旧約聖書においても、イエス・キリストの言葉においても、私たち神に従う者は羊に例えられています。それは、羊の性質が私たちの性質に似ている、擬えられる部分が有るからです。
羊は視力があまり良くなく、かなり近いものしかはっきり見ることができないそうです。また、臆病で不器用なところが有るということです。そのため、目の前を先導してくれる人や動物について行かなければなりませんし、それを見失うと簡単に迷ってしまうことになるそうです。そして、視力が良くないことと臆病なことのせいで、時には自分の影にも怯えて動けなくなる場合も有るということです。
詩編二十三編には羊飼いが羊を水のほとりに連れて行く描写がされています。プロテスタントの聖書では「憩の」と訳される語は、メヌーカーというように読めるヘブル語ですが、カトリック系の聖書では「静かな」と訳されことが多いようです。英語ではもう少し違った語感のstill が使われることが多いようです。stillはじっとしている感覚が有り、その場合は水面が波立っていない穏やかな様子で、鏡のような滑らかな水面を想像することになります。一説には、羊はひどく不器用で、水面が波立っていると上手に水が飲めないため、水面が穏やかな水源が必要なのだということです。
さて、それでは私たちはどのような点でそういう羊に似ている面が有るのでしょうか。
先ず、視力が悪いという点です。私たちはあまり先を読むということに長けた存在ではありません。しかし、世間では長期的展望に立って考えることを奨励します。そのことが逆にプレッシャーやストレスになったりしています。しかし、いくら考えても人間には限界が有ります。以前花形産業であったものには当時多くの人達が群がり、関連産業で仕事を得れば一生安泰と思ったけれど、気が付けば斜陽産業になっていたなどという話はよく聞きます。
実は、神様は私たちがそういう長期的展望に立つことをあまり要求してはおられないように思います。山上の垂訓でも、イエス・キリストは今日は咲いていても明日は炉に投げ込まれてしまうかもしれない野の草でさえ美しく装わせているが、人間はもっと大事な存在であり、神に気にかけられている存在であるから明日を思い煩うなと言っておられます。そして、その直前の例えでも、金持ちの畑が豊作であったので倉を建てて「この先何年分もの食料が有る」という長期的展望に立った発言をしましたが、翌日に亡くなってしまったというお話をしています。それがキリストの弟子たちの共通の理解であっただろうことは、ヤコブの手紙四章十三節~十五節の記述からもうかがえます。私たちは明日のこともわからない存在であると言っています。
ですから、私たちの実践は、毎日目の前の必要なことを一心にこなしていくことで充分であると自覚することであると思います。勿論予定が立っている事柄であればきちんと備えて、締切等に間に合うように気を付けたりすることは必要です。
また、物事の判断にあまり人間は長けていないということであると思います。羊が自分の影に怯えたり立ち止まってしまったり迷ってしまったりするように、私たちも自分の目の前の出来事が実はあまりはっきり把握できてなくて怯えたり迷ったりします。そうならないためには、私たちはどうすれば良いのでしょうか。心を定めて羊飼いであるキリストの教えを一心に追い求めるしかないように思います。導き手は全能なる神であることに全幅の信頼を置いて、くよくよ、びくびくせずに歩みことでしょう。そして、前出の山上の垂訓や「神は私たちと共に働いて、万事を益としてくださる。」(ローマ人への手紙八章二十八節糸田的抜粋)というような奥義書の言葉を毎日思い出して生活することでしょう。
静かで穏やかな水源に導いてくださるという点については、一説ということで、原語研究からは誰もが支持できる内容とは言い難いかもしれません。しかし、そういう面は有るのではないかと私は思います。水はへブル文学においては困難の象徴でもあります。洪水や荒れた海、航路のイメージが有るからです。しかし、そういう水ではなく、穏やかな水源に神様は導いてくださるという面は確かに有ると言えます。私たちは上手に困難を取り扱うことはできないかもしれません。しかし、そういう私たちの弱さを神様はご存知で、平安のうちに導いくださるということです。私たちには、それを信じる信仰さえ有れば良いのです。「神は耐えられないような試練にあわせることがなく、逃れの道も備えてくださる。」(コリント人への第一の手紙十章十三節糸田的抜粋)と奥義書にも記されているからです。
羊のもう一つの特徴は反芻することです。反芻することは、モーセを通して与えられた律法の中で、清い動物の条件の一つにもなっています。その理由は聖書だけ読んでも良く分かりません。一説によると、草をくり返し噛んで消化することを、神の言葉をくり返し確認して理解を深めることに関連付けて考えるものだということです。確かに私達忍者にはそういう心構えと実践が必要です。それ無しには、間違った思考、偽りや欺きの思考を退けて、神に属する者らしく歩くことは不可能です。私が自動車で牧場を通ると、羊はどの時間帯でも下を向いて草を食んでいます。思いの領域は、神の言葉と悪魔の言葉の戦場です。ですから羊がひっきりなしに草を食むように、私達忍者も、何時も思考の中に奥義書の言葉を取り入れ、思いめぐらすことが不可欠です。
羊は弱い動物です。人は羊に例えられるぐらいなら、ライオンのような強い動物に例えられたいと思うかもしれません。しかし、現実を見れば、私たちは羊に例えられても仕方ないような弱い存在であることは明らかなのではないでしょうか。意地を張ってもしょうがないのではないかと思います。時には、奥義書の言葉に力を得られない、聖霊充満で生きていないような気がして惨めな思いがする、などの気持ちになることも有るかもしれません。しかし、私たちは所詮羊のような存在です。そして、神様はそれをご存知な上で私たちを愛していてくださり、導いていてくださるのです。在りのままにその現実を受け入れて、明日をも思い煩わない心構えで生活することが、本来の地道で力強い信仰の歩みであり、忍者が心掛け、目指さなければならないことではないかと思います。
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羊は視力があまり良くなく、かなり近いものしかはっきり見ることができないそうです。また、臆病で不器用なところが有るということです。そのため、目の前を先導してくれる人や動物について行かなければなりませんし、それを見失うと簡単に迷ってしまうことになるそうです。そして、視力が良くないことと臆病なことのせいで、時には自分の影にも怯えて動けなくなる場合も有るということです。
詩編二十三編には羊飼いが羊を水のほとりに連れて行く描写がされています。プロテスタントの聖書では「憩の」と訳される語は、メヌーカーというように読めるヘブル語ですが、カトリック系の聖書では「静かな」と訳されことが多いようです。英語ではもう少し違った語感のstill が使われることが多いようです。stillはじっとしている感覚が有り、その場合は水面が波立っていない穏やかな様子で、鏡のような滑らかな水面を想像することになります。一説には、羊はひどく不器用で、水面が波立っていると上手に水が飲めないため、水面が穏やかな水源が必要なのだということです。
さて、それでは私たちはどのような点でそういう羊に似ている面が有るのでしょうか。
先ず、視力が悪いという点です。私たちはあまり先を読むということに長けた存在ではありません。しかし、世間では長期的展望に立って考えることを奨励します。そのことが逆にプレッシャーやストレスになったりしています。しかし、いくら考えても人間には限界が有ります。以前花形産業であったものには当時多くの人達が群がり、関連産業で仕事を得れば一生安泰と思ったけれど、気が付けば斜陽産業になっていたなどという話はよく聞きます。
実は、神様は私たちがそういう長期的展望に立つことをあまり要求してはおられないように思います。山上の垂訓でも、イエス・キリストは今日は咲いていても明日は炉に投げ込まれてしまうかもしれない野の草でさえ美しく装わせているが、人間はもっと大事な存在であり、神に気にかけられている存在であるから明日を思い煩うなと言っておられます。そして、その直前の例えでも、金持ちの畑が豊作であったので倉を建てて「この先何年分もの食料が有る」という長期的展望に立った発言をしましたが、翌日に亡くなってしまったというお話をしています。それがキリストの弟子たちの共通の理解であっただろうことは、ヤコブの手紙四章十三節~十五節の記述からもうかがえます。私たちは明日のこともわからない存在であると言っています。
ですから、私たちの実践は、毎日目の前の必要なことを一心にこなしていくことで充分であると自覚することであると思います。勿論予定が立っている事柄であればきちんと備えて、締切等に間に合うように気を付けたりすることは必要です。
また、物事の判断にあまり人間は長けていないということであると思います。羊が自分の影に怯えたり立ち止まってしまったり迷ってしまったりするように、私たちも自分の目の前の出来事が実はあまりはっきり把握できてなくて怯えたり迷ったりします。そうならないためには、私たちはどうすれば良いのでしょうか。心を定めて羊飼いであるキリストの教えを一心に追い求めるしかないように思います。導き手は全能なる神であることに全幅の信頼を置いて、くよくよ、びくびくせずに歩みことでしょう。そして、前出の山上の垂訓や「神は私たちと共に働いて、万事を益としてくださる。」(ローマ人への手紙八章二十八節糸田的抜粋)というような奥義書の言葉を毎日思い出して生活することでしょう。
静かで穏やかな水源に導いてくださるという点については、一説ということで、原語研究からは誰もが支持できる内容とは言い難いかもしれません。しかし、そういう面は有るのではないかと私は思います。水はへブル文学においては困難の象徴でもあります。洪水や荒れた海、航路のイメージが有るからです。しかし、そういう水ではなく、穏やかな水源に神様は導いてくださるという面は確かに有ると言えます。私たちは上手に困難を取り扱うことはできないかもしれません。しかし、そういう私たちの弱さを神様はご存知で、平安のうちに導いくださるということです。私たちには、それを信じる信仰さえ有れば良いのです。「神は耐えられないような試練にあわせることがなく、逃れの道も備えてくださる。」(コリント人への第一の手紙十章十三節糸田的抜粋)と奥義書にも記されているからです。
羊のもう一つの特徴は反芻することです。反芻することは、モーセを通して与えられた律法の中で、清い動物の条件の一つにもなっています。その理由は聖書だけ読んでも良く分かりません。一説によると、草をくり返し噛んで消化することを、神の言葉をくり返し確認して理解を深めることに関連付けて考えるものだということです。確かに私達忍者にはそういう心構えと実践が必要です。それ無しには、間違った思考、偽りや欺きの思考を退けて、神に属する者らしく歩くことは不可能です。私が自動車で牧場を通ると、羊はどの時間帯でも下を向いて草を食んでいます。思いの領域は、神の言葉と悪魔の言葉の戦場です。ですから羊がひっきりなしに草を食むように、私達忍者も、何時も思考の中に奥義書の言葉を取り入れ、思いめぐらすことが不可欠です。
羊は弱い動物です。人は羊に例えられるぐらいなら、ライオンのような強い動物に例えられたいと思うかもしれません。しかし、現実を見れば、私たちは羊に例えられても仕方ないような弱い存在であることは明らかなのではないでしょうか。意地を張ってもしょうがないのではないかと思います。時には、奥義書の言葉に力を得られない、聖霊充満で生きていないような気がして惨めな思いがする、などの気持ちになることも有るかもしれません。しかし、私たちは所詮羊のような存在です。そして、神様はそれをご存知な上で私たちを愛していてくださり、導いていてくださるのです。在りのままにその現実を受け入れて、明日をも思い煩わない心構えで生活することが、本来の地道で力強い信仰の歩みであり、忍者が心掛け、目指さなければならないことではないかと思います。


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