今度、いじめをテーマにした中編小説を書いてみようと思います。
いじめの問題を、ミステリータッチで描いてみるつもりです。
ある程度の構想を立てていますが、どのようなものになるか、書いてみないとわかりません。
うまく書けたら、どこかの文学賞、新人賞に応募してみたいと考えています。
今回は『ミッキ』2回目の掲載です。
2
鳥居松高校の入学式の日、両親は寮の仕事で忙しく、どうしても入学式には付き添えなかった。私は子供じゃないから大丈夫、と言ったものの、やはり心細いという気持ちはぬぐえなかった。
三月の下旬にこの寮に来て、前任の人から一通り仕事について説明を受けただけで、すぐ寮長寮母としての仕事をやらなければならないので、両親が大変だということは、私もよく理解しているつもりだった。早朝から一〇〇人近い寮生の食事を作らなければならない。練達したパートさんが三人いるとはいえ、まだ勤め始めて二週間ほどしか経たないのに、手際よく食事の準備をしなければならないので、とても私の入学式の付き添いに来られるはずがない。
慎二はまだ小学五年生なので、転校の手続きなど、母が付き添うのは当然と理解していた。
わかってはいるつもりだが、高校の入学式に一人だけで行くというのは、寂しかった。
JR中央本線の春日井駅から高校への道をたどる。周りには同じ高校の入学式に行く生徒たちが、保護者同伴で歩いて行く。
校門を入り、入学式が行われる体育館の近くに行く。入り口付近に、クラスを示した掲示があった。私はあまり視力がよくないので、自分の名前を探すために、メガネをかけた。メガネは必要なときだけかけることにしている。
私は一年D組だった。まず一年D組の教室に行った。校舎の案内図があったので、教室はすぐにわかった。保護者は体育館で待機することになっていた。
教室に入ると、机に名前を書いた紙がテープで貼ってあったので、名前が書いてある席に着いた。
教室にはもう半分くらいの生徒が入っている。中にはもう話し合っている人たちもいるが、一人も知人がいない私は、自分の席で、じっとしていた。私の友人はみんな名古屋市内の高校に進学した。私が卒業した上野中学校から鳥居松高校に進学した人も何人かいるが、ほとんど面識がない人ばかりで、それにD組には一人もいなかった。
チャイムが鳴って、担任と思われる先生が教室に入ってきた。がっしりした体格の、男の先生だった。
先生は「私がこの一年間、諸君の担任を受け持つ、小川だ」と自己紹介した。教科は国語だそうだ。一年D組では、現代国語、古文、漢文を教えてくれるという。
まずは入学式が行われる体育館に移動することになった。
高校の入学式といっても、鳥居松高校の場合は、中学校の入学式と大して違わなかった。最初に国歌「君が代」を斉唱し、校長先生の式辞やPTA会長の話などが続いた。それから、在校生による歓迎の言葉、担任等の紹介、最後に校歌を歌って終了となる。
最近、国歌や国旗のことで、いろいろ問題になっているようだ。
国歌斉唱のとき、起立せず、処分を受けた先生もいる、と聞いている。
私にはなぜ国歌、国旗がいけないのか、理解できない。日本人である以上、国歌、国旗に親しむのは当たり前じゃないかと思う。私も君が代の歌詞を知っているし、別にわるいものではないと思う。日本の繁栄を祈る歌だと教えてもらった。
教員組合が反対している、という話も聞いたことがある。でも、生徒を指導しなければならない立場の先生方が、なぜ国歌、国旗に反対なのか、よくわからない。私は日本という国が大好きなので、国は大切にしなければならないと思う。
もちろん「教え子を戦場に送らない」というスローガンには、大いに賛成だ。私だって戦争はいやだし、二度と戦争を起こしてはならないと思う。
でも、だからといって、国歌、国旗がすぐに戦争に結びつくとは思わない。今、国なんてどうでもいい、自分たちには関係ない、という子供が多い。そちらのほうこそ問題ではないかと思う。
私の伯母――父の姉に当たる人だが、最近まで小学校の先生をやっていた。伯母は教員組合の活動家だったそうだ。執行委員をやって、反戦平和運動や護憲運動に力を入れていたと聞いている。ときどき伯母から組合活動の話を聞かされたことがあった。そんな伯母に対し、父は「美咲にあまり過激なことは吹き込まないでくれ」と苦々しく思っているようだ。
しかし、私だって、実際のところ、よくわからない。入学早々そんな難しいことを考えるのは、やめにしよう。これからじっくり考えればいい。私も将来の進路として、先生になることも考えている。先生になれば、教員組合にも入らなければならないかもしれない。
入学式が終わり、教室に戻った。教室で担任の先生による指導があった。体育館では、父母を対象に、説明会が行われている。うちは両親が来られないので、後日、都合がいいときに保護者が学校に来て、個別に話を聞くことになっている。
体育館での説明会が終わり、父母が教室にやってきた。教室での指導も終わり、保護者と一緒に帰宅することとなる。
生徒たちは自分の父母を探し出し、一緒になって家路についた。親子揃って記念撮影をしている家族も多い。でも私は一人で帰らなければならない。
すると、後ろから、「おい、美咲、こっちだ」と父の声が聞こえてきた。声の方を見ると、父が手を振っていた。あまり視力がよくない私だが、何とか父の姿を判別することができた。
父が寮のライトバンで来てくれた。寮で必要な物資を仕入れに行くついでに寄った、とのことだったが、それでも来てくれたのはとても嬉しかった。
入学式には間に合わなかったが、体育館での説明会には出てくれたそうだ。説明会終了後に納めることになっている入学金と授業料も支払ってきた、という。
私は父が運転する車に乗り込んだ。父は「これから食材などを仕入れに名古屋の支社まで行くが、一緒に行くか? それとも電車で帰るか? 帰るなら、春日井駅まで送るぞ」と私に訊いた。今日は特に何もすることがなかったので、一度父が新しい仕事をする姿を見たいと思い、一緒に行く、と答えた。私は子供のころは車に弱く、よく乗り物酔いをしたが、最近は車にも強くなった。
父は車を国道一九号線を名古屋方面に飛ばした。
「入学式はどうだった?」
運転しながら、父が訊いた。
「うん、中学校のときとそう変わらなかった」
「式には行ってやれず、すまんかったな」
「仕事が忙しいから、しょうがないよ。お父さんもお母さんも、朝から何十人分もの食事、作らなきゃいけないから」
「パートのおばさんたちがいるから助かってるけど、まだ慣れないからな。母さんはともかく、俺はあんなふうに食事作るのなんて、初めてだから」
「お父さんは工場が忙しくて、家事を手伝うことなんて、めったになかったもんね。お母さんが交通事故に遭ったときも、高熱出して動けないときでも、何にもしてくれなかったし」
私は少しだけ恨みがましく、父に言った。
「それについてはすまないと思っている。でも、工場の方を見てないわけにはいかなかったし。おまえがしっかりしていて、母さんを助けてくれたから助かるよ。俺だって、家族を大切に思っている。家族をお金で不自由させないようにと、自分なりに頑張ってきたつもりだ。結局だめになってしまったが」
「私は経営のことはわからないけど、でも中小企業は厳しいんでしょう」
「元気な名古屋だとか、万博、新空港だ、なんてはしゃいでいるけど、儲かっているのは大企業ばかりで、うちのような中小は、上からコスト削減ばかり押しつけられて、何とも首が回らない状態になってしまったからな」
父は無念そうに言った。新聞やテレビなどを見ていると、元気な名古屋、元気な愛知ばかりが強調され、愛・地球博や中部国際空港開港で盛り上がる状況が報道される。トヨタは世界一を視野に入れ、関連企業も好調で、愛知県は日本経済の牽引役と言われている。しかし、そんな中で、うちの鮎川自動車のように、絶えず親会社から単価切り下げや品質向上を強要され、無理を重ねて、とうとう刀折れ矢尽きる状態になってしまった中小企業も多いと聞いている。大企業の繁栄は、中小零細企業や、労働者からの搾取の上で成り立っているのかもしれない。
「そんなことより、学校はどうだ? なじめそうか?」
父は話題を変えた。子供相手に、そんな暗い話をしたくないようだった。
「まだ今日が初めてだから、よくわからないよ。同じ中学から来た人は、みんなほかのクラスに行っちゃって、知らない子ばかりだし。担任の小川先生は、ごつくて、少し怖そうな感じだけど」
「まあ、高校の先生なら、少し怖そうなほうがいいかもしれんな。あんまりなよなよしてては、生徒になめられてしまうから」
大曽根付近に来ると、オズモールなどの商店街は、以前ときどき友達と歩いたことがあるところなので、懐かしい思いがした。
車は徳川園の近くから出(で)来(き)町(まち)線に入り、東へと向かった。つい最近まで私たちの家族が住んでいた家の近くを通った。以前住んでいた家は、ナゴヤドームの近くだった。父と慎二が大のドラゴンズファンで、ドームにはよく応援に行った。岡山県出身の母はジャイアンツファンだ。大学や高校もすぐ近くにある。父が「まだ前の家を出てほんの二週間ぐらいしか経っていないのに、ずいぶん昔のことのように思われるな」としみじみと感情を込めて言った。
寮を運営する会社の名古屋支社は、茶屋が坂の赤坂町というところにあった。その支社の近くにも、会社が運営する学生寮がある。その寮は、地下鉄駅に近く、地下鉄の沿線にはいくつかの大学があり、通学には便利な位置にあった。寮も男子寮、女子寮と揃っており、私たちが住んでいる高蔵寺の女子寮より、さらに規模が大きい。地下鉄が延伸する少し前に、大きく拡張したと聞いている。だから、外見は高蔵寺寮よりずっと新しい。
その支社は、以前私たちが住んでいた家から、そんなに遠くない。その会社の支社長さんが、私の父の自動車部品工場を知っており、父の人柄も人から聞いていたので、採用してくれたそうだ。
父は支社の人と一緒に、今日の夕飯と明日の朝食の食材を車に積んだ。高蔵寺の寮と、守山区の男子寮の分の食材を積み、これから守山寮にも届けるのだそうだ。食事のレシピは、二、三日前には、寮のパソコンに詳しいものが送られてくる。
父の車は谷口から北に折れ、ガイドウェイバスの高架に沿って走っていった。途中で守山寮に寄り、食材を下ろした。守山寮はJR中央本線の新守山駅と、ガイドウェイバスの守山市民病院駅の中間あたりにある。規模は高蔵寺寮より小さい。寮生の数は五〇人ちょっとだそうだ。帰りは名古屋多治見線、通称竜泉寺街道を走って、高蔵寺の寮に戻った。二時間あまりの父とのドライブだった。
いったん寮に戻り、遅めの昼食を食べてから、私は高蔵寺駅まで行って、通学用の定期券を購入した。
いじめの問題を、ミステリータッチで描いてみるつもりです。
ある程度の構想を立てていますが、どのようなものになるか、書いてみないとわかりません。
うまく書けたら、どこかの文学賞、新人賞に応募してみたいと考えています。
今回は『ミッキ』2回目の掲載です。
2
鳥居松高校の入学式の日、両親は寮の仕事で忙しく、どうしても入学式には付き添えなかった。私は子供じゃないから大丈夫、と言ったものの、やはり心細いという気持ちはぬぐえなかった。
三月の下旬にこの寮に来て、前任の人から一通り仕事について説明を受けただけで、すぐ寮長寮母としての仕事をやらなければならないので、両親が大変だということは、私もよく理解しているつもりだった。早朝から一〇〇人近い寮生の食事を作らなければならない。練達したパートさんが三人いるとはいえ、まだ勤め始めて二週間ほどしか経たないのに、手際よく食事の準備をしなければならないので、とても私の入学式の付き添いに来られるはずがない。
慎二はまだ小学五年生なので、転校の手続きなど、母が付き添うのは当然と理解していた。
わかってはいるつもりだが、高校の入学式に一人だけで行くというのは、寂しかった。
JR中央本線の春日井駅から高校への道をたどる。周りには同じ高校の入学式に行く生徒たちが、保護者同伴で歩いて行く。
校門を入り、入学式が行われる体育館の近くに行く。入り口付近に、クラスを示した掲示があった。私はあまり視力がよくないので、自分の名前を探すために、メガネをかけた。メガネは必要なときだけかけることにしている。
私は一年D組だった。まず一年D組の教室に行った。校舎の案内図があったので、教室はすぐにわかった。保護者は体育館で待機することになっていた。
教室に入ると、机に名前を書いた紙がテープで貼ってあったので、名前が書いてある席に着いた。
教室にはもう半分くらいの生徒が入っている。中にはもう話し合っている人たちもいるが、一人も知人がいない私は、自分の席で、じっとしていた。私の友人はみんな名古屋市内の高校に進学した。私が卒業した上野中学校から鳥居松高校に進学した人も何人かいるが、ほとんど面識がない人ばかりで、それにD組には一人もいなかった。
チャイムが鳴って、担任と思われる先生が教室に入ってきた。がっしりした体格の、男の先生だった。
先生は「私がこの一年間、諸君の担任を受け持つ、小川だ」と自己紹介した。教科は国語だそうだ。一年D組では、現代国語、古文、漢文を教えてくれるという。
まずは入学式が行われる体育館に移動することになった。
高校の入学式といっても、鳥居松高校の場合は、中学校の入学式と大して違わなかった。最初に国歌「君が代」を斉唱し、校長先生の式辞やPTA会長の話などが続いた。それから、在校生による歓迎の言葉、担任等の紹介、最後に校歌を歌って終了となる。
最近、国歌や国旗のことで、いろいろ問題になっているようだ。
国歌斉唱のとき、起立せず、処分を受けた先生もいる、と聞いている。
私にはなぜ国歌、国旗がいけないのか、理解できない。日本人である以上、国歌、国旗に親しむのは当たり前じゃないかと思う。私も君が代の歌詞を知っているし、別にわるいものではないと思う。日本の繁栄を祈る歌だと教えてもらった。
教員組合が反対している、という話も聞いたことがある。でも、生徒を指導しなければならない立場の先生方が、なぜ国歌、国旗に反対なのか、よくわからない。私は日本という国が大好きなので、国は大切にしなければならないと思う。
もちろん「教え子を戦場に送らない」というスローガンには、大いに賛成だ。私だって戦争はいやだし、二度と戦争を起こしてはならないと思う。
でも、だからといって、国歌、国旗がすぐに戦争に結びつくとは思わない。今、国なんてどうでもいい、自分たちには関係ない、という子供が多い。そちらのほうこそ問題ではないかと思う。
私の伯母――父の姉に当たる人だが、最近まで小学校の先生をやっていた。伯母は教員組合の活動家だったそうだ。執行委員をやって、反戦平和運動や護憲運動に力を入れていたと聞いている。ときどき伯母から組合活動の話を聞かされたことがあった。そんな伯母に対し、父は「美咲にあまり過激なことは吹き込まないでくれ」と苦々しく思っているようだ。
しかし、私だって、実際のところ、よくわからない。入学早々そんな難しいことを考えるのは、やめにしよう。これからじっくり考えればいい。私も将来の進路として、先生になることも考えている。先生になれば、教員組合にも入らなければならないかもしれない。
入学式が終わり、教室に戻った。教室で担任の先生による指導があった。体育館では、父母を対象に、説明会が行われている。うちは両親が来られないので、後日、都合がいいときに保護者が学校に来て、個別に話を聞くことになっている。
体育館での説明会が終わり、父母が教室にやってきた。教室での指導も終わり、保護者と一緒に帰宅することとなる。
生徒たちは自分の父母を探し出し、一緒になって家路についた。親子揃って記念撮影をしている家族も多い。でも私は一人で帰らなければならない。
すると、後ろから、「おい、美咲、こっちだ」と父の声が聞こえてきた。声の方を見ると、父が手を振っていた。あまり視力がよくない私だが、何とか父の姿を判別することができた。
父が寮のライトバンで来てくれた。寮で必要な物資を仕入れに行くついでに寄った、とのことだったが、それでも来てくれたのはとても嬉しかった。
入学式には間に合わなかったが、体育館での説明会には出てくれたそうだ。説明会終了後に納めることになっている入学金と授業料も支払ってきた、という。
私は父が運転する車に乗り込んだ。父は「これから食材などを仕入れに名古屋の支社まで行くが、一緒に行くか? それとも電車で帰るか? 帰るなら、春日井駅まで送るぞ」と私に訊いた。今日は特に何もすることがなかったので、一度父が新しい仕事をする姿を見たいと思い、一緒に行く、と答えた。私は子供のころは車に弱く、よく乗り物酔いをしたが、最近は車にも強くなった。
父は車を国道一九号線を名古屋方面に飛ばした。
「入学式はどうだった?」
運転しながら、父が訊いた。
「うん、中学校のときとそう変わらなかった」
「式には行ってやれず、すまんかったな」
「仕事が忙しいから、しょうがないよ。お父さんもお母さんも、朝から何十人分もの食事、作らなきゃいけないから」
「パートのおばさんたちがいるから助かってるけど、まだ慣れないからな。母さんはともかく、俺はあんなふうに食事作るのなんて、初めてだから」
「お父さんは工場が忙しくて、家事を手伝うことなんて、めったになかったもんね。お母さんが交通事故に遭ったときも、高熱出して動けないときでも、何にもしてくれなかったし」
私は少しだけ恨みがましく、父に言った。
「それについてはすまないと思っている。でも、工場の方を見てないわけにはいかなかったし。おまえがしっかりしていて、母さんを助けてくれたから助かるよ。俺だって、家族を大切に思っている。家族をお金で不自由させないようにと、自分なりに頑張ってきたつもりだ。結局だめになってしまったが」
「私は経営のことはわからないけど、でも中小企業は厳しいんでしょう」
「元気な名古屋だとか、万博、新空港だ、なんてはしゃいでいるけど、儲かっているのは大企業ばかりで、うちのような中小は、上からコスト削減ばかり押しつけられて、何とも首が回らない状態になってしまったからな」
父は無念そうに言った。新聞やテレビなどを見ていると、元気な名古屋、元気な愛知ばかりが強調され、愛・地球博や中部国際空港開港で盛り上がる状況が報道される。トヨタは世界一を視野に入れ、関連企業も好調で、愛知県は日本経済の牽引役と言われている。しかし、そんな中で、うちの鮎川自動車のように、絶えず親会社から単価切り下げや品質向上を強要され、無理を重ねて、とうとう刀折れ矢尽きる状態になってしまった中小企業も多いと聞いている。大企業の繁栄は、中小零細企業や、労働者からの搾取の上で成り立っているのかもしれない。
「そんなことより、学校はどうだ? なじめそうか?」
父は話題を変えた。子供相手に、そんな暗い話をしたくないようだった。
「まだ今日が初めてだから、よくわからないよ。同じ中学から来た人は、みんなほかのクラスに行っちゃって、知らない子ばかりだし。担任の小川先生は、ごつくて、少し怖そうな感じだけど」
「まあ、高校の先生なら、少し怖そうなほうがいいかもしれんな。あんまりなよなよしてては、生徒になめられてしまうから」
大曽根付近に来ると、オズモールなどの商店街は、以前ときどき友達と歩いたことがあるところなので、懐かしい思いがした。
車は徳川園の近くから出(で)来(き)町(まち)線に入り、東へと向かった。つい最近まで私たちの家族が住んでいた家の近くを通った。以前住んでいた家は、ナゴヤドームの近くだった。父と慎二が大のドラゴンズファンで、ドームにはよく応援に行った。岡山県出身の母はジャイアンツファンだ。大学や高校もすぐ近くにある。父が「まだ前の家を出てほんの二週間ぐらいしか経っていないのに、ずいぶん昔のことのように思われるな」としみじみと感情を込めて言った。
寮を運営する会社の名古屋支社は、茶屋が坂の赤坂町というところにあった。その支社の近くにも、会社が運営する学生寮がある。その寮は、地下鉄駅に近く、地下鉄の沿線にはいくつかの大学があり、通学には便利な位置にあった。寮も男子寮、女子寮と揃っており、私たちが住んでいる高蔵寺の女子寮より、さらに規模が大きい。地下鉄が延伸する少し前に、大きく拡張したと聞いている。だから、外見は高蔵寺寮よりずっと新しい。
その支社は、以前私たちが住んでいた家から、そんなに遠くない。その会社の支社長さんが、私の父の自動車部品工場を知っており、父の人柄も人から聞いていたので、採用してくれたそうだ。
父は支社の人と一緒に、今日の夕飯と明日の朝食の食材を車に積んだ。高蔵寺の寮と、守山区の男子寮の分の食材を積み、これから守山寮にも届けるのだそうだ。食事のレシピは、二、三日前には、寮のパソコンに詳しいものが送られてくる。
父の車は谷口から北に折れ、ガイドウェイバスの高架に沿って走っていった。途中で守山寮に寄り、食材を下ろした。守山寮はJR中央本線の新守山駅と、ガイドウェイバスの守山市民病院駅の中間あたりにある。規模は高蔵寺寮より小さい。寮生の数は五〇人ちょっとだそうだ。帰りは名古屋多治見線、通称竜泉寺街道を走って、高蔵寺の寮に戻った。二時間あまりの父とのドライブだった。
いったん寮に戻り、遅めの昼食を食べてから、私は高蔵寺駅まで行って、通学用の定期券を購入した。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます