈はいつものファミレスに裕子を誘った。
「今日、裕子さんの様子、ちょっと変だったけど、何かあったんですか? お客さんのプライバシーのこともあるので、あまり無理には聞かないけど」
 オーダーしたパスタが届いてから、美奈は単刀直入に尋ねた。
「気付いていたのですね、美奈さん」
 それだけ言うと、裕子はしばらく沈黙した。美奈は急かさず、裕子がしゃべり出すのをじっと待った。話したくなければ、それでもいいと思っていた。客のプライバシーに関係することなら、無理に聞き出すこともない。
「美奈さんだったら信頼できるから、話してもいいと思います」
 長い沈黙のあと、裕子が口を開いた。実際には二、三分だったろうが、美奈には実際よりずっと長い沈黙に思われた。
「ここで聞いたことは、裕子さんの許可がなければ、誰にも言わないわ。たとえメグさんや美貴さんにでも」
 美奈は口外しないことを約束した。
「秘密というほどのことではないんですが、実は今日みえたお客さんが、私の兄のことを知ってるようなんです。美奈さんのお客さんが有名な作家の先生だということも知ってました」
「私のお客様のことも? それで、お兄さんのことはわかったんですか?」
「いいえ、会ったのは何年か前だから、今はわからないとのことでした。学生時代の知り合いと言ってましたけど、兄は大学に行っていないから、高校時代の友人かもしれないです」
「そうですか。それは残念でしたね。お兄さん、消息わかるとよかったんですが」
「でも、考えてみると、高校時代の友人にしては、少し年上のような感じがするんです。兄は今二六歳なんですが、その人はどう見ても三〇歳以上の感じでしたから。それに、あとで気付いたのですが、私がリスカして病院に担ぎ込まれたのは、兄が高校を卒業したあとなんです。卒業してから兄とずっと会っていないと言っていましたが、それだと私のリスカのことも知らないはずです。だから高校時代というより、兄が家出してからの、最近の知り合いなのかもしれません。おおやまさんと名乗っていましたが、たぶん偽名でしょうね」
 おおやま(大山?)という姓を訊いて、美奈は大岩康之を連想した。そのときは単に事件の関係者の名前が浮かんだだけだった。しかし、すぐに美奈ははっとした。
 人が偽名を使う場合、自分の本名に似た名前を使うことが多いという。繁藤安志も安藤茂と名乗っていた。ひょっとしたら、その人は大岩じゃないのかしら? 北村先生を知っていたということは、北村先生を尾行してオアシスまでやってきたのでは? 北村先生の作品と同じ名前の登場人物が次々と殺されているので、その一人の大岩が、自己防衛のために北村先生に目をつけた、ということは十分考えられる。徳山久美、山下和男、佐藤義男と何らかのつながりがあり、そのグループに裕子さんのお兄さんもいる?
「美奈さん、どうしたんですか?」
 急に考え込んでしまった美奈を見て、裕子は心配そうに尋ねた。
「裕子さん、これは単なる私の妄想かもしれないけど、今考えたことを話します。全然見当違いかもしれないから、そのつもりで聞いてくださいね」
「はい」
 深刻そうな表情の美奈を見て、何か重要なことに気付いたのではないかと思い、裕子はゴクリと唾を飲んだ。裕子は美奈の推理と、さくらが描いた似顔絵が、二件の殺人事件を解決に導いたことを知っている。
「裕子さんも北村先生の作品の登場人物と同じ名前の人が次々と殺されている、という事件のことは知っていますね」
「はい。テレビなんかでも見たことがあります。お客さんのプライベートな話をしてはいけないけど、おおやまさんが、美奈さんのお客さんがその北村先生だと言ったので、びっくりしました」
「私、そのおおやまと名乗った人は、ひょっとしたら大岩さんじゃないかと思ったんです。作中で予言されている大岩康之さんです」
 美奈はファミレスの他の客に聞かれないよう、声を潜めていった。
「そういえば、おおやまと大岩、似てますね」
「私もそう思ったことから、憶測したことなんですが。大岩さんなら、事件のことが気になり、北村先生を監視していたことはあり得ると思うんです。それで、北村先生が出かけたから尾行したら、お店に来たので、大岩さんもこの際遊んでいこうとお店に入り、偶然裕子さんのお客となった」
「大岩さんは殺された人たちの仲間で、ひょっとしたら兄もその仲間になっているのかもしれないですね」
「間違っているかもしれませんが、私はそう考えたんです。徳山久美さんの背中には鳳凰のタトゥーがあったそうですから、もし大岩さんがその仲間なら、その影響でタトゥーがある裕子さんを選んだのかもしれません。指名のないお客さんに私たちタトゥーがあるコンパニオンを紹介するとき、沢村さんはいきなりタトゥーを見て、お客さんを驚かさないように、タトゥーがある娘(こ)でもいいですか、と確認しますから」
「私も美奈さんが言ってること、当たっているんじゃないかと思います。おおやまと名乗った人は、たぶんその大岩さんだと思います。そして今の兄も知っている。でも、どうして今は知らないと言ったんでしょうか」
「秋田さんはまだ北村先生の作品に名前は出ていないから、無事だといいのですが。でも、私はちょっと不安なんです。こんなこと言っては裕子さんに申し訳ないのですが」
「いいえ、私もなぜか得体が知れない不安を感じるのです」
 二人はしばらく沈黙した。重苦しい沈黙だった。裕子は兄が何かよくないグループに入っているんじゃないか、と考えた。だからこそ、おおやまはあまり兄のことを話したがらなかったのではないか。そして、美奈はさらにわるいことを考えていた。
 この事件は恨みを残した怨念霊が関係している。その怨念霊に、秋田を当てはめたのだ。ということは、もう秋田は生きていないということになる。美奈は心の中で、千尋に尋ねた。
「その可能性はあります。でも、そのお客さんに霊の気配は感じられませんでした。美奈さんが北村先生を接待していた同じ時間におおやまさんが来ていたとのことですが、もしそのような悪想念を抱いた霊がおおやまさんに憑いていれば、私がその気配を逃すことはありません。でも、何も感じませんでした。少なくとも、さっきのおおやまさんには人を害するほどの悪想念を持った霊は憑いていません」
 千尋は美奈の心に話しかけた。今は大岩に裕子の兄かもしれない人の霊は憑いていない。ということは、誰か他の人に憑依している。それは殺人事件の犯人だろうか。もし大岩が連続殺人事件に関係しているなら、裕子が危険になるかもしれない。美奈は裕子の身が案じられた。
「裕子さん、ひょっとしたら、そのおおやまさんという人は、連続殺人事件に何らかの関係があるかもしれません。このままでは、裕子さんが危険に晒されるかもしれないわ。お客さんのプライバシーの問題もあるけど、何なら私がよく知っている刑事さんに相談してみましょうか? その刑事さんならプライバシーなんかにも配慮してくれますから」
 美奈は千尋の生前の誕生日である八月一〇日に、興味半分で事件に首を突っ込んだりしない、と千尋に約束したので、事件のことは三浦に任せようと思った。
 裕子は即答できなかった。兄のことがわかるのが恐ろしくもある。兄が何かわるいことに関わっているのではないか? いや、最悪の場合、もう生きていないのではないか?
 しばらく考えた末、裕子は 「お願いします。その刑事さんに会わせてください」 と返事をした。その刑事が美奈の彼氏なのか、という好奇心も手伝った。



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