goo blog サービス終了のお知らせ 

糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

私たちが羊に例えられることの意味

2013-11-17 22:16:04 | 忍者的思索・忍界
 旧約聖書においても、イエス・キリストの言葉においても、私たち神に従う者は羊に例えられています。それは、羊の性質が私たちの性質に似ている、擬えられる部分が有るからです。

 羊は視力があまり良くなく、かなり近いものしかはっきり見ることができないそうです。また、臆病で不器用なところが有るということです。そのため、目の前を先導してくれる人や動物について行かなければなりませんし、それを見失うと簡単に迷ってしまうことになるそうです。そして、視力が良くないことと臆病なことのせいで、時には自分の影にも怯えて動けなくなる場合も有るということです。
 詩編二十三編には羊飼いが羊を水のほとりに連れて行く描写がされています。プロテスタントの聖書では「憩の」と訳される語は、メヌーカーというように読めるヘブル語ですが、カトリック系の聖書では「静かな」と訳されことが多いようです。英語ではもう少し違った語感のstill が使われることが多いようです。stillはじっとしている感覚が有り、その場合は水面が波立っていない穏やかな様子で、鏡のような滑らかな水面を想像することになります。一説には、羊はひどく不器用で、水面が波立っていると上手に水が飲めないため、水面が穏やかな水源が必要なのだということです。

 さて、それでは私たちはどのような点でそういう羊に似ている面が有るのでしょうか。

 先ず、視力が悪いという点です。私たちはあまり先を読むということに長けた存在ではありません。しかし、世間では長期的展望に立って考えることを奨励します。そのことが逆にプレッシャーやストレスになったりしています。しかし、いくら考えても人間には限界が有ります。以前花形産業であったものには当時多くの人達が群がり、関連産業で仕事を得れば一生安泰と思ったけれど、気が付けば斜陽産業になっていたなどという話はよく聞きます。
 実は、神様は私たちがそういう長期的展望に立つことをあまり要求してはおられないように思います。山上の垂訓でも、イエス・キリストは今日は咲いていても明日は炉に投げ込まれてしまうかもしれない野の草でさえ美しく装わせているが、人間はもっと大事な存在であり、神に気にかけられている存在であるから明日を思い煩うなと言っておられます。そして、その直前の例えでも、金持ちの畑が豊作であったので倉を建てて「この先何年分もの食料が有る」という長期的展望に立った発言をしましたが、翌日に亡くなってしまったというお話をしています。それがキリストの弟子たちの共通の理解であっただろうことは、ヤコブの手紙四章十三節~十五節の記述からもうかがえます。私たちは明日のこともわからない存在であると言っています。
 ですから、私たちの実践は、毎日目の前の必要なことを一心にこなしていくことで充分であると自覚することであると思います。勿論予定が立っている事柄であればきちんと備えて、締切等に間に合うように気を付けたりすることは必要です。
 また、物事の判断にあまり人間は長けていないということであると思います。羊が自分の影に怯えたり立ち止まってしまったり迷ってしまったりするように、私たちも自分の目の前の出来事が実はあまりはっきり把握できてなくて怯えたり迷ったりします。そうならないためには、私たちはどうすれば良いのでしょうか。心を定めて羊飼いであるキリストの教えを一心に追い求めるしかないように思います。導き手は全能なる神であることに全幅の信頼を置いて、くよくよ、びくびくせずに歩みことでしょう。そして、前出の山上の垂訓や「神は私たちと共に働いて、万事を益としてくださる。」(ローマ人への手紙八章二十八節糸田的抜粋)というような奥義書の言葉を毎日思い出して生活することでしょう。

 静かで穏やかな水源に導いてくださるという点については、一説ということで、原語研究からは誰もが支持できる内容とは言い難いかもしれません。しかし、そういう面は有るのではないかと私は思います。水はへブル文学においては困難の象徴でもあります。洪水や荒れた海、航路のイメージが有るからです。しかし、そういう水ではなく、穏やかな水源に神様は導いてくださるという面は確かに有ると言えます。私たちは上手に困難を取り扱うことはできないかもしれません。しかし、そういう私たちの弱さを神様はご存知で、平安のうちに導いくださるということです。私たちには、それを信じる信仰さえ有れば良いのです。「神は耐えられないような試練にあわせることがなく、逃れの道も備えてくださる。」(コリント人への第一の手紙十章十三節糸田的抜粋)と奥義書にも記されているからです。

 羊のもう一つの特徴は反芻することです。反芻することは、モーセを通して与えられた律法の中で、清い動物の条件の一つにもなっています。その理由は聖書だけ読んでも良く分かりません。一説によると、草をくり返し噛んで消化することを、神の言葉をくり返し確認して理解を深めることに関連付けて考えるものだということです。確かに私達忍者にはそういう心構えと実践が必要です。それ無しには、間違った思考、偽りや欺きの思考を退けて、神に属する者らしく歩くことは不可能です。私が自動車で牧場を通ると、羊はどの時間帯でも下を向いて草を食んでいます。思いの領域は、神の言葉と悪魔の言葉の戦場です。ですから羊がひっきりなしに草を食むように、私達忍者も、何時も思考の中に奥義書の言葉を取り入れ、思いめぐらすことが不可欠です。

 羊は弱い動物です。人は羊に例えられるぐらいなら、ライオンのような強い動物に例えられたいと思うかもしれません。しかし、現実を見れば、私たちは羊に例えられても仕方ないような弱い存在であることは明らかなのではないでしょうか。意地を張ってもしょうがないのではないかと思います。時には、奥義書の言葉に力を得られない、聖霊充満で生きていないような気がして惨めな思いがする、などの気持ちになることも有るかもしれません。しかし、私たちは所詮羊のような存在です。そして、神様はそれをご存知な上で私たちを愛していてくださり、導いていてくださるのです。在りのままにその現実を受け入れて、明日をも思い煩わない心構えで生活することが、本来の地道で力強い信仰の歩みであり、忍者が心掛け、目指さなければならないことではないかと思います。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

時が満ちて初子を産んだ

2013-11-17 22:14:14 | 日本のリバイバル考
 以前もこのカテゴリーで同じ内容のことに簡単に触れていますが、もう一度時字数を割いて書いておこうと思います。

 ルカによる福音書二章六節から七節にかけて「時が満ちて初子を産んだ」という内容の記述が有ります。「時が満ちて」というのは、直接的には母親の胎内で九ヶ月ほどが経ってということを示していますし、それ以外に聖書の記事が意味するところはありません。おわかりと思いますが、マリヤがイエス・キリストを産んだ場面の記述です。
 しかし、人類の歴史から考えても「時が満ち」という状況であったと考えることができる状況であったと思います。創世記に記された神のお考えからすると、人類の歴史の初期から救いが人類にもたらされることははっきりしていました。しかし、それはすぐさまもたらされることはありませんでした。然るべき期間が必要だったのです。では、それはどのような期間であったのでしょうか。
 第一に、神の性質と人間の性質を明らかにし、その上でどのような救いに向けた関係を築くことができるのかということを、しっかり確認する期間であったと思われます。そのために、神は全地を見わたし、神の全知と予知に従ってアブラハム、イスラエル民族を選び出して、徹底的にそれを教え備えていくということをなされました。
 第二に、神の救いの計画が広く人類に伝播するための環境が整うための期間であったと思われます。ユダヤ民族の政治的勢力やへブル語という原語には、そういう資質は無かったと考えてよいと思います。ですから、幅広い地域で通用する共通言語が確立されるアレキサンダー大王の時代まで神は待っておられました。これにより、新約聖書が書かれたコイネー・ギリシャ語が発展しました。更に、原語が確立されて直ぐではなく、ギリシャ帝国の後により政治的に安定したローマ帝国の時代になるまで、神は待っておられたのです。この背景により、キリストの弟子たちは遠くまで伝道に出かけることが可能になりましたし、福音書をはじめとする新約聖書が書かれて各地で読まれ、保存されることになりました。

 さて、私がここで申し上げたいことは、神様も人類の歩みに合わせて「時が満ち」るまで待たれるということをされたということです。そして、その「時が満ち」たということは、状況から判断することができたのです。
 このカテゴリーは日本のリバイバル考です。日本にリバイバルが来るということを明言する人達が出てくるようになって三、四十年経ちました。しかし、それは聖書を読んだ時にインスピレーションが与えられたというようなものや、他国でリバイバルが起きた時の人々の心の状態に近いとかいう判断基準によるものが殆どです。きちんと状況から判断した時に、本当に「時が満ち」ていると考えることができるでしょうか。私にはそう思えません。
 神様は戦略的な神様です。効果的に神様の救いの計画が人類に広がる環境が整う「時が満ち」るまで待たれました。同様に、日本のリバイバルを考える時も、そういう環境がもう少し整うまでの戦略も必要であり、それがある程度積み重ねられた時にプチ「時が満ち」という状況が出来上がり、その実を持って再び戦略的な取り組みが重ねられるというループが生じ始める時に、日本のリバイバルは始まっていますとか、日本にはリバイバルが来ますという宣言が、ただのスローガンではなく、具体的な展望をもってなされるようになるのだと思います。
 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

「後の雨」を待つ条件

2013-11-17 19:02:29 | 日本のリバイバル考
 日本のリバイバルを求める集会において、主が「後の雨」を注いでくださるようにという表現を聞く時が有ります。しかし、日本はこの表現は気軽に用いることができる状況にないと思います。お考えの異なる方々もいらっしゃることでしょうけれども、私の考えを述べておこうと思います。

 「後の雨」の雨が有るということは、「前の雨」も有るということです。当時のイスラエル地方の農耕においては、穀物の種を蒔く頃に一度雨が降り、それから刈り取りの時期の前にもう一度まとまった雨が降るということでした。それで、この収穫の前の雨が「後の雨」ということになるわけです。この雨の降り具合によって、その年の収穫が左右される部分が有ったわけです。
 さて、イスラエル民族は北王国も南王国も最終的には偶像礼拝に傾いて行ってしまいました。申命記に記された主との契約の通り、主は空を閉ざし、農作物がよく穫れないということが出て来たわけです。そこで、主に帰れば主が「後の雨」を降らせてくださるという告白がなされたりしたわけです。

 さて、ここでタイトルに示したように、「後の雨」を待つ条件を考えてみましょう。「後の雨」を期待するということは、前提条件として麦なり穀物が畑に蒔かれ、きちんと発芽して育ったということが必要になります。そして、その仕上げとなる雨が必要な時期になったという判断がされるということです。
 翻って日本のキリスト教宣教において、そういう霊的な収穫としての大覚醒が起きて、多くの人々の心が主に向き、信仰告白をして主に従う生活をするということが間近であるという判断はできるのでしょうか。まったくそういう状況にないというのが私の考えです。いや、もしかしたら、日本のキリスト教会は、ここ十数年は蒔きすらあまり効果的にせず、麦の穂もろくに見ていない状況なのに、「後の雨」さえ降れば収穫が有ると思い込んでいる虫のいい農夫のような状態になっていはしないかと思います。

 「後の雨」を待つならば、その条件として、きちんと耕して種を蒔き、それが「前の雨」のおかげできちんと発芽して育ったという前提条件が必要です。皆様にはそれが見える、見込めるのでしょうか?私は疑問に思います。先ず、襟を正してもう一度耕作と種蒔きの部分で努力をし、そこに「前の雨」と言える主の働きを期待するところから始めなければならない状況にないでしょうか。ご一考いただければ幸いです。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。